第六話 夜空に咲く花と、騒がしい恋模様
市民プールでの激闘から数日後。
我が家には、いつも以上の緊張感と熱気が満ち満ちていた。
「……陸兄さん。これで帯、解けませんか?」
「あ、ああ。バッチリだ。似合ってるぞ、結衣」
和室から出てきた結衣は、シックな紺地に朝顔が描かれた浴衣姿だった。
相変わらずのポーカーフェイスだが、普段の短いワンピースやショートパンツとはガラリと印象が変わり、うなじの白さが際立っていて妙にドギマギしてしまう。結衣は照れくさそうに、そっと俺の袖をキュッと掴んできた。
「……ん。陸兄さんに褒めてもらえるなら、着た甲斐がありました」
不器用に寄り添ってくる結衣に見とれていると、廊下からパタパタと軽快な下駄の音が響いた。
「陸兄ちゃん! あたしの浴衣どう!? 動きやすいようにちょっと短めに着付けてみたの!」
ドアを開けて飛び込んできた葵は、鮮やかな朱色の金魚柄の浴衣姿。
元気いっぱいに俺の腕にギュッと抱きついてくる。スポーツで鍛えられた抜群のスタイルは浴衣の上からでも健在で、柔らかい感触と体温がダイレクトに伝わり、俺の理性がまたしてもゴリゴリと削られていく。
「あ、葵、近すぎるって……! 帯が崩れるだろ!」
「えー! いいじゃん! 今日はお祭りだよ? 陸兄ちゃんと腕組んで歩きたいもん!」
「……葵。離れなさい。陸兄さんが困ってます」
結衣がジト目で葵の襟首をつまもうとした、その時——。
ピンポーン! ピンポンピンポン!
「陸! 遅れるわよ! 早く開けなさいってば!!」
勢いよく連打されるインターホン。急いで玄関を開けると、そこには団扇を手にした凛が立っていた。
「〜〜〜っっ! な、なにジロジロ見てるのよ……っ!」
凛が身に纏っていたのは、淡い桃色に撫子の花が描かれた、可憐な浴衣だった。
フリル水着の時も破壊力抜群だったが、綺麗に結い上げられた髪とうなじ、そしてほんのり化粧をした凛の姿は、完全に「大人の恋する女の子」そのものだった。
ほのかに甘い香水の香りを漂わせつつ、俺にしがみつく葵と結衣を見た瞬間、その顔は一気に真っ赤に染まる。
「な、なにやってるのよ二人ともー!? 陸、あんたも妹たちが無防備だからって鼻の下伸ばさない!!」
「伸ばしてねえし、デレデレもしてねえ!!」
「ふふん、凛先輩もすごく可愛い! よーし、夏祭りとしゅわしゅわの花火大会、出発ー!」
屋台の灯りが眩しく輝く神社境内。
人混みは予想以上で、油断すると一瞬で離れ離れになりそうだった。
「……陸兄さん、手、繋いでもいいですか。迷子になりそうです」
ポーカーフェイスのまま、結衣が下から俺の手をキュッと握ってくる。
「あ! 結衣姉ズルい! 陸兄ちゃん、あたしはりんご飴買ってくれたら腕組んであげる!」
葵が反対側の腕をがっちりホールドしてくる。
「ちょっと二人とも! 陸を独占しないでって……きゃっ!?」
人波に押された凛がバランスを崩し、俺の胸元に勢いよく飛び込んできた。
「うわっ……!?」
「きゃあ……っ!?」
重なる体温。浴衣越しに伝わる凛の華奢な体の感触と、浴衣の裾から覗くうなじの熱気。すぐ目の前には、耳まで真っ赤にして潤んだ瞳で俺を見上げる凛の顔があった。
「……っ!? あ、あの、陸……その、近い……っ」
「お、お前が倒れかけてきたんだろ……!」
ドギマギして固まる俺と凛。昔はジャージ姿で夏祭りの屋台を走り回っていたはずなのに、今の凛の表情はどこからどう見ても乙女だった。
「……凛先輩。ずるいです。混雑に乗じて陸兄さんに抱きつかないでください」
「だ、抱きついてないわよ! 押されただけ!!」
打ち上げ花火の時間が近づき、四人は境内の裏手にある少し小高い丘へと移動した。
喧騒が遠のき、夜風が浴衣の袖を揺らす。
ドンッ……!!
お腹に響く重低音とともに、夜空に大きな大輪の金色の花が咲いた。
パッと四人の顔が光に照らし出される。
「うわぁ……! 陸兄ちゃん、すっごくキレイ!」
葵が無邪気に空を見上げて目を輝かせる。
「……きれいですね。陸兄さんと見られて、良かったです」
結衣が静かに呟き、ぎゅっと俺の服の裾を強く握りしめた。
そして、俺の隣でじっと空を見上げていた凛が、そっと口を開いた。
「……陸」
「ん? どうした、凛」
凛は花火の光に照らされながら、ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔は花火の赤さか、それとも照れ隠しか分からないほど真っ赤で、胸元をぎゅっと掴んでいる。
「私ね……昔みたいに、あんたと友達としてお祭りに行くのも楽しかったけど……」
言葉を詰まらせ、潤んだ瞳でまっすぐに俺を見つめてくる凛。
「……今のこの関係も、悪くないって思ってる。……っていうか、その……あんたの特別な一番になりたいって、思っちゃうのよ……っ!」
「〜〜〜っ!? 凛、それって……」
俺が息をのんだ瞬間、ドカンッ! と一際大きな打ち上げ花火が上がり、夜空を眩しく染め上げた。
「あー! 凛先輩ズルい! 混乱に乗じて告白っぽいこと言おうとしてるー!」
「……凛先輩、フライングは禁止です。陸兄さんの隣は渡しません」
「〜〜〜っっ!? な、告白なんてしてないわよっ! 監視役として釘を刺しただけなんだからねっ!!」
一瞬で顔から火が出るんじゃないかというほど真っ赤になった凛は、バタバタと団扇をあおぎながら必死に強がった。
夜空に弾ける色とりどりの大輪の花と、鳴り止まない歓声。
真っ赤になって強がる幼馴染と、譲る気のない義妹たち。
熱い夏風と打ち上げ花火の音に包まれながら、ふとした変化に気づかない自分に自分に後悔することになる。
花火から数日。我が家にはひとつの「違和感」が漂っていた。
「……? 葵、また背伸びしてるのか?」
「な、なに言ってるの陸兄ちゃんっ! 別に背伸びなんてしてないし!」
リビングで冷たい麦茶を飲みながら指摘すると、葵は慌ててかかとを床につけ、バッと顔を背けた。
いつもなら元気いっぱいに「陸兄ちゃん〜!」とダイレクトタックルをかましてくるはずの葵が、どうにも挙動不審なのだ。
明るい茶髪のショートボブを揺らし、スポーツ女子らしく天真爛漫だった葵。
姉の結衣よりも小柄な身長ながら、メリハリのある抜群のプロポーションを誇り、これまでは自分のスタイルの良さにも無自覚で無防備なスキンシップを連発していたはずだった。
それがここ数日、俺が部屋に入ると急に身体を縮めたり、服の胸元をキュッと押さえたり、俺と目が合った瞬間に耳まで真っ赤にして視線を泳がせたりする。
(……なんか俺、嫌われるようなことしたか……?)
俺が密かにショックを受けていると、隣に座っていた結衣がポーカーフェイスのまま、そっと俺の袖を引っ張ってきた。
「……陸兄さん。葵を気にしすぎです。今は私を見てください」
「あ、ああ、ごめん結衣……」
相変わらずのポーカーフェイスだが、結衣も結衣で葵の微妙な変化に気づいているのか、いつも以上にぴったりと肩を寄せてくる。
華奢で小柄な結衣の体温が伝わってきてドギマギしていると——。
「ちょっと結衣姉! 陸兄ちゃんにそんなにくっつかないでよ!」
「……葵こそ、さっきから陸兄さんと距離を置いています。避けられているのかと陸兄さんが心配しています」
「そ、それは……っ!」
葵は言葉に詰まり、両頬を真っ赤に染めてモジモジと下駄箱の隅を蹴るように脚を動かした。
「避け、避けてるわけじゃないもん……! ただ、その……っ」
その日の夕方。
夕飯の買い出しの帰り道、俺は一人で歩く葵の姿を見かけた。
部活帰りなのか、大きなスポーツバッグを肩にかけ、どこか落ち込んだ様子でトボトボと歩いている。
「葵!」
「ひゃいっ!? り、陸兄ちゃん!?」
声をかけると、葵は跳び上がらんばかりに驚き、持っていたバッグでとっさに自分の胸元を隠すような仕草をした。
「どうしたんだよ、最近なんか様子おかしいぞ? 俺、何か怒らせるようなこと言ったか……?」
「違うの! 陸兄ちゃんは何も悪くないのっ!」
葵はぶんぶんと首を横に振った。
夕道に照らされた葵の顔は、夕日以上に赤く染まっている。
「……じゃあ、なんで最近俺のこと避けるんだ? 昔みたいに話してくれないと、なんか寂しいだろ」
俺がそう呟くと、葵の動きがピタリと止まった。
ゆっくりと顔を上げた葵の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「だって……っ、だって、陸兄ちゃんが『男の子』に見えちゃって、恥ずかしくて近寄れないんだもん……!」
「……え?」
「今までは『大好きなお兄ちゃん』だったのに……最近、陸兄ちゃんに抱きつくと胸がドックンドックンうるさくて……陸兄ちゃんの手とか、肩とか見ると、なんかドキドキして全身熱くなっちゃうの!」
胸元をギュッと握りしめ、必死に自分の気持ちを吐き出す葵。
いつも無邪気で、何も考えずに距離を詰めてきていた葵が、いま明確に俺を「1人の男性」として意識し、戸惑っていたのだ。
「あたし……陸兄ちゃんの本当の妹じゃないし……。結衣姉や凛先輩みたいに、陸兄ちゃんのこと『好き』になっちゃったら……どうしたらいいか分かんなくて……っ!」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、純粋で。
俺の胸を強く突き動かした。
「……葵」
俺はそっと手を伸ばし、葵の頭にポンと手を乗せた。
葵はびくっと身体を揺らしたが、逃げようとはしなかった。
「避けないでくれて、ありがとうな。……急に色々変わって、戸惑わせちゃってごめん」
「陸兄ちゃん……」
「葵が俺を意識してくれるのは……その、すごく照れくさいけど。でも、避けられるよりずっと嬉しいよ」
俺が照れ隠しに笑ってみせると、葵はぽろぽろと涙をこぼしながら、思いきり頷いた。
「〜〜〜〜っ! 陸兄ちゃんのバカ! そうやってすぐ優しいこと言うんだから……っ!」
葵は涙を拭うと、意を決したようにバッと頭を上げ、スポーツバッグを放り投げて俺の胸に飛び込んできた。
「うわっ……!?」
「もう知らない! 恥ずかしくても我慢しないんだから! 陸兄ちゃんがあたしを『女の子』として見てくれるまで、絶対に離れないんだからねっ!」
ぎゅっと俺の腰に抱きついてくる葵。
これまでの「無邪気なスキンシップ」とは違う。
スポーツで引き締まったしなやかな身体の感触と、高鳴る鼓動、そして少女から一人の恋する女の子へと変わった葵の熱量が、ダイレクトに俺へ伝わってくる。
「あ、葵……っ!? 近いって……っ!」
「ダメー! 離さない! 陸兄ちゃんのバカー!」
ピンポーン! ピンポンピンポン!
「陸ー! 夕飯の材料持ってきてあげたわよ……って、ちょっとおぉぉぉー!?」
そこへタイミング悪く(あるいは良く)差し入れを持ってやってきた凛が、玄関先で固まっていた。
俺にしがみついて真っ赤な顔で泣きじゃくる葵と、タジタジになっている俺。
「あ、葵ちゃん!? あんたなに陸に抱きついて……って、なんか雰囲気が違う……!?」
乙女の勘なのか、凛は葵の表情を見て一瞬で察したように絶句した。
「ふふん! 凛先輩、あたしもう遠慮しないから! 陸兄ちゃんの『特別な一番』になるのはあたしだからね!」
「〜〜〜〜っっ!? な、なに言ってるのよこの妹はー! 陸、あんた葵に何吹き込んだのよっ!?」
「俺は何も吹き込んでねえよ!!」
騒ぎを聞きつけてリビングから出てきた結衣も、葵の表情の変化を静かに見つめ、そっと俺の反対側の服の裾をキュッと強めに引っ張った。
「……葵。ズルいです。抜け駆けは許しません」
「結衣姉にも負けないもん!」
真っ赤な顔で強がる幼馴染と、静かな独占欲を燃やす姉、そして思春期の扉を開け、恋する乙女として覚醒した妹。
真夏の熱気と夕暮れの風が混ざり合う中、俺の理性を巡る戦いは、またひとつ新しい局面へと足を踏み入れたのだった。




