番外編 櫛と疑惑(2)
―今日、アン・セル・ヴァルトスに着いた。あと五日で、君に会えるな。
―素敵なお土産を用意したんだ。君が喜んでくれるか心配で、胸が痛いくらいだ。だが、落胆はさせないだろうと思っているよ。どうか、期待していてくれ。
「別にいいって言ったのに」
そう言いつつ、口角がわずかに持ち上がったのが自分でもわかる。いつもより少し跳ねた字が、クラウスの興奮具合を表しているようだ。
朝、家に届いた手紙にクラウスの名前を見たときは身構えたが、読み進めるにつれて肩の力が抜けていった。エヴァンとの再会を心待ちにする言葉ばかりで、とても浮気をしている人が書く手紙には思えなかったのだ。
(……大丈夫。今までの不自然な行動も、何か事情があったんだ。後で、ちゃんと教えてくれるに決まっている)
アン・セル・ヴァルトスはこのあたりで最も大きな街だ。ここからなら手紙は二日ほどで届くので、実際はあと三日もすればクラウスは帰ってくるだろう。
恋人の文字を指でなぞって、エヴァンは微笑んだ。久しぶりに笑えた気がして、自分の頬に触れたとき、開け放った書斎の窓の外を通りがかった女性の、ひときわ大きな声が聞こえてきて、エヴァンはぎょっと手を離す。
「えー!浮気!?」
「そうなのよお。ベッド下に髪飾りの入った箱があってね、問い詰めたらあっさり白状したわ。アタシにはなんにもくれないくせにさ」
「最低ー!せめて隠すなら隠し通しなさいよねえ」
硬直するエヴァンの耳に、残酷なほどはっきりと声は届いた。
「まったく、男ってのは皆そうなのかしらねえ。アンタも気をつけなよ。妙に優しくなったり、やけに身綺麗にしだしたら、ほぼクロだね」
「気をつけたって防げるもんでもないわよ。せいぜい発覚後に罪悪感を煽り立てて、たんまり貢がせてやるくらいが関の山ね」
小さくなっていく女達の声に、呆然と立ち尽くす。
(『妙に優しくなったり、やけに身綺麗にしだしたら』―)
石鹸が変わっていた。香水が変わった。断っても用意された、『素敵なお土産』。
思い当たることがありすぎて、眩暈がした。
(……違う。単純に、取引先の人が匂いを嫌がったから変えたって言ってたじゃないか。お土産だって、
きっと僕が喜ぶと思っただけで、他意はないに決まってる)
そう思いたいのに、せっかく先程の手紙で静まった疑念が、急速に頭をもたげてくる。
その取引先の人こそが、彼の浮気相手ではないのか、と。
―新しく用意された石鹸は、浮気相手の家にあるものに合わせたからじゃないのか?
―香水が変わっていたのは、浮気相手の趣味なのか?
心臓がうるさく暴れ出す。浅くなる呼吸を必死で落ち着けようと、深く息を吸いこんだ。
お土産を聞いてきた気遣いの裏で、彼は罪悪感を噛み殺していたのだろうか。
それとも、何も知らないエヴァンを、嘲笑っていたのだろうか。
「クリス……」
きつく食いしばった歯の間から、呻くようにエヴァンは恋人の愛称を呼んだ。
(僕に見せた笑顔の裏で、君はいったい何を考えていた―?)
ぐしゃりと潰れた手紙を、縋るように額に押し当てる。
じくじくと痛みを訴える胸元に手を当て、氷のように冷たくなった指を握り込んだ。
クラウスが帰ってくる日、当然ながらエヴァンの調子は最悪だった。
この三日間、ほとんど寝つけなかったし、寝られたとしても悪夢で飛び起きる。それはクラウスと誰かが一緒にいる夢だったり、全く別の悪夢だったりしたけれど、そんなことが続いたせいで、気分がひどく重かった。通いの家政婦のハンナさんにまで、心配されてしまったくらいだ。
「エヴァンさん、大丈夫?具合が悪いなら、無理して起きなくてもいいのよ?」
「ありがとう。……少し、寝不足なだけですよ」
まさか、クラウスの浮気疑惑が……なんてことは言えないので、そう言って愛想笑いを浮かべる。
「まあ。今日はクラウスさんが帰ってくる日だから、張り切るのは分かるけれど……そんなに顔色が悪かったら、クラウスさんもびっくりしてしまうわ」
寝られるときに寝ておきなさいね、とエヴァンの顔を覗きこんでくるハンナさんに、頬を緩める。まるで母か祖母のように気遣ってくれる彼女の存在が、ひどくありがたかった。
そうします、と微笑んで、エヴァンは寝室に戻る。とはいえ、また悪夢を見るのも嫌だったので、故郷から持ち込んだ小説を手に取った。
玄関の鍵が開いた音が聞こえてきて、エヴァンはふと顔を上げた。手にしていた小説をその場に放って、急いで玄関に向かう。
「クラウス!」
「エヴァン、ちょうどよかった。今そちらに行こうと思っていたんだ」
ぱっと顔を上げて喜色を浮かべたクラウスに、エヴァンは軽く頷いて、唇を湿らせる。からからになった喉に無理矢理唾液を流し込んで、口を開いた。
「……洗濯物を引き取りに行ったとき、店主が袋の中から見つけたと言って、僕に渡してきたものがあった。何だかわかるか?」
「洗濯物……?」
青い瞳が怪訝そうに揺れる。
「そう。白い箱だ。覚えはあるか?」
「———!!」
限界まで涼しげな瞳が見開かれ、白い頬が瞬く間に色をなくす。それを見て倒れたくなったエヴァンに、クラウスが慌てたように声を上げた。
「待て、エヴァン、違うんだ。あれは―」
その瞬間、カチャリと扉が開く。はっとその方向を振り向いた二人の視線の先で、にゅっと小さな頭が突き出した。花をあしらった帽子の下で、チョコレ-トのような茶色が揺れる。
「あのう、クラウスさん?早くしないと、この(・・)子たち(・・)起きちゃいますよ……?」
「——っ、ステラ!許可があるまで出てくるなと言っただろう!?」
「ですが……」
珍しく声を荒げたクラウスの前で、萎縮したように肩をすぼめた少女を見る。
柔らかな茶色の巻き毛に鳶色の瞳の、愛らしいという言葉がぴったり当てはまる容姿だ。
—そう、あの櫛がちょうど似合いそうな。
(それに、名前で呼んでいた)
クラウスは、あまり他人に名前で呼ばせることはしない。その点からも、この二人がある程度深い仲にあることは想像がついた。
「クラウス。……何かおかしいとは思ってたけど、まさか家に連れてくるなんて」
「は?」
「しかも、この子たちって言ってたけど、まさか子どもまで」
「何の話だ!?」
いよいよ顔色を悪くさせたクラウスが、ぱっと後ろを振り返る。
「ステラ、とりあえず入ってきてくれ。そして速やかにお土産を俺に渡してくれないか」
「は、はい!」
こつこつと靴音を響かせて、少女が玄関に足を踏み入れる。それを見て、強烈な不快感が全身を襲った。
(ここは、僕とクラウスの家なのに……)
けれど、それを口に出すわけにもいかず、ぐっと唇を引き結ぶ。少女が抱えてきた丸籠が、まるで赤ん坊を入れる籠のようで、ひどく胸がざわついた。
「……それが、お土産?」
「ああ」
開けてみてくれ、と言われて、覆いを外す。その中に入っていたものを見て、エヴァンは目を見開いた。
「……え、これって」
柔らかい生地の布に包まれた、ふわふわの黒い毛玉がふたつ。
四つのつぶらな青い目が、心細げにこちらを見上げていた。




