挨拶
窓の外で、鳥の鳴く声がする。
話を聞いた後、無言でお茶を啜る母を、エヴァンは固唾を呑んで見守っていた。
アイリスとジェイソンが帰ってきたあと、クリストハルトがエヴァンの家族に挨拶をしたいと言い出した。
駆け落ちするのに親に言うものなのかとも思ったが、突然大事な息子が消えては家族が悲しむと言われて、それを良く知っているエヴァンとしては黙るほかなかった。クリストハルトに関しては、お前が言うなとジェイソンに突っ込まれていたが。
しかし、さすがに家族全員に話すとなると、嫁いだ姉たちも呼ばなくてはならなくなるし、父や兄たちはこの手の話を受け付ける性格ではないため、ひとまず母に話すだけにとどめ、必要であれば母から伝えてもらおうという結論になった。たぶん、今家にいる家族の中では母が一番柔軟性が高い。
「……事情は、分かりました」
静かな声に、はっと背筋を伸ばす。
「正直に言って、あなたがたが恋愛関係にあるなど、とても……信じがたいことです」
「はい……」
肩を落とす。母は言葉を選んでくれているが、内心穏やかではないのだろうということは、容易に察することができた。
「その上、一緒に暮らしていくなんて……本当に、できるのですか」
「そのための基盤は整えましたし、エヴァンに……息子さんに不自由な生活はさせないように、できる限りのことをします」
「そうではないの。そうではないのよ」
首を振って、母はクリストハルトを見据えた。
「エヴァンは、男の子なの。私達は少なくともそのつもりで、エヴァンを育ててきたのよ。それなのにあなたは、エヴァンを女の子にするというの?妻の真似事をさせるの?」
「違います、母上!そういうことじゃないんです、僕達は……」
「違わないわ!」
母は鋭い口調でエヴァンの言葉を遮った。
「クリストハルトさん、あなたが働くとおっしゃるなら、エヴァンは家のことをするのでしょう?けれどこの子は、知らないんです。社交も、女主人としてのつとめも、何も!ねえお願い、この子のことを思うのなら、連れて行かないでください。現実は、あなたがたが考えている以上に大変なの。エヴァンは貴族の男性としての振る舞いしか知らないんです」
そう訴える母は、涙を浮かべていた。
「きっと、いつかは嫌になってしまう日が来るわ。愛情だけでは、生活はできないの。男性であれば、女性と結婚したほうが―たとえ心がともなわない結婚だったとしてもね―そのほうが幸せなの。でなければどうして神は、男と女をおつくりになったの?男を女の代わりにしてはいけないのだとおっしゃるの?そうでしょう、男と女は、互いにないものを補っているの。そうして生活をつくるのよ」
「確かに、そうなのでしょう。男は女の、女は男の足りないものを持っている」
クリストハルトの言葉に、エヴァンはびくりと肩を跳ねさせた。まさか、諦めるつもりなのかと身構えたエヴァンを、クリストハルトの手が優しく掴む。
「……ですが、私は約束してしまったのです。素敵なお嫁さんの代わりになると」
怪訝そうな顔をした母に、クリストハルトはゆったりとした口調で続けた。
「エヴァンが妻の役目を果たせないとおっしゃるならば、私が果たします。さすがに子どもはつくれませんから、養子をとりましょう。その場合はもちろん、二人で大切に育てます。家事は使用人を雇っていますが、私も一通りのことはこの一年で身に着けました」
「は、はあ……」
「本当に必要ならば、ドレスも着ましょう。エヴァンができないことは、私がすると約束いたします。ですから、どうか―息子さんを、私にくださいませんか」
そのまま流れるように膝をつき、貴族の最敬礼をとったクリストハルトに、さすがの母も二の句が継げないようだった。
「私からも、お願いします。どうか、エヴァンを送り出してやって頂けませんか。二人ができないことは、私が支えます。エヴァンを泣かせたら、私がクリストハルトを殴ります」
続いてクリストハルトと同じ体勢になったのは、ジェイソンだった。
「わたくしからも、どうかお願いいたしますわ。わたくしは女ですから、お二人よりも分かることやできることがございます。エヴァン様が困っていらしたら、わたくしがお教えしますし、ええ―クリストハルト様がエヴァン様を泣かせるようなことがあれば、わたくしも全力でひっぱたきますから。クリストハルト様の頬の腫れ具合で、お分かりでしょう?」
アイリスも膝を折り、男達とは違う形だが最敬礼をする。
「母上、僕……いいえ、私からも、お願いいたします。確かに、私は男ですから、できないことも多いでしょう。それに、今までとは全く違う生活ですから、母上のおっしゃる通り、嫌になることもあるかもしれません。……それでも、こうして支えてくれる友人がいます。私自身も、努力することをやめないと誓います」
短く息を吸って床に膝をつき、母の目をまっすぐに見上げると、エヴァンと同じ若葉色の瞳が揺れた。それに勇気を得て、さらに言葉を重ねる。
「それに、私は彼を一度喪って……辛くて悲しくて、死んでしまいたいくらいでした。その痛みに比べれば、この先起こるどんなことも、些細なことだと思えます。今彼と引き離されてしまえば、私はもう立ち直れません。ですから、どうか」
そう言って深く頭を下げると、頭上で苦笑する気配がした。
「……ひどいわ、エヴァン。あなた、そうやって私を脅すのね」
「母上……申し訳ありません。ですが私は、もう決めてしまったのです」
「……クリストハルトさん、きっとあなたのせいね。私を脅すほど、したたかになってしまって……。昔は甘えん坊で、気の弱い子だったのに」
母の言葉に、クリストハルトが頭を下げたまま答える。
「ええ、私のせいです。……ですから、責任を取らせてください」
痛いほどの沈黙が、部屋に落ちる。
息をするのもためらわれるほどの緊張感に、額に汗が滲む。やはり、母に話したのは失敗だっただろうか。認めないと言われたときの対処法を何通りか考えついたところで、ようやく母の声が降ってきた。
「最近やっとわがままを言うこともなくなって、大人になったのねえって思っていたわ」
懐かしむように零して、母はふっと息を吐いた。
「それが嬉しくも思えたけれど、やっぱり寂しいものね。だから、……これで最後よ」
「……母上」
驚いて顔を上げると、ひどく優しい顔の母が目に入った。なんだか無性に泣き出したくなってしまって、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「でも、見逃してあげるだけよ。持参金だって持たせてあげないわ」
「……いいんです、ありがとうございます。でも……」
どうして、とは言えずに口ごもったエヴァンに、母が苦笑する。エヴァンの考えていることなんて、全部お見通しのようだった。
「つい最近までのあなたの状態を言われたら、もう何も言えなくてよ。……ああもう、お父様になんて言えばいいのかしらね?」
母が近づいてきて、ぎゅっとエヴァンを抱きしめた。
「馬鹿な子。きっと、神はお許しにならないわ。そうしたら、もう二度とあなたに会えない」
「……申し訳ありません、母上」
自分でも、ひどい親不孝者だと思う。神に背き、家族を捨て、会いに行くことは叶わないくらい遠い場所へ行く。死後でさえ、再会は望めないだろう。
「クリストハルトさん、一つだけ誓ってください」
エヴァンから体を離して、母はまっすぐにクリストハルトを見た。
「生きている間はもちろん、地獄に落ちても、この子と離れないで。……この子の幸せは、どうやらあなたにかかっているようだから」
「……はい、もちろんです」
声を詰まらせて、クリストハルトは再び最敬礼をした。強くエヴァンの手を握りしめた彼の手がかすかに震えていて、エヴァンも力を込めてその手を握り返す。
「では、みなさん。……わたくしの大事な息子を、どうかよろしくお願いいたします」
深く深く頭を下げた母の姿に、思わず涙を零してしまったことは、こっそり袖で目元を拭ってくれたクリストハルト以外は知らないはずだ。




