07. 鋼鉄の羽と超絶バルク
魔界王都の中心部。見上げるような超高層タワーマンションの五階という、なんとも絶妙かつ控えめな高さに、ミシェルの城こと、1LDKの自宅は存在していた。
「お前、タワマンの五階って意味ある?」
周囲からツッコまれることもしばしばだが、そこは魔界の中心地。立地は文句なしに抜群で、一階の高級共有ラウンジや万全のセキュリティといった恩恵もしっかり享受できる。
ただし、マンション内に併設された住民専用のフィットネスジムだけは例外だった。
そこは、タワマンの家賃を難なく支払う「ステータス抜群のイケマッチョ魔族たち」が、汗を光らせながら自慢のバルクを誇示し合う戦場だ。ひよっこヒョロガリ男子のミシェルが足を踏み入れようものなら、彼らが放つ熱気と威圧感だけで即座に消滅しかねない危険地帯だった。当然、一度も使ったことはない。完全なる本末転倒である。
では、なぜミシェルは、わざわざこのタワマンを選んだのか。
答えは至極単純だった。
筋肉という魔界における最強のモテ要素を持たない自分でも、家賃さえ払えば「タワマン住み」というモテ属性を後付けできるからだ。
筋肉がダメなら、金で買えるステータスを。
コスパを最優先した結果、生み出されたのが、この五階のタワマン生活なのであった。
そんなミシェルは今、ベッドの上で頭を抱え、のたうち回っていた。
窓から見えるのは、すぐ隣にそびえ立つ別のタワマンの無機質な壁。五階という微妙な高さのせいで、眺望はほぼ隣のマンションのコンクリートである。
「俺は……最低な男なのかもしれない」
ジムから帰宅し、シャワーを浴び、あとは寝るだけ。一日の中でもっとも至福を感じるはずの時間なのに、ミシェルの胸には、ずっしりと重たい罪悪感が居座り続けていた。
原因は、今日のジムでの出来事だった。
リンと二人で「いっち、に!」と微笑ましい汗を流し、イチゴミルク味のプロテインをちびちびとすすり、帰りには、いつもの高タンパク・低カロリーを売りにしたグリルダイニング『ザ・グリル・ボタニカ』で食事をした。
そして、その時間が楽しかった。
泣きたくなるほど、ものすごく楽しかったのだ。
だからこそ、ミシェルは悶々と悩んでいた。
「俺……リンさんのことが、好きなんだと思う」
とうとう、誰もいない六畳一間の部屋に向かって、ミシェルは言葉を吐き出してしまった。
誰も聞いていないというのに、真剣そのものの顔でこくりと頷く。
「今日だって、ヒョロガリな……じゃなくて、細身な女性とマッチョな女性ならどちらを選ぶかって聞かれて、真っ先にリンさんの顔が浮かんだし……」
お分かりいただけただろうか。
哀しいかな、ミシェルは一切気づいていない。そもそもリンが「ヒョロガリな女性」と表現したのは、何を隠そうリン自身のことだということに。
ミシェルは「友達の話なんだけど……」という前置きを文字通り、完全に別の誰かの相談として額面通りに受け取っていたのだ。
(まさかリンさんには気になる男性がいて、その人の好みを探るために俺に意見を聞いてきたんじゃ……?)
さらにそんな後付けの勘違いまで発動させ、ミシェルはひとりで勝手に切なくなっていた。
「それに比べて俺は……アプリで会ったこともない相手と、いつまでもダラダラやり取りを続けて……」
勝手に罪悪感を加速させるミシェル。
「会えないマッチョ美人より、実際に会って、一緒に笑って、一緒にご飯を食べられる女性を選ぶべきだ。よし、マッチングアプリは退会しよう!」
静かに拳を握りしめる。
「俺は、誠実な男になる」
その決意は、実に立派だった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
ところが、ベッドの上に放り出していた端末が、ポロン、と呑気で可愛らしい通知音を立てた。
「……」
ミシェルの視線が、恐る恐る端末へと向かう。
画面に浮かび上がっていたのは、見慣れた、しかしあまりにも不穏なアカウント名だった。
『超絶バルク@煮込み中』
途端に、先ほど固めたはずの決意が、豆腐のごとくぐらりと揺らぐ。
「い、いや、ダメだ……っ!」
ミシェルは勢いよく端末をバタンと伏せた。
「俺はリンさんに誠実になるんだ。今日はもう返事をしない。絶対に見ない!」
五秒後。
「……でも」
そーっと端末をひっくり返す。
「せっかく送ってくれたのに、既読をつけないのも失礼だよな? そんな不誠実な対応は、堕天使としてどうなんだって話だし」
さらに五秒。
「いや、ダメだ! 誘惑に負けるな、俺! 誠実な男になるって決めただろ!?」
再び、バタンと魔導スマホの画面を伏せる。
三秒後。
「で、でも、どんなメッセージなんだろう。怪我したとか、まさか、親御さんに何かあったとか? う、気になる。ちょっとだけ……チラ見するだけなら……」
結局、ミシェルは吸い寄せられるように画面を開いてしまった。
【超絶バルク@煮込み中】:今日はジムの日でしたか?
「……っ」
ミシェルの眉が八の字に下がる。
たったそれだけの、なんてことのない一言だった。なのに、画面越しに伝わってくる相手の穏やかさに、妙に胸の奥がきゅんと温かくなってしまう。
画面上に鎮座している相手のプロフィール画像は、顔面までバキバキに仕上がった超弩級の美女ゴリマッチョ。
どう見ても素手で戦車をひっくり返せそうな、殺傷能力百パーセントのビジュアルだ。それなのに、繰り出されるメッセージはどこまでも優しく、丁寧で、温かい。
(ま、まずいぞ、このギャップ萌えの気持ちは!)
視覚から入る物理的な暴力性と、文章から溢れ出る内面の圧倒的ヒロイン力。
その凄まじい寒暖差に、ミシェルの思考回路はバグを起こしかけていた。
「アイコンはあんなに……あんなに肩に魔界の重機を乗せてそうな見た目なのに……! なんで中身は図書室の窓際で紅茶を飲んでいるような優しい女性なんだよ」
ビジュアルのイカつさを、「ギャップ萌え」という勝手な脳内補正で上書きしていく。
(ダメだ! 惹かれちゃダメだ! 俺はリンさんに誠実になるって決めたんだから……)
画面の中のバキバキな美女が放つ、危険すぎるギャップ萌えの罠。
ミシェルの「誠実な決意」は、早くも木っ端微塵に粉砕されかけていた。
【鋼鉄の羽@運動不足】:はい。今日は友人と一緒にトレーニングしてきました。
指が勝手に動き、真顔で送信ボタンをタップする。
そして直後、正気に戻ったミシェルは、ハッと息をのんだ。
「俺は何をやっているんだぁぁぁーー!!??」
自分の意思の弱さと自責の念に駆られ、ミシェルは慌てて端末をベッドの端へと放り投げた。
しかし、無情にも返信はコンマ数秒レベルの爆速で返ってきた。
【超絶バルク@煮込み中】:素敵ですね。誰かと一緒に頑張れるって、いいことだと思います。お互い励みになって、長続きもしますしね!
「……っう」
ミシェルの胸が、きゅっと締め付けられる。
(うわあああ、優しい! なんでこんなに優しいんだよ。相手のハンドルネーム『超絶バルク』なのに。絶対、アイコンのゴリゴリ写真とは裏腹に、中身は闇落ちしない天使みたいな人なんだ)
「誠実な男」を目指す男の葛藤は、アプリの相手から放たれる圧倒的な善人オーラによって、早くも大迷走を極めていた。
【超絶バルク@煮込み中】:私も、最初は誰かと一緒にジムへ行くなんて考えたこともありませんでした。でも、最近は少しだけ、誰かと一緒に筋トレするのって楽しいって思い始めています。
ミシェルは画面を見つめた。
『超絶バルク@煮込み中』
会ったこともない女性なのに、話していると不思議なくらい心が落ち着く。
こちらのヒョロガリなイケてない容姿も、身分も、生活も知らない。だからこそ、余計なことを気にせず、素の自分を出せる。
ミシェルが本当は筋肉質でもないし、2kgの黄色いダンベル程度でイキっているだけの男だと知られることもない。
何より、超絶バルクが実際はどんな女性なのかも、ミシェルは知らない。
それなのに。
【超絶バルク@煮込み中】:何度もメッセージごめんなさい。でも、鋼鉄の羽さんと話していると、不思議と心が軽くなるんです。
ポロン、と追撃のメッセージが届いた。
「……反則だろ、それ」
ミシェルは限界を迎え、ベッドに突っ伏した。
「そんなこと言われたら、退会なんてできるわけないじゃないか……」
頭まで抱え、「うおー!」と悶絶するミシェル。
誠実な男になるという十分前の高らかな誓いは、どこかへ飛んでいってしまった。
(絶対この人、奥ゆかしくて可愛い人だ! アイコンの肩幅は戦車みたいだけどな!!)
ミシェルの脳内補正という名のフィルターは、今夜も絶好調にバグり散らかしているのであった。




