09. 重加工が外れた日
運命の日は、呆気なく、そしてあまりにも唐突に訪れた。
週末に控えた決戦の日を前にした、いつものゆるトレ専用ジム。
ストレッチエリアのマットの上で股関節を伸ばしていたリンが、ふと思い出したように、ごく軽やかな口調で切り出したのである。
「そういえばミシェルさん。前に話していた『マッサタ』でマッチングした人と、そろそろ直接会ってみようかって話になったんです」
「え?」
ミシェルの身体が、ぴきりと硬直した。
股関節を伸ばしていた姿勢のまま、一瞬で全身の血の気が引いていく。
「まぁ、加工はしてると思うんですけど、めちゃくちゃイケマッチョなんです。見ます?」
「イ、イケマッチョ?」
必死で引きつった笑顔を作りながら、ミシェルの脳内はパニック映画さながらの大惨事と化していた。
(リンさんが……会う? 本物のイケメンマッチョと……っ!?)
誠実な男になる! そう心に誓い、一度はアプリを消そうと葛藤した。
それでも最終的には、「これは浮気じゃない! 誠実なケジメをつけるためだ!」という浮気男の常套句で自分を全力で正当化し、自分もアプリのゴリマッチョ美女と会う約束を取りつけたばかりである。
だが、自分のことを棚に上げる能力だけは魔界最高峰だった。
ミシェルの脳内では、自分の中途半端な罪悪感など一瞬で吹き飛び、完全なる「失恋の悲劇」へとすり替わっていた。
(嘘だろ……。俺が色々悩んでいる間に、リンさんはとっくに本物のハイスペック・イケメンマッチョといい感じになってたってことなのか?)
一瞬で振られた気になり、絶望のどん底へ突き落とされるミシェル。
(終わった……俺の恋、始まる前に完結した。そりゃそうだよな。1kgのイエローダンベルで悲鳴を上げてる俺なんかより、重機みたいな腕をした本物のイケマッチョのほうがいいに決まってる。俺がアプリの『超絶バルク』さんとケジメをつけるまでもなく、リンさんには最初から振られてたんだぁぁぁ!!)
勝手に振られた思い込みで悲劇のヒーローと化したミシェルの顔面は、みるみるうちに土気色へと変わっていく。
「あ、はは……そ、そうなんですね。どんな……イケメンさん、なんですか……?」
声のトーンを不自然に一オクターブ上げながら、ミシェルは葬式に参列する遺族のような沈んだ目で、リンの手元を覗き込んだ。
「ほら、この人なんですけど」
リンは屈託のない笑顔で、魔導スマホの画面をミシェルに突き出した。
そこに映し出されていたのは、見紛うことなき、光の角度と奇跡の遠近法、そしてアプリの全力重加工によって、筋肉を限界まで盛りに盛った自分――『鋼鉄の羽』のプロフィール写真だった。
ミシェルの思考が完全にフリーズする。
(え? なんでリンさんが俺の……いや、重加工した『鋼鉄の羽』の写真を……?)
そこで、脳内に一つの可能性が浮かび上がった。
(え、じゃあリンさんが話していた『めちゃくちゃイケメンなマッチング相手』って……俺!?)
さっきまで「勝手に振られて悲劇のヒーロー」になっていた男は、どこへ消えたのか。
脳内で盛大なバグを起こし、固まったまま微動だにしないミシェルを、リンは不思議そうに見つめている。
「……ミシェルさん? どうしたんですか、そんな顔して」
ミシェルはガタガタと、生まれたての小鹿のように震える手でポケットから己の魔導スマホを取り出した。
絶望と困惑がぐちゃぐちゃに混ざり合った顔で画面を開き、無言のままリンへと突きつける。
そこに映し出されていたのは、背景の時空すら歪ませるほどの重加工によって、バキバキに割れた腹筋を誇るマッスル美女。
アカウント名は、『超絶バルク』。
「……え?」
今度はリンの思考がフリーズした。
「なんでミシェルさんが、『超絶バルク』の画面を?」
「俺が……俺が様々な苦悩や煩悩を乗り越え、会う約束をした相手だからです……」
「は?」
リンの口がぽかんと開く。
「え、じゃあ、私たちって……」
アプリの中に君臨する、圧死リスク百パーセントの圧倒的フィジカルを誇る筋骨隆々な二人。
そして、目の前のストレッチマットに座り込んでいる、1kgのダンベルにすら四苦八苦する華奢な二人。
脳内でカチャリとパズルのピースが組み合わさり、あまりにも完璧すぎる最悪の答えへと、二人同時に導かれていく。
時が止まった。
ゆるトレ専用ジムに流れる、アルファ波でも出そうな呑気で癒やし系のオルゴールミュージックだけが、場違いなほど穏やかに響き続ける。
長い、長い沈黙の末、リンが引きつった指をプルプルと震わせながら、ミシェルを指さした。
「あ、あなた……っ! 鋼鉄の羽さん!?」
ミシェルもまた、目を極限まで見開き、絞り出すように呟いた。
「き、君こそ……超絶バルクさんなのか!?」
次の瞬間、ストレッチエリアに二人の絶叫がハモり渡った。
「「写真と違いすぎませんか!!??」」
*
最初は、とてつもない気まずさが二人の間に充満した。
お互いに「騙されていたのか」とショックを受け、その場から逃げ出してもおかしくない大惨事である。
だが、じわじわと冷静さを取り戻し、よくよく考えてみれば。
二人とも、まったく同じ愚かで愛おしい大勘違いを繰り広げていたのだ。
筋肉を盛り、時空を歪ませ、世間と魔界のトレンドが求める偽りの仮面を被って。
その一方で現実では、仮面の下にある、ダサくて、頼りなくて、1kgのダンベルで悲鳴を上げる等身大のお互いを、とっくの昔に好きになっていた。
その事実に気づいた瞬間、リンの肩がぷるぷると震え始める。
「ふっ……あははははは!」
最初に耐えきれなくなったのはリンだった。お腹を抱えてストレッチマットの上に転がり、堪えきれないように爆笑し始める。
「私たち、すっごく馬鹿みたい! 私なんて、ついさっきまで『圧死リスク』とか『肩に重機乗せてる』人に迫られたらどうしようって、本気でビビってたのに!」
ミシェルもこらえきれず、肩を激しく揺らして噴き出した。
「ええ、本当に。救いようがないくらい馬鹿ですね、俺たち」
「ほんと、呆れちゃうよね」
「俺なんて『浮気じゃない! 誠実になるためのケジメだ!』とか、寝室の壁に向かって熱弁してたんですよ!?」
「なにそれ、意味分からない。最高にヤバいヤツじゃない!」
二人の笑い声が、静かなジム内に響き渡る。
偽りの筋肉で飾っていた恥ずかしさも、お互いを騙していた罪悪感も、その爆笑の渦の中で、綺麗さっぱり溶けて消えていく。
涙を浮かべてお腹を抱えるリンと、照れくさそうに頭を掻くミシェル。
偽りの鎧をすべて脱ぎ捨てたあとに残ったのは、世界で一番愛おしい「もやし同盟」の相棒だった。
笑い疲れたリンが、涙の浮かぶ目元を拭い、息を整えながらぽつりと言った。
「私ずっと、筋肉のあるゴリゴリのマッチョな男性が好きなんだと思っていました。魔界のトレンドだし、それが世間の普通だから」
ミシェルも深く頷き、自分の細い腕を見つめる。
「僕も筋肉をつけて堂々としていないと、男として女性には好かれないと思い込んでいました」
一瞬、ゆるトレジム内に静かな空気が流れた。
リンはミシェルの目を真っ直ぐに見つめると、ふっと柔らかく、けれど晴れやかな笑みを浮かべる。
「でも……別に、世間の好みなんてどうでもいいかなって。今はそんな気分です」
ミシェルは驚いたように一瞬目を見開き、それから、今までで一番柔らかく優しい笑顔を浮かべた。
「そうですね。俺はどんなにプロテインを飲んでもオーガ族にはなれない。でも彼らだって、俺のような繊細な堕天使系にはなれないんだ」
「ふふ、ですね」
リンの表情が、ぱっと華やぐ。
ミシェルは意を決したように、リンの華奢な手をそっと両手で包み込んだ。
「……俺は、筋肉なんかなくても、リンさんが好きです」
「私も、強めの風が吹いたら一発で飛びそうな、そんなミシェルさんが好きです」
「それ、褒めてます?」
「もちろんです」
二人は顔を見合わせる。
背景の重加工も、偽りの筋肉も、もう必要ない。そこには互いを素顔のまま愛おしく思う、穏やかで優しい空気が漂っていた。
「俺と、付き合ってもらえますか?」
「はい。喜んで!」
完璧な告白。
見事なハッピーエンド。
二人の間に甘い空気が満ち、感動の余韻がピークに達した、その絶妙なタイミングで。
「あらあら~? 青春ねぇ、お二人さん」
ぬっと二人の背後から現れたのは、ゆるトレジムのトレーナーを務めるサキュバス族のアニタだった。
むっちりとしたボディラインをこれでもかとアピールするウェアに身を包み、妖艶な笑みを浮かべながら、二人を交互に見つめている。
「まさか『バキバキのマッチョ美女』と『重機肩のイケマッチョ』の正体が、『もやし同盟』カップルだったなんてねぇ? 陰から見てて、ニヤニヤが止まらなかったわよ~」
「「!!??」」
二人の顔が、同時に爆発したように真っ赤になる。
全部見られていた。
最初から最後まで、ばっちり見物されていたのだ。
「いやぁ、愛の力って凄いわね! というわけで、無事にカップル成立したおめでた~い二人には、私から愛のお祝いプレゼントよ」
アニタはパンッ! と威勢よく手を叩くと、極上の笑顔で言い放った。
「祝福の記念に、ベントニーシットアップ、あと二セット追加ね!」
「「ええぇぇぇぇぇーーー!!??」」
「さぁさぁ、カップルで手をつないで! レッツ・シックスパック! 幸せのカロリー消費に励みましょう!」
「そんな無茶な! 私を殺す気ですか!?」
「俺の腹筋はもう限界突破してます!」
祝福という名のスパルタ指導に、叫び声を上げる新米カップル。
甘い恋の余韻は一瞬で吹き飛び、ゆるトレジムには二人の悲鳴とトレーナーの高笑いが、いつまでも響き渡っていた。




