飲み屋で拾った猫(1936年春)
いよいよ、ヒロインの1人が登場!
竹田がある夜、神田の小さな居酒屋に入った。
一人で飲むつもりだった。
カウンターに女が一人いた。洋服だった。髪が少し乱れていた。グラスを傾けながら、ぶつぶつと何か言っていた。
竹田は隣に座った。女が顔を上げた。
「相席でよかったですか」
「どうぞ」
竹田は酒を頼んだ。しばらく、二人とも黙って飲んだ。
女が言った。
「……誰も私を解ってくれないんですよね。特に日本。島国ですね。あの真っ黒なイギリスよりひどい。同じ島国なのに」
「そうか」
「女だてらに統計やら流体力学やら研究してたって、日本じゃ誰も相手にしてくれない。イギリスではまだましだったのに」
「ケンブリッジか」
女が竹田を見た。
「……よくわかりましたね」
「話し方だ」
「あなた、何者ですか」
「ただの軍人だ」
「嘘ですね」
竹田は少し驚いた。
「なぜそう思う」
「ただの軍人は、ケンブリッジとオックスフォードの話し方の違いがわからない」
竹田はしばらく女を見た。
(ブラフだった。でも勝った。こいつは使えるかもしれない)
「名前を聞いていいか」
「前田麻子です。あなたは?」
「竹田だ」
翌週、竹田は竹中に言った。
「面白い女を見つけた」
「どんな女だ」
「ケンブリッジで統計と流体力学を学んだ。博士号持ちだ。西園寺家の血も引いている」
「飲み屋で拾ったのか」
「飲み屋でクダを巻いていた」
「……どんなクダだ」
「誰も私を解ってくれない、女だてらに、というやつだ」
竹中は書類から目を上げた。
「会ってみたい」
三日後、麻子は竹中の前に座っていた。物怖じしない目だった。
「統計と流体力学を学んだそうだな」
「はい。ケンブリッジで」
「なぜケンブリッジだ」
「保守的な空気が嫌いだったので」
「なぜ流体力学だ」
「H・G・ウェルズとヴェルヌを読んで育ちましたから。科学技術の可能性に興味がありました」
「今は何をしている」
「酒を飲んでる以外……何もしていません」
「なぜ」
「女だからです」
竹中はしばらく黙った。
「ここでは男も女も同列だ」
麻子は少し目を細めた。
「……本当ですか」
「本当だ。ただし……一つだけ聞く。秘密を守れるか」
「死ぬような拷問をされなければ、守れます。これでも純の大和撫子です」
「家族にも言えない秘密だ」
麻子はしばらく考えた。
「そんなの私秘密いっぱい持ってます。父が怖くて酒を飲めませんし……その秘密守ります」
竹中は頷いた。
「来週から来てくれ」
麻子が立ち上がりかけた時、竹中が言った。
「ちなみに……飲み屋でクダを巻く癖は直した方がいい」
麻子の顔が赤くなった。
「だったら、ここのお勘定、お願いしますね」
「……竹田少佐に聞いたんですね」
「そうだ」
「あの人、余計なことを」
竹中はわずかに笑った。珍しいことだった。




