麻子、潜入す(1941年秋)
東京、某所。(1941年秋)
竹田と麻子は路地の角に立っていた。
「本当に行くんですか」
「行く」
「私、みほさんみたいに愛人役とか……」
「今日は違う。統計調査員だ」
「統計調査員」
「ゾルゲの組織に統計の仕事を売り込む。お前の専門だろう」
麻子は少し考えた。
「……それなら、できます」
「自分の頭を使え。体は使うな。何かあったら俺が動く」
「竹田少佐はどこにいますか」
「見えないところにいる。でも見えている」
麻子は深呼吸した。
「……行きます」
ゾルゲは麻子を一目見て、興味を持った。
日本人にしては珍しい雰囲気だった。どこか西洋的だった。
「ケンブリッジで統計を学ばれたと」
「はい。流体力学と統計の博士号を持っています」
「日本では珍しいですね。女性で」
「だから仕事がないんです」
麻子は少し俯いた。
(嘘ではない……)
「私どもの調査に協力していただけますか。報酬は払います」
「どんな調査ですか」
「日本の工業生産の統計分析です」
麻子は内心で素早く考えた。
(工業生産の統計……ソ連に流す情報だ。でも竹中中佐は「読めない情報を流せ」と言っていた)
「わかりました」
商談成立だった。
三日後、麻子はゾルゲに書類を渡した。
精密な統計だった。しかし微妙にずれていた。
「日本の軍需生産は北方向け」とも「南方向け」とも読める数字だった。
どちらとも取れる。どちらとも取れない。
ゾルゲはその書類を見て、しばらく考えた。
(この女……わかっているのか、わかっていないのか)
麻子は無表情だった。




