番外編 櫛と疑惑(4)
「ルーク!セドリック!ご飯だよー」
そう呼びかけると、しゃかしゃかと音を立てて、家に来たときより大きくなった二頭の黒犬が駆け寄ってきた。ぶんぶんと尻尾を振り回し、エヴァンの足元にまとわりつく。
「はい、お座り!」
そう言うと、従順に座る姿勢を取る二頭に、頬が緩む。最初は慣れないことばかりで本当に大変だったけれど、今ではすっかり可愛い子どもたちだ。
待ちきれずにそわそわと動いてしまうのがルーク、ぴしりと行儀よく姿勢を保つのがセドリック。見分けのために首につけられた赤と青のスカーフがなくても、もう間違うことはなかった。
良し、と声をかけた途端に皿に頭を勢いよく突っ込んだルークに、笑みが零れる。赤いスカーフがひらりと揺れて、落ち着いた仕草で餌を咀嚼し始めたセドリックの青色のスカーフを撫でた。同じ親から生まれたはずなのに、この二頭はまるで性格が違う。
「クラウス、今日のご飯も美味しいって」
「それは良かった」
あっという間に餌をぺろりと平らげて、物欲しそうに兄弟の皿に目をやるルークに苦笑する。目を離すと餌を譲ってしまうセドリックを見張りながら、台所にいるクラウスに声をかけると、笑いを含んだ声音でクラウスが応えた。
「もうすぐ俺たちの食事もできる。手伝ってくれないか」
「もちろん」
ルークより遅れて食事を終えたセドリックを撫でて、空になった皿を回収する。まとわりつくルークを優しく押しやって立ち上がると、台所に行って水を張ってある桶に浸けた。
「美味しそう!貝のミルク煮だね」
貝と芋、肉、野菜をたっぷりと入れて、牛乳と小麦粉でとろみをつけ、長時間煮込んだこの料理はクラウスの得意料理で、エヴァンの大好物だ。目を輝かせたエヴァンに、クラウスが柔らかく微笑む。
「ああ。洗濯屋の主人に貝を分けてもらったんだ。先日のお詫びだと」
「あー……」
余計な誤解を与えるような真似をしてしまったと、平謝りしていた店主を思い出す。気にしなくていいと伝えたんだけどなあ、と苦笑した。
「……あ、クラウス。ちょっとこっち向いて」
「?」
「ほっぺにソ-スがついてる」
きょとんとした顔でこちらを振り向いたクラウスの頬に手を伸ばし、白の雫を拭う。それをぺろりと舐めると、ソ-スのまろやかな甘みが舌に広がった。
「……うん、美味しい。やっぱり君のつくるミルク煮が一番だ」
「エヴァン……君は、本当に」
呆れたような、それでいて何かをこらえるような声が耳を震わせたと思ったら、次の瞬間に抱きしめられていた。突然の出来事に、目を白黒させて固まる。
「えーと、クラウス?どうしたの」
「……」
返事はない。ぽんぽん肩を叩いてみても、拘束が強まるばかりだった。
「クラウス、返事は。……クリス?」
愛称で呼んでみると、ややあってクラウスが小さく息をついた。もぞりと頭が動いて、髪が首筋をくすぐる。
「どう、表したらいいんだろうな」
どこか、途方に暮れたような声だった。
「君がいてこんなにも幸せなのに、君が愛しくて仕方がないのに、そのひとかけらだって伝えきれていない気がする」
「……どうしたんだ、突然」
「もう二度と、君を泣かせないと決めた。悲しませることもしないと誓ったのに、結局あんなことになってしまった。……俺がもっと、伝えられていれば」
(あ……)
そっと彼の腕をほどく。さっきまでぎゅうぎゅうとエヴァンを締めつけていた二本の腕は、驚くほどあっけなく外れた。
―洗濯屋の主人より、こっちの心配をしないといけなかったな。
少し伸びた金の髪をそっと払うと、淡い青の瞳が現れる。いつもは澄んだ泉のようなその色が、今は暗く沈んでいた。
「クリス、ごめん。……僕が君に甘えすぎていたんだ。いつだって、君が僕の思い通りに動いてくれるように感じてしまっていた」
白い頬を両手で包み、しっかりと目を合わせる。
「君が僕を誰よりも大事にしてくれていることくらい、きちんと見ていればわかるのに」
「いや、……それでも、君への態度がおざなりになっていたのは事実だ」
「いつもに比べたらね。それだって、僕のためだったんだろう?」
犬の世話に時間を割かれることは、クラウスにとって望ましいことではないはずだ。遠出もできないし、エヴァンと接する時間も減る。それでも、エヴァンが寂しい思いをしないように、大した刺激のないこの日常の中でも退屈しないようにと、忙しい時間の中で計画を立ててくれたに違いない。
「クリス、僕をここに連れてきてくれて、ありがとう。毎日が夢みたいだ。幸せすぎて、どうにかなってしまいそうなくらい」
「なってしまえばいい。どんな君だって愛おしいに決まってる」
眩しそうに目を細めてそんなことを言うクラウスに、じわりと頬が熱くなった。溶けそうなほど熱烈な台詞に、いたたまれない気分になる。
「……そんなことを言うのなんて、君くらいだ」
「だといいが」
小さく笑ったクラウスに、ほっと息を零す。そのままそっと首を傾けて——背後から漂ってきた異臭に、固まった。
「あー!!焦げてる!」
二人で慌てて立ち上がり、煮込みを火からおろす。変色した鍋の中身を覗きこんで、クラウスが悲しげにため息をついた。
「……すまない。火にかけていることを忘れていた」
「僕も忘れてた」
クラウスを見ると、彼はわずかに微笑んだ。
「……食べられそうか?時間はかかるが、作り直しても—」
「食べるに決まってる。焦げたくらいで捨てるものか」
返事も聞かずに鍋を傾けようとするクラウスを慌てて制す。作り直すと言った瞬間に目を伏せたのが、まるで泣くのをこらえているように見えて、それ以上言わせないように言葉をかぶせた。
「君の作ったものはなんでも美味しい。しかも、僕の大好物のミルク煮だ」
美味しくないわけがない、と強い口調で重ねて言うと、ゆらりと青い瞳が揺れる。
「ほら、鍋を置いて。よそうのは僕がやるから、君はパンを切ってくれる?」
「……ああ」
見るからに悄然として頷いたクラウスに、エヴァンはきゅっと唇を噛みしめる。
何ひとつとして彼にかける言葉が見つからないのが、ひどくもどかしかった。




