第七話 新しい季節
「……終わった。本当の意味で、すべてが終わったんだ……」
8月31日、午後十時。
自室のデスクに突っ伏した俺——榛名陸は、燃え尽きた灰のように呟いた。
目の前には、全員分の名前がしっかり書き込まれ、綺麗に完成した夏休みの課題の山。
数々の修羅場と甘い誘惑を乗り越え、俺たちはついに「夏休み最後の難関」を突破したのだ。
「……陸兄さん、お疲れ様です。冷たいアイスティーを淹れました」
パタパタと静かな足音を立てて入ってきた結衣が、氷の浮かんだグラスをコップ受けと共に置いてくれる。
相変わらずのポーカーフェイスだが、課題を終えた安堵感からか、心なしか表情が柔らかい。
結衣はそのままごく自然に俺の椅子の隣へと移動すると、そっと俺の肩に手を置き、身体を寄せてきた。
「ん……結衣? ちょっと近くないか……?」
「……課題が終わったので、ご褒美です。陸兄さんの隣は、私の定位置ですから」
ふわりと漂うシャンプーの甘い香り。華奢な肩の感触が腕に伝わり、達成感で緩んでいた俺の理性が再び試され始める。
するとその時、廊下から勢いよくドアが開け放たれた。
「陸兄ちゃーーん! 読書感想文、最後まで書けたよーー!!」
飛び込んできた葵が、勢いそのままに俺の後ろから首に抱きついてきた。
ついこの間まで「陸兄ちゃんが男の子に見えて恥ずかしい」とドギマギしていたはずの葵だが、極限状態の宿題追込みを乗り越えたテンションのせいか、以前以上の至近距離で密着してくる。
「うわっ、葵! 急に抱きつくな指示……! 苦しいし、暑い!」
「えへへ、だって陸兄ちゃんが教え方上手だったからさ! 感謝のギューだよ!」
背中に伝わる柔らかい感触と熱量に、俺の頭はどうにかなりそうだ。
照れくさそうにモジモジしていたと思えば、急に無防備に飛びついてくる。思春期の少女の距離感の変化に、俺の心臓は持ちそうにない。
「……葵。陸兄さんが困っています。それに、私の方が先に甘えていました」
「結衣姉こそずるい! 陸兄ちゃん、明日は始業式だけど、放課後どこか遊びに行こうよ!」
二人の義妹が俺を挟んでプチバトルを繰り広げようとした、その瞬間——。
ピンポーン! ピンポンピンポンピンポン!!
「陸ー! 葵ちゃーん! 結衣ちゃーん! 開けなさーい!!」
嵐のようなインターホンの連打と、聞き覚えがありすぎる叫び声。
玄関を開けると、そこには花火大会の時並みに顔を真っ赤にした凛が立っていた。
「り、凛先輩? もう夜の十時過ぎだけど……課題、終わらなかったのか?」
「終わったわよ! 完璧に終わらせて提出用バッグに詰めたわよ!! ……じゃなくて!」
凛はフシューッと荒い息を吐きながら、サマードレスの裾をぎゅっと握りしめた。
そのまま土足同然の勢いでリビングへ上がり込むと、俺の胸ぐらを掴む勢いで顔を近づけてくる。
「〜〜〜〜っ! 明日から学校じゃない! 学校が始まったら、あんた他の女子と喋ったり、告白されたりするんでしょうね!?」
「はぁ!? なんで急にそんな話になるんだよ!」
「な、なるに決まってるでしょ! この夏で……あんた、ちょっと雰囲気変わったんだから! 私がこんなに意識させられてるのに、他の女に目移りしたら絶対許さないんだからねっ!!」
「意識させられてる」と自分で言ってしまったことに気づいた瞬間、凛の顔は耳の先まで一気にリンゴのように真っ赤に染まった。
「……っ!? あ、今の無し! 監視役としての宣戦布告よ! 勘違いしないでよねっ!!」
「……凛先輩。往復ビンタ級のフライング自爆です。可愛いですけど、陸兄さんは渡しません」
「あはは! 凛先輩、顔から火が出そう! 陸兄ちゃん、明日からの学校も楽しみだね!」
バタバタと扇風機の前で顔を冷やす幼馴染と、マイペースに牽制し合う義妹たち。
波乱に満ちた真夏の太陽は沈み、明日からは新学期が始まる。
「……はぁ。やっぱり、学校来ると妙に疲れが倍増するな」
新学期初日、始業式とホームルームを終えた休み時間。
俺——榛名陸は、自分の席の机に肘をつきながら小さく息を吐いた。
昨夜の凛の暴走と義妹たちの牽制バトルを思い出し、すでに頭が痛い。
「何言っちゃってんのよ、陸。夏休みが終わった途端に現実逃避?」
前の席の男子がクルッと振り返り、ニシシと意地悪く笑った。腐れ縁の級友、大輔だ。
「現実逃避したくもなるさ。課題は終わらせたけど、精神的な疲労がすごくてな……」
「へいへい。まあ、お前が課題提出日に生きて登校できただけで奇跡だけどな! ……で、どうだったんだよ? 『妹ふたりとの同居生活』初となる、真夏のサマーライフはさ!」
大輔がニヤニヤしながら身を乗り出してくる。その声につられるように、近くで駄弁っていた他のクラスメイトたちもワラワラと俺のデスクの周りに集まってきた。
「そうだぞ榛名! 一年生でめちゃくちゃ美少女って話題の結衣ちゃんと、隣の中学ですでに有名な葵ちゃん! 一緒にプール行ったり花火見たりしたんだろ!?」
「くっ……羨ましすぎて昼飯が喉を通らん! 正直に言え、何か甘いハプニングのひとつやふたつあったんだろ!」
クラスの男子どもから一斉に突き刺さる、血走った嫉妬の眼光。
(……プールではハプニングだらけだったし、昨日の夜も抱きつかれたりしたけど……口が滑っても言えるか!)
俺は冷や汗をかきながら、なるべく平静を装って手を振った。
「ないない、あるわけねえだろ! 家じゃあ二人ともただの妹だぞ。ドタバタ課題やって、暑い暑いって言ってただけだって」
「けっ、相変わらず無自覚難聴主人公みたいな反応しやがって〜」
「でもさ、今朝の登校風景もヤバかったぞ? 榛名、お前また結衣ちゃんと凛と一緒に校門くぐってただろ」
別の女子生徒がクスクス笑いながら輪に加わってきた。
「白鳥さん、今朝もすごい顔で榛名のこと監視してたよね。夏休み前よりさらに距離近くない?」
「凛はただの幼馴染だって! ほら、親同士が仲いいから、変に世話焼こうとしてるだけで……」
必死に言い訳をこねる俺の姿に、大輔たちは「はいはい」と呆れたように肩をすくめる。
クラスメイトたちのこの遠慮のない雑談と、他愛のない茶化し合い。
義妹たちや凛との甘く危険な至近距離の毎日に慣れかけていた俺にとって、この男子高校生らしいバカバカしい空気感は、どこか妙に安心するものがあった。
(……まあ、登校しただけでこれなら、昼休みはもっと大変なことになりそうだけどな)
一年生校舎からやってくるであろう結衣と、お弁当(という名の愛情手作り弁当)を持って殴り込んでくるであろう凛の姿を思い浮かべ、俺は浅くため息をつく。
「……ま、今学期も乗り切るしかないか」
新学期が始まってから、早いもので一週間が経とうとしていた。
休み時間ごとに他愛もない雑談で盛り上がるクラスの空気感に少しずつ身体が馴染んできたものの、放課後になるとまた別の緊張感がやってくる。
「……はぁ。凛のやつ、何で自分のクラスの棚にノート忘れて帰ろうとするんだよ」
夕暮れ時の静まり返った廊下を、俺——榛名陸は一人歩いていた。
手元にあるのは、先ほど隣のクラスの担任から「白鳥(凛の苗字)に届けてくれ」と託された部活動の連絡用ノートだ。
苦笑しながら凛のクラスの前に差し掛かったとき、教室のドアがわずかに開いているのに気づいた。中から凛と、その友人と思われる女子生徒たちの話し声が漏れ聞こえてくる。
「ねえ凛、さっき校門のところで榛名くんと白鳥さんが話してるの見たよ?」
「えっ……白鳥さんって、あの隣のクラスの生徒会の白鳥さん!?」
ガタンッ! と机を激しく叩くような音が廊下まで響き、俺は思わず足を止めた。
「そうそう。榛名くに何か手紙っぽいもの渡して、すごく顔赤くしてたよ〜。あれ絶対、告白の呼び出しじゃない?」
「〜〜〜〜っっ!? こ、告白ぅ〜〜〜っ!?」
裏返った凛の絶叫が放課後の校舎に轟く。
「だ、ダメよそんなの! 陸みたいな無頓着で流されやすいヤツが女子から呼び出されたら、断り切れずに『あ、うん……よろしく?』とか曖昧な返事してそのまま付き合っちゃうに決まってるじゃない!!」
「いや凛、焦りすぎだって……まだ告白って決まったわけじゃ……」
「焦るわよ! 私が……私がこの夏、どれだけ監視して、危機感持って予防線を張り巡らせてきたと思ってるのよ! 渡さない……絶対に他の女になんて渡さないんだからーーーっ!!」
ダダダダッ! と猛烈な勢いで床を蹴り、教室を飛び出してきた凛。
勢い余ってドアを開け放った瞬間、目の前に立っていた俺とバッチリ目が合った。
「……あ」
「……お前、何一人で大騒ぎしてんだよ」
「〜〜〜〜っっ!? り、陸ーーーっ!? な、なんでここに……っ!?」
一瞬で顔から火が出そうなほど真っ赤になった凛は、バタバタと手を振り乱しながら派手に後退りした[cite: 1, 1]。
「い、今の聞いてた!? 違うのよ! 今のはただの監視役としての防衛本能というか、幼馴染としての義務感というか……っ!」
「いや、防衛本能ってなんだよ。ほら、お前の忘れ物のノート。先生から頼まれたんだよ」
「あ……ありがと……じゃなくて! 陸、あんた白鳥さんから手紙貰ったでしょ! どこ!? 呼び出し場所はどこなの!? 私もついて行くわよ!!」
両肩をガシッと掴まれ、ガシャガシャと激しく揺さぶられる。
距離があまりにも近い。目の前にある凛の瞳には、涙目混じりの焦りと、隠しきれていない「恋する乙女」の感情が痛いほど溢れ出していた[cite: 1, 1]。
「落ち着けって! 手紙なんて貰ってねえよ」
「嘘つかないで! クラスの女子が見たって言ってたもん! 白鳥さんが顔を赤くして手紙渡してたって!」
「……はぁ。それ、手紙じゃなくて『生徒会の意識調査アンケート』だよ」
俺はポケットから丁寧に折りたたまれた一枚のプリントを取り出して見せた。
「白鳥さんは生徒会の役員だろ? 『榛名くん、これ明日までに回収だからクラスの分お願いね』って言われて受け取っただけだ。顔が赤かったのは、放課後の会議に遅れそうになって階段をダッシュで駆け上がってきたからだって言ってたぞ」
「え……? あ、アンケート……?」
凛の動きがピタリと止まる。
掴まれていた俺の肩から、スーッと力が抜けていく。
「そうだ。告白でも呼び出しでも何でもない」
「………………っっっ!!!」
自分の盛大な勘違いと、それを本人の目の前で大パニックになりながら暴露してしまった事実に気づいた瞬間——。
凛の顔は、熟しきったトマトどころの騒ぎではないほど、耳の先から首元まで真っ赤に染まった。
「あ……う、あ……私、何を……っ」
「お前、さっき『他の女になんて絶対渡さない』とか言ってたよな?」
「言ってない! 言ってないし聞いてないからーーーーっ!!」
両耳をぎゅっと塞ぎ、恥ずかしさのあまりキュゥゥと煙を吹き出しそうな勢いで叫ぶ凛。
「うわぁぁぁん! 陸のバカ! 紛らわしい紙なんて持ってるんじゃないわよーーーっ!!」
「俺のせいかよ!?」
真っ赤な顔のまま、バタバタと音を立てて廊下を走り去っていく幼馴染の背中を見送りながら、俺は深くため息をついた[cite: 1, 1]。
(……全く、あいつは昔から思い込みが激しいというか……)
だが、肩に残る感触と、去り際の必死な顔を思い出すと、胸の奥が少しだけくすぐったいような、妙な熱を帯びるのも事実だった。
「……ただいまー」
「……あ、陸兄さん。お帰りなさい」
「陸兄ちゃんお帰り〜! 今日も凛先輩、玄関の前で待ち伏せ……じゃなくて待ってるよ?」
家に帰ると、エプロン姿で出迎えてくれた結衣と、元気いっぱいの葵。
リビングのソファに目を向けると、まだ顔の赤みが完全には引ききっていない凛が、膝を抱えて丸くなっていた[cite: 1, 1]。俺と目が合った瞬間、ビクッと肩を跳ねさせて露骨にそっぽを向く。
「……お邪魔してます。おばさんから、夕飯の差し入れ頼まれただけだから……勘違いしないでよね」
「……凛先輩。さっきからずっと『陸兄さんにバカにされた、嫌われたかも』って半泣きでしたよ」
「結衣ちゃん言わないでぇぇぇ!!」
身をよじらせてクッションに顔を埋める凛の姿に、リビングにはどっと温かい笑いが起きた。
乙女な過剰警戒と盛大な勘違いに振り回される毎日は、新学期になっても相変わらず、賑やかで甘い波乱に満ちているようだった。




