72.酷薄なるバーンベルク女侯爵
ゼフェスゾームの山脈と最も隣接しているゼフェスゾーム辺境領の領民は、隣領のバーンベルク侯爵領へ移ることとなった。
その事前準備に聖女であるアヌシュカやヴィオラたちはゼフェスゾームの山脈に接する区域へ防護結界を張り続けた。
ローレル教皇もゼフェスゾーム辺境領に戻り、結界を張る。
教皇自ら前線基地となるゼフェスゾーム辺境領に居るのはどうかと思うが、『神官の力は弱まったが、傷病人の治療は出来ます』と自ら向かった。
今までの教会上層部と異なる民衆に寄り添う教皇に鼓舞され、神官や教会の在り様に懐疑的となった人々の支援も受ける。
他の山脈に面する領や魔物の発生区域が近い地域の聖女たちや神官は徹底して結界の展開に追われた。
アヌシュカは前線基地で諸侯王『侯爵』としての役目を全うするつもりだった。
「聖女アヌシュカ、ヴィオラ、ローレル教皇。君たちは隣領のバーンベルク侯爵領で待機だ」
シルヴィナから後方での待機を命じられた。
「ちょっと待って、最前線で戦う人たちが怪我をしても隣領じゃあ時間がかかる‼」
「古の封印がどの程度機能しているか分からない。先遣隊を投じてから君らには働いてもらう。正確に言えば領の境にある村落を君らの拠点にしておきたい」
ヴィオラが抗議するが、アヌシュカは自身が戦力外通告をされた事に呆然とした。
「僕も残ります。旦那様のお役に立つのです」
アヌシュカは窓辺に立ち、遠くゼフェスゾームの山々を眺めた。陽光に照らされた山頂の雪は宝石のように輝いている。あれが善なる神の腹心が悪しき存在を封じているとは、信じられないほど美しい景色だった。
「僕は逃げません」
彼女の声は静かだったが、決然としていた。背後で控えていたメイド長のダリアが微かに動揺を見せた。
「奥様。旦那様からも後方での待機とのご命令です。あなたを前線に出すことはないと」
アヌシュカは振り返り、小さな拳を胸元で握りしめた。
「僕は、魔王…諸侯王です、戦えます」
「駄目だよ」
その瞬間、部屋の空気が変わった。入室したシルヴィナがアヌシュカを止める。
「君は辺境伯夫人として、領民と共に避難だ」
「でも」
「実戦経験も、諸侯王としての経験年数も短い君は足手まといだよ。
君は知識こそ備わっているが実戦に生かせていない。
君の夫の方がそれなりに戦える。…君は5歳の王様と老獪な大臣、どちらの政策を重用するかね?」
シルヴィナの言葉は厳しいが真実だった。アヌシュカは俯いた。
部屋に沈黙が落ちる。しばらくして、シルヴィナが深い溜息をついた。
「正直に言えばね、結界を張り直す時間稼ぎの要因は必要なのだよ。
先の戦いで、諸侯王が共に戦ったときの連携戦術もそうだがね。こちらが結界を展開中、悪足搔きをする真なる魔王に有効な一撃を加えられるのは、私と同じ『侯爵』である君だけだよ」
アヌシュカは驚愕した目で見上げた。
「では、僕……僕なら……」
「待って下さい。……バーンベルク女侯爵、使用人である私めに高位貴族を諫める発言は許されません。ですが、主を護る発言は許されております。
……奥様の御身を危険に晒す言動は、承知致しかねます」
「そうか、ここの使用人は勇敢だね」
アヌシュカを庇うように腕を広げ間に入るが、ダリアは震えていた。彼女を見たシルヴィナの口調が優しくなる。
「ま、今はまだ早い。封印から醒めた真なる魔王の動向の把握もいる。
それに、君の大切な領民達を安全な所に送り届けるのも、十分大切な任務だよ」
シルヴィナはメイド長ダリアの鋭い視線を真正面から受け止めた。彼女の白銀の髪が揺らめき、その瞳は深淵のように底が見えない。
「おやおや、随分と強い忠誠心だ。だがね、ダリア。これは単なる感情論ではないのだよ」
彼女はダリアの頬をそっと撫で、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「先の我等が諸侯王の連携戦術は真なる魔王には使えない。
真なる魔王はこの世界に留めておかねばならない。
我が君が施した古の結界は既に限界だ。それを解き、再展開し、再び魔王を封じ込めるには、私や聖女では足りない。最悪の場合――」
そこで言葉を切り、シルヴィナは意味ありげに微笑んだ。
「誰かが、その致命の隙を作らなければならないだろう?」
「バーンベルク女侯爵様‼」
その言葉の裏にある意味を悟っても尚、ダリアはシルヴィナから目を背けずアヌシュカとの間に立ちはだかった。
想像できる最悪を垣間見たダリアの呼吸は荒い。
「ダリア……?」
悲鳴にも似たダリアの叫びにアヌシュカがどうしたのかと声を掛ける。
ダリアは一度目を瞑り、呼吸を整えてアヌシュカに向き直った。
「奥様、領民を安全な場所に移動するのも、辺境伯夫人としての務めです。領民の安全を先ずは優先してくださいませ」
「分かりました。…ダリア、どうしたのですか?辛いのですか?」
「いいえ、いいえ。……奥様。どうか、ご自身の事も大切になさってくださいませ」
アヌシュカを抱きしめるダリア。二人には見えなかったが、ダリアの不調を案ずるアヌシュカを見つめるシルヴィナは酷薄な笑みを浮かべていた。
ダリアは分かっていた。
恐らくバーンベルク女侯爵は真なる魔王を封印するために、手段を選ばない。
力ある奥様を魔王に当てようとするのだと。……それはきっと成功確率が高い方法なのだと。
分かっている。手段を選ぶことは出来ないと。
それでも―――
オルトスが部屋に入ってきた時、三人はそれぞれ複雑な表情を浮かべていた。
「どうした?」
オルトスが尋ねると、アヌシュカが立ち上がり彼の服を掴む。
「僕も旦那様と行きたいです、戦えます」
オルトスは『ダメだ』ときっぱり言った。
「でも」
「君の身の危険を考えれば当然だろう?それと、君はただの辺境伯夫人じゃない。だからこそ、領民に寄り添って欲しい」
「魔塔主の結界も当面問題ない」
シルヴィナが割って入った。
「だからこそ最前線は私が行く。神との戦いなど君たちは不得手だろう。
前線であるこの地域一帯を追加で私の力で覆うのと、エヴァンスが待機しているから安心しなさい」
「だが……」
「オルトス殿は何か不満でも?」
シルヴィナが僅かに首を傾げた。
オルトスは短く息を吐いた。
「……いや。しかし、万全を期すべきだろう。我が軍にも伝令を出す」
「構わんよ」
シルヴィナは気安く応じると、くるりと踵を返した。
「さて、私は準備に戻ろう。前線での指揮はエヴァンスと君が執れ。ヒルベルテは各地の魔物の暴走を把握するため中央に位置する王都で対処。
辺境伯夫妻は前後支援に専念してくれ。…命懸けになるがね」
その言葉は軽く聞こえたが、重い響きを持っていた。オルトスは無言で頷き、アヌシュカは唇を噛んで俯いた。ダリアだけが静かに二人を見守っていた。
その目に宿るのは忠誠と覚悟。そして、微かな恐怖だった。
部屋を出る直前、シルヴィナがふと立ち止まり、肩越しに呟いた。
「アヌシュカ。もしもの時は――自分を惜しまないことだ。それが君の運命だ」
アヌシュカは顔を上げたが、既にシルヴィナの姿は廊下の向こうに消えていた。
残されたのは深い沈黙と、来るべき嵐を予感させる冷たい空気だけだった。
シルヴィナは辺境伯夫妻の元を去った後、静かに砦の回廊から陽光に輝くゼフェスゾームの山並みを見つめながら、呟く。
「犠牲なくして勝利なし……か。魔王とは罪深い存在だね」
その声は誰に聞かれることもなく、戦いの時を刻む秒針の音に溶けていった。




