第12話 一組の勇者様と剣聖様
『からあげ定食、おいしい』
水無瀬が、スケッチブックをこちらに掲げた。字の横に、湯気の立つからあげの絵まで添えてある。
「だろ!? 学食のからあげ、けっこういけるよな!」
大河が身を乗り出した。トレーの上には、からあげ定食の大盛りが二つと、カレーが一皿。
「でも、うちの店のほうがうまいぜ。今度食いに来いよ、水無瀬」
水無瀬はこくこくとうなずいて、またからあげを一つ、小さな口でかじった。
昼休みの学食は、人でごった返していた。四人そろって学食に来たのは、これが初めてだ。
学食には、なんとなく決まった席がある。日当たりのいい窓際の真ん中は、一組の連中の指定席みたいになっていて、俺たち五組は、食器返却口の近くの隅っこ。誰が決めたわけでもないのに、入学して二週間で、もうそうなっていた。
「ひ、ひとが多いです……」
小日向は、きつねうどんの器を両手で抱えて縮こまっている。
「小日向、それで足りんのか?」
「わ、わたし、ふつうはこのくらいです。犬飼くんが、多すぎるんです……」
「そうかあ?」
〈湊。甘いものはないのか〉
フードの中から、ルルが催促してくる。今日のデザートは杏仁豆腐だったけれど、さすがに学食の真ん中でフードに差し入れるわけにはいかない。
「あとで、購買のどら焼きな」
小声で言うと、首の後ろで、ルルが嬉しそうに震えた。
「よう、翻訳野郎」
声がして、テーブルの上に影が落ちた。
御堂海斗だった。トレーを片手に、いつもの取り巻き二人を連れている。ごつい体格の権藤と、ひょろりとした細川。
「外れ同士で、仲良くお食事か。傷の舐め合いってやつ?」
「おっ、壁割りの大食いじゃん。まぐれでも嬉しかったか?」
権藤がにやにやしながら大河を見下ろす。大河の眉がぴくりと動いたけれど、何も言わなかった。
「臆病ちゃんもいるし」
細川が、小日向の顔をのぞきこむ。小日向は「ひゃっ」と言って、うどんの器ごと縮こまった。
それから、細川の目が、水無瀬の手元で止まった。
「お、こっちはしゃべれない子だっけ」
権藤が、テーブルの上のスケッチブックをひょいと取り上げた。
「なんだこれ。筆談帳?」
水無瀬の手が、宙で止まった。取り返そうとして、伸ばしかけた指が、そのまま固まる。
「『からあげ定食、おいしい』だってよ!」
権藤が、わざと大きな声で読み上げた。周りのテーブルから、くすくす笑いが起きる。
「しゃべりゃいいじゃん。声出してみろよ。ほら、『おいしい』って」
ページがめくられる。
「うわ、なんだこれ、毛玉の絵ばっか。かわいいでちゅねー」
細川がげらげら笑った。
水無瀬は、動かなかった。膝の上で、両手をぎゅっと握りしめている。前髪の奥の表情は見えない。でも、肩が、小さく震えていた。
――声出してみろよ。
その言葉が、頭の中で、何度も反響した。
図書室で見た、あの字。喉が固まるの。だれかに、つかまれてるみたいに。返事くらいしなさいって、言われたことがある。
気づいたら、俺は立ち上がっていた。
「返せ」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
権藤が、きょとんとした顔で俺を見た。
「あ?」
「それは、水無瀬の声だ」
学食のざわめきが、少しずつ引いていく。周りのテーブルの視線が集まってくるのがわかった。でも、どうでもよかった。
「お前が勝手に読んで、笑っていいもんじゃない。返せ」
腹の底が、冷たく煮えていた。
講堂で笑われたときも、廊下で御堂にからかわれたときも、こんなふうにはならなかった。自分のことなら、まあいいかで済ませられた。
でも、これは違う。
「……おい」
御堂が、トレーをテーブルに置いた。がちゃん、と食器が鳴る。
「外れが、誰に口きいてんだ」
御堂が一歩、踏み出してくる。俺より頭半分高い。見下ろされる。
「やる気か? Fランクが、Sに」
「ランクの話はしてない。返せって言ってる」
御堂の目が、すっと細くなった。
椅子が鳴った。大河が立ち上がっていた。背の高い御堂よりも、まだ大きい。大河は何も言わなかった。ただ、俺の隣に立っただけだ。
その反対側で、もう一つ、椅子が鳴った。
小日向だった。真っ青な顔で、膝をがくがく震わせながら、それでも立っていた。
「ひ……ひゃ……」
悲鳴になりかけた声を、自分の手で押さえこんでいる。
御堂の取り巻きが、ちょっとだけ後ずさった。御堂は動かなかった。俺も、動かなかった。
学食全体が、息をひそめていた。
「――くだらない」
声は、横から聞こえた。
大きくはない。でも、よく通る声だった。よく冷えた井戸水みたいに、冷たくて、澄んでいて。
振り向くと、トレーを持った女子が一人、通路に立っていた。
長身。黒髪のポニーテール。切れ長の目。入学式の日、講堂で【剣聖】のSを出した、あの女子だ。
鷹宮凛。
「食事の邪魔」
鷹宮は、それだけ言った。
それから、すっと権藤の前に手を伸ばし、スケッチブックを取り上げた。権藤は、抵抗しなかった。というより、できなかったみたいだった。鷹宮の手が触れた瞬間、冷たいものにでも触ったように、反射的に指を離していた。
「……鷹宮」
御堂が、苦い顔をした。何か言いかけて、やめる。それから、大きく舌打ちをした。
「……行くぞ」
トレーをひっつかんで、御堂は背を向けた。権藤と細川が、慌ててそのあとを追う。
〈ふん。あの金色のは、やかましいな〉
フードの中で、ルルがあきれたように言った。
学食に、少しずつざわめきが戻ってくる。俺は、ようやく息を吐いた。いつの間にか、拳を握りしめていたらしい。手のひらに爪のあとがついていた。
小日向が、へなへなと椅子に崩れ落ちた。
「こ……こわかった……です……」
「小日向、よく立ったな」
「た、立ってただけです……足、まだ震えてます……」
「湊、お前さ」
大河が、まじまじと俺の顔を見た。
「キレると、めちゃくちゃ怖えな。御堂よりこっちのほうがびびったぞ」
「……別に、キレてない」
「いや、キレてたって。声、地面の下から出てたもん」
そんなに低かったのか。自分ではよくわからない。
鷹宮は、俺の前に立っていた。
片手に、スケッチブック。もう片方の手のトレーには、焼き魚定食と、なぜかプリンが二つ載っている。
鷹宮は、無言でスケッチブックを差し出した。
受け取ろうとした、そのときだった。
首の後ろで、ふわふわがもぞりと動いた。
〈ほう〉
ぴょこん、と。
白い毛玉が、俺の肩口から顔を出した。
〈冷たい匂いの娘だ。それに……剣の匂いもする。剣の娘だな〉
鷹宮の耳に届いたのは、たぶん、きゅい、という小さな鳴き声だけだ。
鷹宮が、固まった。
スケッチブックを差し出した姿勢のまま、ぴくりとも動かない。切れ長の目が、ルルに釘づけになっている。
一秒。
二秒。
三秒。
学食の喧騒の中で、そこだけ時間が止まったみたいだった。
「……今の、何」
鷹宮が、ぽつりと言った。
俺は慌ててルルをフードに押し戻した。〈むぐ、無礼者〉と抗議の声が聞こえたけれど、無視した。
「……なんでもない」
「そう」
鷹宮は、そう言った。
言ったけれど、目は、まだ俺のフードを見ていた。じっと。何かを確かめるみたいに。ほんの少しだけ、名残惜しそうに見えたのは、たぶん気のせいだ。
「……これ」
鷹宮が、改めてスケッチブックを差し出す。
「ありがとう。……助かった」
俺が言うと、鷹宮は返事のかわりに、小さくまばたきを一つした。礼を言われ慣れていない人の顔だった。
受け取るとき、指先が触れた。
冷たかった。
びっくりするほど、冷たかった。氷を握っていたみたいな指だった。窓の外では、桜の花びらがまだ散り残っている。四月の、昼下がりの学食で。
鷹宮は何も言わずに手を引っこめると、トレーを持ち直して、窓際の席とは反対の、誰もいない隅のテーブルへ一人で歩いていった。
スケッチブックを返すと、水無瀬はそれを胸にぎゅっと抱きしめて、深く頭を下げた。それから、表紙をそっとなでた。汚れていないか、確かめるみたいに。
俺は、自分の指先を見つめていた。
まだ、冷たさが残っている。触れたのは、ほんの一瞬だったのに。
――あの手は、どうして、あんなに冷たいんだろう。




