スパイ・尾崎の動き(1940年初頭)
1940年初頭。丸一ホテルの一室。
竹田が薄い封筒を机に置いた。
「尾崎が動いた」
「何を掴んだ」
「外務省の宴席での話だ。松岡が北進論を持ち出した。南方資源への色気は捨てて、シベリアを取れと」
「誰の前で」
「近衛グループの三人。陸軍省の課長が一人混じっていた」
「南進論は」
「海軍が動いている。蘭印への圧力を強めろという意見書が回っている」
「尾崎が熱心にメモを取っていたのは、北進論の方だ」
「そうか、おもしろい。麻子を呼んでくれ」
―――
夜半。東京の外れにある印刷所の二階。
尾崎秀実は小さなランプの下で紙に数字を並べた。北進論の動向。関係した高官の名前。陸軍省内の空気。暗号に換える作業は、慣れていても時間がかかる。
完成した打電文は、翌朝、決まった経路でモスクワへ向かった。
―――
その打電文が発信された六時間後。丸一ホテルの地下室で、麻子がヘッドフォンを外した。
「出ました。今夜は少し長かった」
「内容が多かったんでしょう。政府の会合があった日ですから」
「SSSに回しますか」
「すぐに。急ぎで頼む」
―――
翌朝。SSS分析室。室長の小田が受け取り読み始めて、眉が動いた。
「全文か」
「全文です。欠損なし」
「パターンが変わっていませんでした。前回と同じ鍵の系列です。ソ連側が変えていない」
北進論の高官の名前が具体的に入っている。陸軍省の課長名まで。
「ここまで詳しいのか」
「政府中枢に食い込んでいます」




