沈黙の圧力・チャンバレンの憂鬱(1940年秋)
チャンバレンは執務室で報告書を読んでいた。
日本の艦隊がインド洋を往来している。日本の商社がボンベイに事務所を開いた。インドの独立運動指導者が日本公使館と接触した。ビルマで日本人の「調査団」が活動している。満州のユダヤ人コミュニティが拡大している。
どれも、違法ではない。どれも、抗議できない。しかし全部が繋がっていた。
(日本は表面上何の敵対行為の素振りすら見せていない。しかし、彼らは全部見えている。ちょっと前の我らのように、どこでも動ける。ドイツに注目しすぎた)
側近が入ってきた。「閣下、日本からの非公式な提案が届いております」
「逆レンドリースか」「はい」
チャンバレンはしばらく黙っていた。
「……検討する」
(今の我が国に、拒否できる訳がない)
側近が出て行った後、チャンバレンは呟いた。
「怖い国だ」
誰も脅していない。それが、一番怖かった。
―――
ベルリン、OKH司令部。ハルダーは地図を広げたまま、煙草に火をつけなかった。
「兵站が心配だ。ドニエプル川を越えたあたりから、補給線が伸びきる。鉄道の軌間が違う。トラックは泥濘期に止まる」
「確かに——冒険だ」とマンシュタイン。
「ソ連は纏まって崩れない。叩いても叩いても後ろから兵が出てくる。冬が来る前に決着がつかなければ——」
「閣下は決めておられる」「ああ。我々が何を言っても」
―――
数日後。地図室に将官たちが並んでいた。ヒトラーは地図台の前に立ち、東を指した。
「実行する」
「閣下、兵站の問題が——」
「諸君は計算ばかりする。だがソ連は腐った扉だ。一度蹴れば崩れる」
「しかし冬までに——」
「五月に始める。バクーまで、来夏までに届く」




