第11話 声が出る場所
放課後の図書室は、この学校でいちばん静かな場所だ。
探索者の学校だからか、図書室を使う生徒はあまりいない。窓際の長机には西日が差しこんでいて、ほこりがきらきら光っている。聞こえるのは、時計の針の音と、ページをめくる音だけ。
俺は週に何度か、ここで辞書を読んでいる。
辞書を読む、と言うと、たいてい変な顔をされる。調べるんじゃなくて、読むのか、と。読むのだ。最初のページから。知らない言葉を見つけて、その意味を知って、例文を読む。それだけで、けっこう時間がつぶれる。
フードの中のルルは、図書室に来るとすぐ眠ってしまう。紙の匂いが落ち着くらしい。
あれから、灰原先生に母さんのことを聞こうとした。でも「あー? 言ったか、そんなこと」とはぐらかされて、それきりだ。
国語辞典の「か」の行を読み進めていると、向かいの椅子が、小さく引かれた。
水無瀬だった。
スケッチブックを胸に抱えたまま、遠慮がちに座る。それから、ページを開いて、こちらに向けた。
『真白くんに、話しておきたいことがあって』
「……俺に?」
水無瀬はうなずいて、次のページをめくった。もう書いてあった。たぶん、ここに来る前から準備していたんだろう。何ページにもわたって、丁寧な、少し小さめの字が並んでいた。
『家だと、話せるの』
ページがめくられる。
『お母さんとも、弟とも、ふつうに。弟のほうが、ずっとうるさいけど』
弟の部分だけ、少し字が跳ねていた。
『でも、学校だと、声が、出ない』
『出そうとしても、喉が固まるの。ぎゅって、だれかに、つかまれてるみたいに』
次のページ。
『場面緘黙、っていうんだって』
『わざとじゃないの。スキルのせいでもない。中学のころから、ずっと』
水無瀬のペンを持つ指が、白くなっていた。
『中学の時は、無視してるって言われてた』
『話しかけられても、返事ができなくて。先生にも、返事くらいしなさいって、言われたことがある』
『そしたら、だんだん、だれも話しかけてこなくなった』
『だから、天啓の儀で【無口】って出たとき、やっぱりって、みんな思ったみたい』
最後のページには、こう書いてあった。
『この前、かばってくれて、ありがとう。ちゃんと、言いたかったの』
俺は、しばらく何も言えなかった。
声が出ないのは、わざとじゃない。喉が固まる。誰かにつかまれているみたいに。それなのに、無視していると言われ続けてきた。三年間も。
そして、天啓の儀で、窓がとどめを刺した。【無口】。発話を抑制する。まるで、それが水無瀬の正体だと言わんばかりに。
水無瀬は、スケッチブックを両手で持ったまま、うつむいていた。俺が何を言うのか、待っているのか。それとも、何を言われても平気なように、身構えているのか。
何か、気のきいたことを言うべきなんだろう。でも、俺はそういうのが得意じゃない。だから、思ったことを、そのまま言った。
「別に、書いてくれれば読むよ」
水無瀬が、顔を上げた。
「俺、読むのは得意だから」
辞書を最初から読むくらいには。そう付け足そうとして、やめた。
水無瀬は、じっと俺を見ていた。前髪の隙間からのぞく目が、少しずつ、潤んでいく。こぼれる前に、水無瀬は慌てたように袖で目元をこすった。
それから、新しいページに、ゆっくりとペンを走らせた。
『ありがとう』
その横に、小さな絵が添えてあった。
ふわふわの毛玉。黒い目。偉そうに胸を張って、頭には小さな王冠。
〈む〉
いつの間に起きていたのか、フードからルルが顔を出していた。
〈また我を描いたな。よい心がけだ。だが、王冠が小さい〉
「……王冠が小さい、だってさ」
思わず笑ってしまった。水無瀬も、口元を押さえて肩を揺らす。
「そこ、静かに」
カウンターから、司書の先生の声が飛んできた。
すみません、と頭を下げる。図書室で注意されたのは、筆談の水無瀬じゃなく、俺のほうだった。水無瀬は、スケッチブックで顔を隠して、まだ笑っていた。
笑うんだな、と思った。
教室では、ほとんど表情が見えない。でも、本当はこんなふうに笑う。弟がうるさい、と書くときに、字が跳ねる。ちゃんと、ここにいる。
「家だと、どんな話するんだ」
聞いてみると、水無瀬は少し考えてから書いた。
『テレビのこととか。弟の宿題のこととか』
『あと、お母さんの卵焼きが、甘すぎるとか』
「甘すぎるのか」
『うん。でも、甘いのがすき』
文句なのか、自慢なのか、よくわからない。でも、その卵焼きのことを書いているときの水無瀬は、なんだか楽しそうだった。
声が出ない、というのは、言葉がない、ということじゃない。水無瀬の中には、こんなにたくさんの言葉がある。ただ、学校という場所では、それが喉の手前で止まってしまうだけなんだ。
少し落ち着いてから、俺は声を落として言った。
「水無瀬。もし嫌じゃなかったら……窓、見せてもらってもいいか」
水無瀬の手が、止まった。
「大河や小日向のは、本当の名前が読めた。水無瀬のも、もしかしたら」
言いながら、少し怖くなった。読めるとは限らない。読めたとしても、それが水無瀬にとっていいものだとは限らない。
水無瀬は、長いこと考えていた。それから、こくりとうなずいた。
机の上に、半透明の窓が開く。
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名前:水無瀬 雫
スキル:【無口】
説明:発話を抑制する。
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……発話を、抑制する。
改めて見ると、ひどい一文だった。まるで、窓そのものが水無瀬に「しゃべるな」と命じているみたいだ。
息を整えて、文字を見つめる。
ほどけろ。
【無口】の「無」の字に、意識を集める。大河のときは毛糸がほどけるように、小日向のときは砂糖が溶けるように、文字の向こう側が見えた。
でも、水無瀬の窓は、違った。
文字が、ほどけない。
いや、ほどけかけてはいるのだ。線の端が、かすかに震えている。なのに、その上から、灰色の何かが何重にも巻きついていた。糸だろうか。それとも、もっとざらざらした、細かい砂のようなものか。引っぱろうとすると、そのぶん結び目が固くなる。
もっと奥へ。もっと――
「……っ、ぐ」
頭の中で、何かが割れるような音がした。
視界が白く跳ねる。椅子から体が傾く。袖を、強く引っぱられた。水無瀬が、机越しに俺の腕をつかんでいた。
窓が、ふっと消える。
しばらく、息ができなかった。こめかみを押さえて、机に額をつける。国語辞典の表紙が冷たくて、ありがたかった。
〈湊。無理をするな〉
ルルの声が、珍しくまじめだった。
〈あの窓は……何か、厚いものがかぶさっていた。我にも、よくわからぬ〉
「……ごめん」
顔を上げて、俺は言った。
「読めなかった。文字に、何か、ノイズみたいなのが絡まってて」
水無瀬は、首を横に振った。
それから、まだ少し震えている手で、ペンを握った。
『読めなくても、いい』
ページをめくる。
『読もうとしてくれたのが、うれしい』
その字は、今日書いたどの字よりも、まっすぐだった。
俺は、その二行をしばらく見つめていた。
読めなくてもいい、と水無瀬は言う。きっと本心なんだろう。でも、俺は嫌だった。
あの窓は、水無瀬に「しゃべるな」と言い続けている。発話を抑制する。声が出ないのはお前のせいだ、と。そんな文が、あの子の名前の横に、ずっと貼りついたままなんて。
大河の窓の奥には、【蓄積】があった。小日向の窓の奥には、【先触れ】があった。
だったら、水無瀬の窓の奥にも、きっと何かがある。
閉館のチャイムが鳴った。
水無瀬はスケッチブックを胸に抱えて立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。それから、少しだけ迷うようにして、最後にもう一ページだけ書いた。
『また、ここに来てもいい?』
「いいよ。俺、だいたいいるから」
水無瀬は小さくうなずいて、図書室を出ていった。長い黒髪が、扉の向こうに消える。
西日の差しこむ机に、俺とルルだけが残された。
〈湊〉
「なんだ」
〈歌の娘の窓は……我も、気になる。あの厚いものの奥に、何か、温かいものがあった気がするのだ〉
「……そうか」
――いつか、必ず読む。
声には出さずに、そう決めた。




