鮎川・岸への先回り工作(1936年春)
麻子が採用されて、まだ間もない頃だった。
竹中は、経済・国力分析班がまとめた資料を、麻子の前に置いた。
「これを見てくれ」
麻子は資料をめくった。1934年、陸軍大佐・安江仙弘と鮎川義介が組んで立案した、ドイツ系ユダヤ人の満州移住計画——その構想書だった。
「安江大佐の名前は、聞いたことがあります。関東軍の中でも、少し毛色の違う人だと」
「鮎川は、来年——1937年には、満州重工業開発の初代総裁に収まる。関東軍の庇護の下でな」
「先に、資本構成に手を入れておくということですか」
「そうだ。関東軍が満州の財布を握る前に、こちらが先に握る。財布を握られたままでは、いくら圧力を仕込んでも、いずれ限界が来る」
数日後、丸一ホテルの一室。窓の外には、初夏の柔らかな光が差し込んでいた。
麻子は、茶を一口飲み、資料を一枚、鮎川の前に滑らせた。
「満州重工業開発、来年には正式に立ち上げをお考えですよね」
鮎川の目が、わずかに動いた。
「……よくご存知だ。大蔵省の、どちらの方でしたか」
「大蔵省嘱託です。詳しい肩書きは、あまり意味がありません」
鮎川は資料に目を落とした。数字が並んでいた。想定より一桁大きい資本枠だった。
「これは……関東軍の話ではない、ということですね」
「関東軍は、来年の予算まではお付き合いできます。再来年は、議会の風向き次第です」
麻子は、微笑んだ。
「安江大佐のお仕事、応援したいと思っている者は、軍の外にもおります」
鮎川は、しばらく黙って、資料を見つめていた。
「……面白い話だ。誰の差し金か、聞いても?」
「聞かない方が、お互いのためかと」
麻子は、そう言って、湯呑みを置いた。鮎川は、静かに、資料を懐にしまった。




