番外編 櫛と疑惑(3)
「犬が欲しいって、前に言っていただろう?」
「それ、だいぶ昔の話だよね?」
子どものときに話した記憶はあるけれど、まさかそれをずっと覚えていたのか。
「……気に入らなかったか?もしそうなら、引き取り先を探すが」
不安げに眉を下げたクラウスに、首を振る。
「でも、飼うにはいろいろと必要だろう?設備とかはどうするんだ」
「心配ない。ずっと前から準備を進めてきた」
物置のほうを指で示されて、あっと声を上げる。クラウスが持って帰ってきていた荷物は、それだったのか。
「食べ物は?」
「犬でも食べれる料理を考案済みだ。君も食べただろう」
「……あの見たことない料理?」
「そうだ」
平然と頷かれて、まさか、と思い至る。
「……。もしかして、今までの変な行動は全部、犬のためか?」
「変な行動?」
「やけに掃除が増えた」
「床のものを間違って口にいれたら大変だろう」
「香水を変えたのは」
「犬は柑橘系の匂いが嫌いだそうだからな」
「石鹸は?」
「よく見てるな。犬用の石鹸だから、君は使わないほうがいい」
「……櫛は」
「ブラッシング用だな。なかなかいいものがないから、女性用のものを買ったんだ」
どうせなら毛並みがいいほうがいいだろう、と嘯くその口を、ひねり上げたくなった。今までの苦悩は何だったのだろう。
「これで、浮気の疑惑は晴れたか?」
さっきまで真っ青になっていたくせに、そんなことを言うクラウスを軽く睨む。
「まだだ。そちらの彼女は?」
水を向けると、はらはらとこちらの様子を窺っていた少女が、びくんと飛び上がった。
「は、はい!ステラ・リデルと申します!クラウスさん……いえ、シュタイナー先輩とは、全く何もやましいことはありません!」
「彼女はモートンのお気に入りだし、俺は君一筋だ。間違いなんてあるわけもない」
クラウスが名前呼びを彼女に許しているのは、彼女が複雑な立場にいるためらしい。そのうち落ち着くよ、と彼は口角を吊り上げた。
「悪魔みたいに恐れられるラッセル・モ-トンが、一人の少女に振り回されているのを見るのは、なかなか悪くない。俺はそのお目付け役を任されているわけさ」
「……なるほど」
こっそりと囁かれた内容に、頷く。モートンの遅い春、というわけか。納得して苦笑を漏らし、エヴァンはクラウスを見た。
「ごめん、クラウス。疑って」
「……いや、疑いを持たせるような行動をした俺も悪かった。不安にさせてしまったか?」
「……うん。すごく怖かったし、寂しかった」
クラウスの長い指が優しくエヴァンの髪を梳く。目を閉じると、軽く音を立てて唇が額に押し当てられて、真っ赤になって飛び上がった。
「クラウス!?人前!」
「しー……。子犬が怯えてしまう」
人差し指で唇を塞がれて、渋々口をつぐむ。目を丸くしてこちらを見ていた少女の視線が痛くて、エヴァンは必死で彼女から目を背けた。
子犬を寝かしつけたあと、世話の仕方を一通りエヴァンに教えてから、ステラを送るために家を出た。
「クラウスさんでも、あんなに慌てることってあるんですね」
にまにまとだらしなく口元を緩める後輩に、舌打ちしたくなるのをこらえた。自分一人で子犬を抱えて帰るのは無理だと思ったから連れてきたのだが、人選を失敗した気がする。
―いや、気がするどころか、失敗した。確実に。
浮気を疑われる可能性など露ほども考えず、呑気に犬の心配をしていた己が恨めしい。
ステラの姿を目にした瞬間、暗く瞳を翳らせたエヴァンを思い出し、胸に苦いものがこみあげる。もう二度とエヴァンを不安にさせるような真似はすまい、と心の中で誓いながら、クラウスはちらりと後輩を見下ろした。
「恋人に浮気を疑われていたんだ、当然だろう」
「そうですけど、クラウスさんはもっと冷静に対処すると思ってました」
「……できるものならそうしているさ」
ため息交じりに呟いて、空を仰ぐ。エヴァンの前では余裕のある男でいたいのに、どうしたって冷静さを欠いてしまう。無様で情けない姿ばかり見せてはいないだろうか、と心配になってしまうほどに。
(だから、俺はいつだって、君が離れていかないか不安で仕方がない……)
エヴァンがこの暮らしに飽きないか、クラウスに不満をため込んでいないか。なるべく注意して見ているが、このところ出張続きだったのと、犬を飼うという一大行事のおかげで意識が逸れていた。油断した、と唇を噛む。
「ステラ、モ-トンには今後連続した出張は絶対に受け付けないと伝えてくれ」
「ですが、私が言ったところで通るかどうか……」
「伝えてくれるだけで構わない。こちらでも再度抗議をしておく。エヴァンに愛想を尽かされるくらいなら、解雇されたほうがましだ」
「……分かりました」
神妙な顔で返事をした後輩に頷く。モートンは仕事第一の男だし、基本的に人の命令や要求は聞かない性質だが、恋人には弱い。本人に直接言うよりも、多少はこちらの言葉が通りやすくなるはずだ。
―あとは、こちらの交渉次第だな。
あの犬も、連続出張をさせる対価としてモ-トンに手配させたものだ。すでに埋め合わせはしたと開き直られる可能性も考慮して、対策を練っておかなければならない。
(ステラを味方にできれば、多少は勝率が上がるが……)
本当はエヴァンに会わせて、癪だがなるべく友好関係を築いてもらおうと思っていた。そのほうが彼女を味方に引き込みやすいし、クラウスの身に何かあったときの保険にもなる。
だが、浮気相手として警戒させてしまった今、長く二人を一緒にいさせてもエヴァンに負担がかかるだけだ。残念だが、今回は諦めるしかない。
「そういえば、どうしてクラウスさんは、犬を飼おうと思ったんですか?」
「昔、エヴァンの理想の家庭について聞いたときに、素敵な奥さんと子どもと犬がいる家がいいと言っていたんだ。奥さんと子どもはあげられないから、せめて犬を飼うという願いくらいは叶えてやりたかった」
それに、出張で留守にした時に、寂しさを紛らわせることのできる相手がいればいいと思ったのだ。浮気防止にもなる、という打算がはたらいたことも大きい。
(もちろんエヴァンが浮気するような性格でないのは俺が一番分かっているが……それでも、不安要素はなるべく排除しておきたい)
「我ながら、心が狭いな……」
「今さらでは?」
後輩の失礼な言葉に目を眇めたが、無視して足を速める。馬繋場に到着すると、たむろして賭け事に興じる御者たちに声をかけ、そのうちの一人に硬貨を握らせた。
「どこまでです?」
「港まで。くれぐれも安全に彼女を送り届けてくれ」
ちらりと手の中の硬貨を確認し、心得たように頷いた御者に頷き返して、ステラを馬車に導く。乗り込むのに手を貸してやりつつ馬車の内部を確認した。特につくりが劣化しているわけでもなく、目立った危険は見当たらない。まあまあといったところか。
扉を閉めて、御者に合図する。掛け声とともに動き出す馬車を見送って、クラウスは踵を返した。




