エヴァンの新たな日々(6)-sideエヴァン-
少しずつ大きくなっていく妻のお腹を見ていると、愛おしさのような、期待のような、言い様のない感情がこみあげてくることがある。
『アイリスと子どもは、俺にとっての宝物なんだ』
そう言ったクリストハルトの気持ちが、今ではよく理解できる。
—大切で、何物にも代えがたい。
確かにこの二人を守るためならば、長年貫き続けてきた恋心さえも、手放してしまえるだろう。
(これが、父親になるということなのかな……)
今まで、エヴァンはいつも守ってもらうばかりだった。一人で立っていると思っていたけれど、どこかで家族や友人たちに甘えていたんだと、今なら分かる。
けれど、守られていたときは、ずっと寂しかった。
(いや、寂しかったというのは、ちょっと違う)
友人もいた。クリストハルトという恋人もいて、人間関係に不自由を感じていたわけではなかった。それでも、心のどこかで居場所がないように思えて、仕方がなかった。
(……ああ、そうか。必要とされたかったんだ)
クリストハルトはどちらかというとエヴァンが頼っているほうだったから、必要とされていたという実感が薄かったのだろう。そう分析して、ゆっくりと息を吐く。
「どうしたの?疲れた?」
顔を上げた妻に、首を振る。
「ううん。今の僕は、恵まれているなあって思って」
「……?」
首を傾げた妻に、なんでもないよと微笑んで、お腹をそっと撫でた。
早く、産まれてきますように。
祈りを込めて、もう一度撫でると、手のひらの下で、ぽこんという感触がした。
「あ、蹴った」
「蹴ったわね」
二人で顔を見合わせて、くすくすと笑う。
—ああ、楽しみだ。
まだ見ぬ子どもの姿を想像し、エヴァンはまた、小さく笑みをこぼした。
それから半年が経った、夏の日の夕方。
元気な産声が、屋敷の一角に響いた。
「産まれた!?」
報告を受けて、がたっと音を立てて椅子から立ち上がったエヴァンは、使用人の制止も聞かずに部屋を飛び出した。
「旦那様!いけません!」
「子どもの顔を見に行くだけだから!」
「そうではなく、まだいろいろとやることがあるのです!旦那様がいらっしゃると、手間取ります!」
端的に言えば、邪魔ということだ。
「言うね、君……」
ゆるゆると足を止めたエヴァンは、苦笑して使用人を振り返った。この家に長く仕えている青年で、古くからこの家に仕えている一族の血筋らしい。
「申し訳ありません。お気に障りましたか?」
こちらが怒っていないことを承知の上で聞いてくるのだから、苦笑するしかない。
「別に。この屋敷でそんなことをいちいち咎めていたら、全員の首が飛ぶからね」
なんというか、ここは使用人と主人の距離感が近いのだ。ここが特殊なのか、それともメイベルのお国柄なのかは知らないが、エヴァンの故郷であるウィ-トンズでは考えられないほどだ。雇用者と被雇用者という垣根を越えて、もはや主人一家と使用人が家族であるかのようだった。はじめは驚いたものだが、これはこれで悪くないなと思っている。
「それで、僕はどれくらい待てばいいの」
「わかりませんが、あと三十分ほどしたら、一度様子を見に行ってまいります。旦那様を案内しても良いと女達が判断したら、ご案内いたしますね」
それまでお待ちください、と言われて、渋々部屋に向かって歩き出す。
「ちょっと見に行くのも、駄目なの?」
「いけません。現場は、戦場です。ましてや奥様の出産ともなれば、女達がいつにもまして鬼気迫るのは確実。旦那様が足を踏み入れる余地はありません」
すげなく首を振られて、顔が引きつる。そんなに恐ろしいのか。
「私の妻の出産のときでさえ、子どもを見に行ったらものすごい形相で追い出されましたから。あいつらは、旦那様といえども容赦はしません。必ず追い出されます」
「そこまで……」
しみじみと呟く彼に同情する。にこにこと愛想よくエヴァンに挨拶していた近隣の女性たちを思い出し、女性とは怖いものだなと再確認した。
「そういえば、ここでは出産は、近所の女性たちに任せるの?」
「ええ。ずっと昔から、女の使用人と近所の女性に任せていると聞いたことがあります。旦那様の故郷では、違うのですか?」
「どうなのかな。そういったことは、聞いたことがない」
もともと男性が女性の出産に関わることはなかったし、むしろそういった話題は避けられる傾向にあったから、ここでこんなことを使用人と話しているのが不思議に思えてくる。
そんなふうにとりとめのない話をしているうちに、あっという間に三十分が経ち、彼は様子を見に行った。ややあって、半ば駆け足で戻ってくる。
「旦那様、見に来ても大丈夫だそうです!」
「よし!」
今度こそ部屋を飛び出して、妻と子どもがいるという部屋へ急ぐ。女達はエヴァンを見て、微笑ましそうに部屋の扉を開けてくれた。
「エリカ!」
ベッドに横たわる妻に、思わず声を上げると、彼女は唇に人差し指を当てる。彼女が腕に抱えたものを見て、言いようのない感情がこみあげた。
「……その子は」
「男の子よ。お父さまが聞いたら、飛び上がって喜ぶでしょうね。……ねえエヴァン様。手を出してちょうだい」
そっと赤子を抱えあげた妻が、何をするつもりか察して、慌てて両手を差し出す。ふわりと甘い匂いが漂ったと思うと、温かいものが胸に収まった。
「……っ、落としそうで怖いんだけど」
「ちゃんと支えているから。……そう、上手よ。もっとぴったり体をくっつけて」
妻に教えてもらいながら、なんとか息子を抱っこする。どこもかしこも小さくて、ふにゃっとしているのに、なんだかずっしりと重い。
「……可愛い」
知らず、笑みがこぼれる。
「名前は、何がいいだろうね」
「お父さまが張り切って考える気がするの」
「できれば、僕が考えたいんだけどなあ」
眠る我が子を見下ろして、ふと思う。もしもクリストハルトと別れていなかったら、自分はこの幸せを得ることはなかったのだ。
(……はじめてだ)
クリストハルトと別れて、良かったと思ったのは。
そう思ったとき、ぽろり、と息子の顔に、水滴が落ちた。
「えっ」
エリカの驚いた声がして、同時に、腕から温もりが離れていく。エリカが息子を回収したのだ。
「……どうしたの、いきなり」
「……僕は……自分の子どもなんて、一生見れないと思ってたから」
涙を懸命に瞬きで散らして、エヴァンは笑った。
「クリストハルトと一緒に生きようと思ったとき、捨てたはずの夢が、こんなふうに叶うなんて、思ってもみなかった」
エリカが息を呑んだ気配がした。
「エリカ、ありがとう。……きっと僕は、今までで一番、幸せだ」
「本当?」
「うん。そういえば、はっきり言ってなかったね」
居住まいを正して、涙を拭うと、エヴァンは妻をしっかりと見つめた。
「エリカ。僕と結婚してくれて、ありがとう。君と過ごす日々は、ウィ-トンズにいた頃の何倍も幸せなんだ。……ここに来られて、本当に良かったと思ってる」
「私も、あなたが来てくれて、本当に良かった。あなたとなら、この先も幸せでいられそう」
息子を抱えたまま胸にもたれかかってきた妻の肩口に、顔をうずめる。その拍子にまた溢れ出した涙が彼女のドレスを濡らしたけれど、エリカは何も言わなかった。
新たに増えた家族の名前は、パトリック。
結局は義父に押しきられて命名権を奪われてしまったから、次に子どもができたら、そのときはエヴァンが名前をつけようと決めている。
このお話は、これで終わりとなります。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。




