76.世界終焉の始まり③
シュトラゾーム自身が抑えているとはいえ、真なる魔王の魔力の放出は大地を穢す。
案の定、真なる魔王の復活を悲願とする『過激派』は前線基地であるゼフェスゾーム辺境領を襲撃した。
エヴァンスは『伯爵』を倒し――どす黒いそれを吐血した。
肉体への損傷はない。ただ、騎士たちを蝕む超高濃度の魔障を吸収し続けて『騎士』エヴァンスの臓腑は悲鳴を上げる。
(連中…真なる魔王がほんの少し目覚めただけで…これ程強化されるか)
発生する魔障の濃さが従来のもの以上だ。
聖女ヴィオラやサリナ達に一切の非は無い。彼女らはあらん限りの加護を付与し最善を尽くした。
ユーフェミアの抗体が無ければ、騎士団は壊滅しているし、真なる魔王の発する疫病の対処すら出来ない。
己ですら当に即死している。
――災害に真っ向から挑むようなもの。
真なる魔王は人間がどうこう出来る存在ではない。それだけだ。
「エヴァンス殿‼」
オルトスも数多の魔障を受け、酷い痛みだろうがそれでも前線を維持し続ける。
「――後退せよ。殿は私が請け負う、バーンベルク侯爵領で立て直せ」
(愚弟の気持ちが少し、分かった)
「エヴァンス殿‼ 後退命令など……まだ我らも戦える!」
オルトスが叫ぶ声が耳を掠めたが、エヴァンスは血が滲む拳を握りしめたまま首を振った。喉の奥が焼けつくように痛い。肺腑に絡みつく高濃度の魔障は鉛のように重く、呼吸ひとつが拷問のようだ。
(ああ……そうか……ヒルベルテ……お前はこういう気持ちだったのか)
脳裏に蘇るのは、『君主』に塵にされ遺体も残らなかった弟。
強大な敵の前、死の選択を迫られたヒルベルテ。
母シルヴィナの損失がバーンベルク侯爵領並びに、弟の婚約者すら危険に晒す。そう、先の未来を見据えて必死に立ちはだかった弟。
あの日も今と同じだ。守りたい者が背後にいる――それだけが、震える足を前に進ませた。
「……ヒルベルテ……」
無意識に漏れた言葉に、オルトスが苦悶の表情で眉を寄せた。
「……エヴァンス殿?」
「いや」
エヴァンスは微かに微笑んだ。最期の力で振り絞った声が虚しく響く。
「……我が弟は……母を庇って一度死んだ。あやつの無謀を叱咤してやったが……同じ道を選んだ自分がいるとは…皮肉なものだ。
――騎士全員の魔障の浄化を行う。その隙に撤退しなさい」
エヴァンスの身体では、その負荷にとても耐えられないだろう。
だが。オルトス。
あの小さな奥方を置いて行くには、君は…早すぎるだろう。
弟の友を死なせては、兄として不甲斐ない。
(サリナ……すまない)
刹那――
風を裂く轟音と共に巨大な影が前線に降り立った。戦場の熱気が一瞬で凍りつく。
純白の獣――神話より抜け出たかのような雄大な姿。白銀の毛並みが陽光を弾き、その眼差しは深い湖面のように静謐だった。
エヴァンスや他の騎士たちを蝕む魔障の激痛がたちまち浄化される
「な……何だあれは!?」
「魔物の援軍か!? いや……違う……」
痛みの消えた兵たちがざわめく中、神獣はゆっくりと頭を下げた。
「…ベアトリス殿」
その背中には――血濡れのドレスを翻し、四肢で必死にしがみつくベアトリスの姿がある。両目から血を流し、右腕は肩から引きちぎられているのに、その歯で神獣の毛に喰らいつき指先の僅かな魔法式が力を纏って機能していた。
「ベアトリス様‼」
「……大丈夫……神獣の力で、魔障は浄化される……。
私の眼を介して…鏡の聖女デイジーの遠隔操作で…他の聖女たちが防護障壁の修復を行っている。
早く部隊を立て直す…指示を出せ」
オルトスは不意に神獣と目が合った。
「アヌ……シュカ……?」
疑念ではなく、確信に近い声。
困ったように垂れ下がる耳と尻尾、そして夜空のような瞳に覚えがある。
己を二度蝕んだ魔障の痛みは引いた。それを確認するように顔を寄せる。
気づけば、手を伸ばしていた。
神獣はゆっくりと瞼を伏せ、オルトスが伸ばした手に頬を摺り寄せた。
(――そうだ。これは妻だ)
オルトスの目に映る獣は『化け物』ではない。『愛する者』がその身を削って自分たちを守るために選んだ姿だった。
「……君を護ると言っただろう、どうして、こんな無茶を」
獣は返事をしなかった。代わりにオルトスの掌に額を押し当てた。
夜空のような瞳が濡れている。言葉にできない畏縮がそこに滲んでいた。
『驚かせたでしょう……ごめんなさい』
そんな声にならない懇願が触れた体温を通して伝わってきた。
「……すまない、君の方が遥かに怖がっていたんだな」
大切にしている者たちに、化け物として見られることにアヌシュカは恐れを抱いている。
無意識に呟くと神獣の瞳が揺らぐ。それが唯一の肯定だった。
しかし束の間、背中にしがみついていたベアトリスが低く呻く。
「……もう時間がない……。真なる魔王の魔障をここまで抑えた……アヌシュカがやらねば戦場全体が崩壊する……」
オルトスが目を見張る。
「では俺が行く。お前一人にはさせられない」
神獣は鼻先で優しくオルトスを押し戻した。
『……貴方は皆を導いてください』
「離すわけがない‼ 」
オルトスの手が獣の毛に絡みつく。
「君だけが背負う必要なんてどこにもないんだ‼」
『オルトス様は、ここで皆を率いるべきです』
オルトスは唇を噛み締めた。無理にでも留めたい。だが、戦況を長引かせれば多くが死ぬ。
その無垢な信頼に自分が抗うことこそが間違いだと告げる本能があった。
「……必ず還って来い……命令だ」
「…………」
返答は、無かった。
次の瞬間――大地を蹴り上げた脚が爆ぜるように地を抉り、風が渦を巻いて舞い上がった。咆哮が山脈の漆黒の雲を切り裂く。
「アヌシュカァァァ!!」
オルトスの絶叫が砲火の狭間を越えて宙に溶けた。神獣はすでに真なる魔王の潜む封印の山頂を目指し飛び去った。その姿は流星の如く眩しく、そして決して戻らぬ旅路のように孤独だった。
ベアトリスはアヌシュカの背に乗り、血濡れの眼光をアヌシュカの行く先々に送る。
ベアトリスの邪視の能力というよりも、『死』に至るまでの術式で留め置けば真なる魔王の妨害も無い。
オルトスが咆哮とともに天空へ消えた神獣を見送る背後で、地上ではすでに反撃の火蓋が切られていた。
「…母やアヌシュカ殿が時間を稼いでくれている。今しか機会はない!」
エヴァンスがオルトスを叱咤し号令をかける。諸侯王とはいえ再生がおぼつかず、胸を押さえながら、それでも指揮官然とした厳格さで声を張った。
その足元には血溜まりができていたが、彼は倒れなかった。
「配置を維持せよ! 前列は盾で防御を固め続けろ! 聖女たちの加護が届く限界まで持ちこたえろ!」
++++
「皆さん、聖女ヴィオラ様が結界を展開しています!落ち着いて聖女サリナ様とプリムラ様の二重結界の中へ‼」
カレンとミュゲが非戦闘員を結界内に誘導するため走り回りながら叫んだ。二人とも騎士ではないが、今は非常事態である。
ダリアも動揺する領民たちを落ち着かせる。
ヴィオラもまた泣き腫らした目を拭いながら手を掲げた。
「──奥サマが戻ってくるまで、皆を護る!」
聖女たちの祈りが幾重にも重なり淡い金色の光が戦場を覆う。
これにより一時的に魔障の侵食速度が抑制され兵たちの動きが取り戻された。だがそれも長くは続かない。あくまで延命措置に過ぎなかった。
光は脆く儚い──風前の灯火のように見えた。
「人間の底力、舐めて貰っては困りますね」




