73.決戦間近の想い
夜になり、オルトスがベッドで横になっていると、アヌシュカが静かに部屋に入って来た。
「どうしたアヌシュカ?」
彼が起き上がろうとすると、『このまま聞いてくれて大丈夫です』と言われた。
彼女はそっとベッド脇に座り込んだ。
「僕……やっぱり行けないです。皆さんが死んでいくかもしれないのに……僕だけ逃げるのは嫌なのです。
僕は、魔王です。なので、お役に立ちたい…です」
オルトスは暫く無言でアヌシュカを見つめていた。
やがてゆっくりと身体を起こし、彼女の手を取った。
「君は逃げるのではない。親交ある領とはいえ、不安な領民も多い。約束してくれ。俺が戻るまで君が彼らを護って欲しい」
「…僕は、足手まといですか?」
「違う」
オルトスはアヌシュカの腰を抱き寄せる。
抱き寄せられたアヌシュカの瞳には涙が浮かんでいた。
――随分と感情豊かになった。そんな感慨を胸にしながらオルトスは妻を強く抱き締める。
アヌシュカを占めるのは、…罪悪感だろう。
自身の母が邪視の魔女ベアトリスを何か月も足止めしなければ、彼女の友人を救えたかもしれない。
神が人間を見捨てるきっかけを作らなかったかもしれない。
『たられば』の話だ。それでも考えずにはいられないし、動かずにいられない。
シルヴィナと同等の諸侯王の序列故、余計に焦りが生まれている。
そんな危ういアヌシュカを前線には立たせられない。
「……お願いだ。俺を信じてくれ」
「分かり……ました」
泣き腫れた顔を彼の胸に埋めるとアヌシュカは静かに嗚咽を漏らした。
オルトスは妻の小さな頭を優しく撫で続けた。彼女が落ち着くのを待ってから、改めて問いかけた。
「明日の朝一番に君を安全な場所へ送り届ける。その後は我々騎士たちが力を尽くす番だ。無論、君の力が必要な時も来るだろう。その時まで待っていてくれ。」
「……はい」
涙の跡が残る頬に触れると、アヌシュカはオルトスの大きな手に頬を擦り付ける。彼女の温もりを感じながら、オルトスはそっと唇を重ねた。
「…怖いか?」
「怖くないです。ほわほわ…です?」
その信頼に満ちた眼差しに、オルトスの胸が熱くなる。
(こんな状況で何を考えているんだ俺は)
自嘲気味な笑いが込み上げてきた。だが同時に、この幼い妻を今ここで抱いてしまう訳にはいかないという理性も働いた。
彼女はまだ十五歳だ。身体だけでなく心も成熟しきっていない。今回の戦いを前にして、互いにとって負担になるような行為は慎むべきだ。
「今日はもう休もう」
オルトスはそっとアヌシュカの額に唇を押し当てた。それ以上のことをする気はなかった。
「はい。ちゃんと奥様のお務めします、大丈夫です」
そう言って笑うアヌシュカの強さに胸が痛んだ。
(いつか必ず)
オルトスは心の中で誓った。この戦いが終わったら、ちゃんと向き合おうと。
だからこそ今は――。
彼女を守るために戦場へ赴かねばならない。それが自分の選択であり責任だった。
翌朝早く。
アヌシュカはヴィオラたちと共に結界の維持を調整していた。背後ではオルトスとその精鋭たちが各々の配置につく。
馬車が出発する時刻になると、アヌシュカがオルトスの前に現れた。
「行って参ります。…お帰りをお待ちしています」
凛とした佇まいだったが、その手は小さく震えていることに気づいた。
オルトスは思わず手を伸ばし、彼女の柔らかい頬に触れた。
「ああ、待っていてくれ」
ゼフェスゾームの山々からは未だ異常な兆候は見られない。しかし誰も油断せず、緊張感を保っていた。
一方でシルヴィナもまた別の場所で策を練っていた。
「さて――。大司教共はこちらの準備が整う程度には山脈で迷ってもらおう。最初の一手は私自身が打つが――予測の仕様が無いのがねえ」
そう独り言ちながらも、彼女の眼差しはどこか寂しげだった。
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「ノア、タイミングは外さないでね。あの馬鹿が封印を解いたら、結界の崩壊の時間停止を解除、撤退。後は僕が引き受けるから」
「分かりました。…嬉しそうですね」
「うん。…ここには想い入れは無いけどね。デイジーと会えたのは嬉しい。
デイジーが発案した近代魔法の応用で糞親父に一矢報いることが出来るなら、もっと嬉しい」
「…師匠、今、とんでもない事を言いませんでした?」
「そう?糞親父、魂の分体を作って転生しているだけだよ?まあ、封印を破るほどの転生先には恵まれていないけどね」
幸か不幸か、自身は神が定めた聖女が傍に居たので、干渉が出来なかったが。
その聖女も死に、徐々にクロヌスへ真なる魔王の干渉で人間への憎悪が植え付けられてきた頃。
『やったですよ~糞親父~っ親父の研究正しかったですよ、ざまあみろ~』
そう言って墓に酒をぶっ掛けて酒盛りする男が居た。
何故か、ウザがらみされて、少年だったクロヌスに酒を勧めて来た。
何でも、彼の父が説いた『ゼフェスゾームの山脈=大魔王説』が原因で処刑が決まった父が、処刑の前に研究資料の半分を『お前みたいな半人前には半分で十分だ‼』と研究資料を真っ二つに引き裂いて飲み込み、男はそれを半生掛けて復元したという。……酔っ払いの戯れ言は意味不明だったが、異様に的は得ていた。
『世間に公表するの?』
『いや、絶対認めないっですって。多分僕も処刑されるんじゃない?』
あまりに軽かった。
『どうして?分かっているのに研究したの?』
『楽しいからですよ‼』
本当に理解不能だった。けれど、得も言えぬ感情が芽生えた。
男は最後にこう言った。
『おい、糞神の半分野郎‼』
『それは僕のこと?』
『そうですよ、半人前の糞ガキさん。お前はそれで終わるんじゃないですよ!?俺の親父は天才なんですからね。そして僕も半人前じゃなくなったんです‼
もし、お前が大魔王とやらになるなら、お前の大魔王の概念を殺すのは人間ですから‼覚えて置くことですね‼』
そう言われても当時は意味不明だった。
その男は墓場で大騒ぎをしていたのを捕まり、珍説を説く異端者と処刑された。
だが、男が書いた研究資料(予備)はとても好奇心を刺激させられた。
人類の遺した書物を読み解くうちに、糞親父――真なる魔王の干渉は減っていった。
ゼフェスゾームの山脈の登頂にも挑戦し、つい最近雪山登山を舐めて掛かって死に掛けた。
死に掛けている自分を救ったのは、これまた雪山登山を敢行した女の子。
気付けば遭難して凍死寸前だったのを全裸にされてその子と温め合っているわ、恥ずかしさに離れようとすれば、『死に掛けていたんですよ!?ほら、これ温熱の魔石‼股に挟んで‼』と怒られながら温めて貰った。
ついでに温かいスープを口にねじ込まれた。
回復後、近くに山岳民族の集落があるそうで、その子はふわふわで腰まで沈む雪を踏み締めて道を作り、クロヌスを誘導してくれた。
口調やら探求心の強さから薄々思っていたが、やはりデイジーはあの酔っ払いの子孫だった。
好奇心旺盛で発想力や分析力に長けた彼女は新聞記者にしておくのはもったいない。
彼女はとても面白い人材だ。
なので、糞親父には眠っていてもらわないと困る。
「残念だったね。僕はデイジーに心を射止められたから、真なる魔王の味方にはならない」
「確かに、師匠の春は邪魔させられませんね」




