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06. マッチングアプリの相手と現実の相手

 リンの紹介でミシェルが正式にジムへ通うようになってから、一か月。二人は「継続は力なり」を合言葉に、毎週仲良く汗を流していた。


 本人たちはいたって真剣なのだが、やっていることは、プロのマッチョたちから見れば準備運動以下の何かである。


「ミシェルさん、すごいです! 今日は2キロの黄色いダンベルで、アームカール十回三セットをやりきりましたね!」


「はぁ……はぁ……。リンさんの『いっち、に!』という声援のおかげです。でも、もう腕の感覚がありません……」


「無理は禁物ですよ! さあ、ゴールデンタイムが終わる前に、冷たいプロテインをどうぞ」


「ありがとうございます。ああ、体に染み渡ります」


 ベンチに並んで座り、二人はイチゴミルク風味のプロテインをちびちびとすすった。


 周囲では、「あらあら、今日もしっかり呼吸できて偉いわねぇ」「無理は禁物ですよ~」と、まるで縁側で孫のストレッチを見守る祖父母のような、インストラクターたちの優しい声が響いている。もはやジムというより、デイサービスである。


 そんな穏やかな時間を積み重ねるうちに、二人の距離は確実に縮まっていた。


 ジム帰りに毎度のように吸い込まれるのは、高タンパク・低カロリーをストイックなまでに追求したグリルダイニング、その名も『ザ・グリル・ボタニカ』だった。


 初めて訪れた時は、オーガニックでおしゃれなカフェ風の外観に惹かれて入った。ところが、メニューを開けば「鶏胸肉の低温調理~脂質を極限まで削ぎ落として~」といった、筋肉に媚びを売るストイック飯がずらりと並んでいて、ある意味トラップのような店だった。


 それでも、二人にとっては「余計な脂が少なく、意外と胃に優しい穴場」として、すっかり定着している。


 脂を極限まで削ぎ落とされたチキンをはむはむと噛み締めながら、仕事や趣味の話をしたり、「なぜ自分たちの体は、これほどまでに筋肉を拒絶するのか」という深すぎる哲学的な悩みを語り合ったりする。この「胃腸をいたわり合う筋肉ミーティング」は、いつしか二人にとって、一週間の中でもっともかけがえのない癒やしの時間になっていた。


 今日も、このあと一緒に店へ行くことになっている。リンはジムのベンチでプロテインをすすりながら、隣のミシェルの横顔を見つめた。


(ミシェルさんと一緒にいると、本当に心が落ち着くなぁ)


 華奢で、肌が白くて、守ってあげたくなるような美青年。最初は筋肉男子と出会いたくて合コンに参加したはずなのに、今ではアプリの鋼鉄の羽と連絡を取りつつも、現実でミシェルと過ごす時間のほうが、圧倒的に愛おしく感じられる。


(やだ私、もしかして……)


 胸の奥がきゅっと熱くなり、リンは慌てて視線を泳がせた。


(でも、彼氏としてSNSや友達に見せびらかすなら、断然、鋼鉄の羽さんみたいなバキバキのマッチョよね。グラナにも『ほら見て! 超エリートの筋肉男子を捕まえたよ!』ってドヤ顔したいし……)


 トレンドに流されやすいリンの頭の中では、「やっぱり理想はマッチョ!」という声が盛大に響いている。一方で、隣に座るミシェルがイチゴミルク風味のプロテインを「おいしいです」と大事そうに飲んでいる姿を見ると、胸のときめきが止まらないのも事実だった。


(理想と現実の狭間で揺れちゃうわ。恋ってつらい……)


 リンは深いため息をつき、プロテインをもう一口すすった。


 一方、隣のミシェルもまた、ストローをくわえながら、ちらりとリンの横顔をうかがっていた。


(リンさん、今日も可愛いな)


 仲良くなり、アプリで理想の男性を探していると打ち明けられた時は、焦りを感じた。でも今は、自分のような頼りない男の隣で、こんなにも楽しそうに笑ってくれることが嬉しくて仕方がない。


 だからこそ、幸せな気分になればなるほど、罪悪感に押しつぶされそうになる。


(俺、何やってるんだろう。目の前にこんなに素敵なリンさんがいるのに、超絶バルクさんとも毎晩甘いメッセージを交わしてるなんて。これじゃ、まるで二股じゃないか)


 ミシェルは本気で、自分を二人の女性の間で揺れ動く最低な男だと思い悩んでいた。


(でも、女の子とこんなふうに楽しく話せるなんて、人生で初めてなんだ。どっちも手放せない。くっ、俺ってなんて愚かな男なんだ……)


 罪悪感に苛まれながら重いため息をつき、ストローを噛み締める。


 目の前の相手がアプリでやり取りしている相手と同一人物だとは、どちらも気づいていない。ひたすら優しい癒やし系音楽が流れるジムで、二人のすれ違いラブコメディは、ますますおかしな方向へ加速していた。


「そういえば、ミシェルさん」


 プロテインを飲み干したリンが、ふと思い出したように口を開いた。


「友達の話なんですけど。ちょっと悩んでいるらしくて」


「何を、ですか?」


「ヒョロガリな女性とマッチョな女性。そんな正反対の二人に同時に告白されたら、どっちを選ぶかって。ミシェルさんなら、どっちを選びます?」


「ひっ……!?」


 ミシェルは思わずプロテインを喉に詰まらせそうになった


(えっ、なんで!? も、もしかしてリンさんは魔女で占い師だから、俺が二股してる不誠実な男だって見抜いてるのか!?)


「ゲホッ、ゲホッ!」


 激しく咳き込み、鼻にまで回ったイチゴミルク味のプロテインに涙目になる。首にかけていたタオルで必死に顔を拭いながら、ミシェルは声を裏返らせた。


「ど、どうして急にそんな質問を!?」


「あ、すみません。変なこと聞いちゃいましたよね。気にしないでください!」


 リンは慌てて両手をぶんぶんと振った。


「いえ、その……変というか、かなり答えにくい質問ですね」


 ようやく咳が収まったミシェルは、赤くなった目元をタオルで押さえた。


「ただ、ちょっと気になっただけなんです。ほら、魔界って今、空前の筋肉ブームでしょう? だから友達も悩んでるみたいで」


「それは、そうですね」


「やっぱり世間一般では、マッチョで仕上がっているほうが魅力的なのかなぁって」


「なるほど」


(よかった。二股がバレてるわけじゃなさそうだ……)


 内心ほっとしながら、ミシェルは真剣な表情で考え込んだ。その繊細な横顔を、リンはちらちらと盗み見ていた。


(ミシェルさん。さあ、どう答えるの……?)


 まだ二十歳のリンは、「他人が選んでいるものは正しい」という無意識の思い込みにより、トレンドを追いかけた結果、アプリに並ぶ、奇跡の逆三角形を誇る筋肉男子たちに惹かれる気持ちを、どうしても捨てきれない。


 けれど、できることならミシェルにはトレンドに流されず、「俺は、もやしのように細くて弱々しい女性がタイプです」と、高らかに宣言してほしかった。


(頼むわよ、ミシェルさん。お願いだからヒョロガリを選んで。私たちの『もやし同盟』を、ここで裏切らないで……!)


 心の中でプロテインシェイカーを激しく振る勢いで祈りながら、リンはミシェルの答えを待った。


「俺なら――」


 ミシェルがゆっくりと口を開くと、リンは身を乗り出した。


「はい。ミシェルさんなら?」


(さあ、運命の瞬間が来るわ!)


 心臓が、最軽量のピンク色ダンベルを全力で持ち上げている時以上に、激しく高鳴っていた。


「俺は、ヒョロガリな女性を選びます」


「えっ。ほ、本当ですか……!?」


 思わず素の声が漏れたリンに、ミシェルは迷いのない目で、力強く頷いた。


「はい。そもそも、俺自身がマッチョじゃないですし。無理に背伸びして筋肉を誇示し合うより、一緒にいて落ち着く人のほうがいいですから」


「それは、まあ、そうですね」


 リンはミシェルの細い腕に目をやった。


 ひょろりとしていて、守ってあげたくなるような腕。この一か月でピンク色のダンベルを卒業し、ついに2キロの黄色いダンベルを持てるようになったとはいえ、世の中の猛者たちと比べれば、あまりにも儚げである。


「で、でも、もしも……」


「もしも?」


「告白してきた相手が、理想そのものの、モデルみたいに美しい筋肉を持ったオーガ女子だったら?」


 リンの脳裏に浮かんだのは、魔界の女子たちの憧れ。トレンドの最先端をひた走る、マッチョビューティーなオーガ女子たちだった。


 オイルを塗って艶めく、見事にビルドアップされた大腿四頭筋と腹筋群。圧倒的なフィジカルと、計算し尽くされたバルク美。まさに筋肉界のトップモデルである。


 彼女たちのSNSは、「今日のパンプアップ最高!」「筋繊維が喜んでる!」といった言葉を添えた、意識の高すぎる画像で溢れている。コメント欄も、フォロワーからの「キレてるよ!」「肩に魔界の重機乗ってんの!?」という熱狂的な声で、日々埋め尽くされていた。


 それに引き換え、リンのSNSといえば、「今日はきのこ汁に挑戦」と、何のひねりもない料理画像を投稿する程度。「いいね」は二件、地元で暮らす父と母のみという、あまりにも寂しい有様だった。


 世界観の差がエグすぎて、何度も鍵アカウントにしようと思ったものの、なぜかできずにいる。


「誰もが羨むような完璧なマッチョ美人が、『ミシェルくんが好き! ちょっとハグしていい?』って迫ってきたら?」


 リンがわざとらしく首を傾げて尋ねると、ミシェルは一瞬ぽかんとしたあと、自分の華奢な肩を両腕でぎゅっと抱きしめ、ぶるぶると身震いした。


「無理です、無理です! 想像しただけで生きた心地がしません! ハグされた瞬間、俺の肋骨が全滅しますよ!?」


「ろ、肋骨……」


「はい! 相手がどれだけ美しかろうが、愛情表現がそのまま致命的な物理攻撃になるじゃないですか。常に圧死のリスクと隣り合わせの恋愛なんて、俺の胃腸と骨密度が耐えられません。絶対に『ごめんなさい!』って叫びながら、脱兎のごとく逃げ出しますね」


 あまりにも切実で、己のひ弱さを微塵も隠そうとしない潔い拒絶ぶりに、リンの口元が思わず緩んだ。


(勝った……! 圧死の恐怖が、魔界の最新トレンドに完全勝利したわ!)


 この瞬間、リンの中で「ミシェル>筋肉(鋼鉄の羽)」という図式が、完全かつ不可逆的に成立した。


 アプリに並ぶ理想のマッチョたちも、オイルで輝く美しきオーガ女子も、ミシェルの圧倒的な安心感の前では霞んで見える。


「そうですか。そこまで言うなら安心……じゃなくて、ミシェルさんの意志は固いんですね」


「固いです。俺の筋肉はフニャフニャですが、そこだけはダイヤモンド並みに硬いです。俺はヒョロガリ女子を選びます!」


 胸の前で固く拳を握り、熱弁するミシェルの姿に、リンの心の中ではファンファーレが盛大に鳴り響いていた。


(よかった。ミシェルさんはやっぱり、期待を裏切らない最高のヒョロガリ男子だわ!)


 心の中で渾身のガッツポーズを決めながら、リンは赤くなった顔を隠すように、慌ててイチゴミルク風味のプロテイン容器を両手でぎゅっと握りしめたのだった。

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