エヴァンの新たな日々(5)-sideエリカ-
秋の朝の清々しい空気に、エリカはそっと唇の端を持ち上げた。
珍しく太陽が顔を出していて、気温も思ったほど寒くはない。肩にかけたお気に入りのショールの、柔らかな手触りを楽しみながら、首を巡らせて夫の姿を探す。執事のマティアスが、最近はここにいると教えてくれたのだ。
「エリカ!?そんなところで、何をしているの」
後ろから慌てた声がして、エリカはぱっと振り向いた。
「エヴァン様。やっぱり、ここにいたのね」
目的の人物を見つけて、小走りに駆け寄った。ドレスの裾が汚れないように、持ち上げるのも忘れない。
「目を覚ましたらいなかったから、捜しに来たの。……迷惑だったかしら?」
「そんなことはないけど……こんな早朝に外に出たら、風邪を引いてしまうだろう?」
ふわりと上着を肩にかけられる。彼のぬくもりと匂いに包み込まれて、ほっと息が漏れた。
「ありがとう」
お礼を言うと、エヴァンは微笑んで頷いた。久しぶりに彼ときちんと話せた気がして、気分が浮上する。今までずっと、まともに話せなかったから。
子どもができたことを報告した日以来、エヴァンとどう接していいか分からなかった。また、拒絶されるようなことがあったらと思うと、怖くて話しかけることができなかったのだ。
「……ねえエヴァン様。あなた、本当は子どもは欲しくなかったの?」
ずっと気になっていたことを、思いきって訊ねてみる。彼は一度目を瞬いて、それからかすかに苦笑を浮かべた。
「……ううん、欲しかったよ」
「だったら、どうしてあんな顔をしたの?」
彼の答えに、ますます疑問が深まる。どこか絶望したような、苦しげな表情。やや青ざめて、こわばったあの顔は、今でも鮮明に思い出せる。本当に子どもが欲しかったのなら、そんな表情にはならないはずだ。
「……君は、僕の昔の話を聞いて、どう思った?」
「え?」
ためらいがちに突然そう切り出したエヴァンの意図がわからず、聞き返す。
「ここメイベルは、僕の故郷のウィ-トンズよりも宗教上の戒律が厳しい。だから正直、君が僕の過去を受け入れてくれたことに驚いたんだ。ウィ-トンズでさえ、禁忌に近いとされた男性同士の恋愛をしていて……しかも、いまだにその相手を忘れられていないと言った僕に、君はなんて言ったか覚えている?」
「……ええ」
やや気恥ずかしさを感じながらも、頷く。正直彼の話には驚いたし、自分の予想は半分当たっていたのだな、と納得もした。けれど、嫌悪感や忌避感は、不思議と感じなかったのだ。
それはたぶん、メイベルという国の事情も関わっているだろう。メイベルの都ラザーニエは、音楽と絵画の街として有名だ。そこには多くの著名な芸術家が集まるのだが、彼らは性的嗜好がやや特殊な人も多く、社交界ではその手の話題が持ち上がることもままある。もちろん歓迎される話ではないが、下世話な人達の興味をかきたてる、絶好のネタなのだ。
だから、エリカはエヴァンの過去の話を聞いたとき、ウィートンズの事情を知らなかったこともあって、わりと失礼なことを言ってしまったと思う。
『まあ、まるでお芝居みたい。エヴァン様が女性だったら、悲劇の女主人公ってところね!』
「あのときは、あなたの気持ちも考えずにごめんなさい。失礼なことを言ったわ」
苦しい恋をようやく終わらせて、新しい場所でやり直そうとしている人にかけるべき言葉としては、全くふさわしくなかったと思う。そう言うと、夫は目元を緩めた。
「いいんだ。嫌われることのほうが、怖かったから。……そう受け止めてもらえて、むしろほっとした」
でも、と彼は沈んだ表情で続ける。
「どうしても、僕は自分の過去を許せないんだ。僕がやったことは、罪でしかない」
「エヴァン様……」
「だから僕は……父親になるには、ふさわしくない」
苦しげに顔を歪めたエヴァンに、絶句する。そんなことを、彼は思っていたのか。
そんなことはない、と否定しようとして、エリカは口を閉ざした。どれだけエリカが否定しても、エヴァンには届かない。彼自身がそう思い込んでしまっていることを、暗く翳った瞳が示していた。
(どうすればいいのかしら……)
途方に暮れて、空を見上げる。
憎らしくなるほど澄みきった青空。目線を戻すと、暗い顔をする夫。
交互に見ているうちに、だんだんと腹が立ってきた。どうして私が、この人に父親としての自覚を促さないといけないのだろう。
「エヴァン様……ふさわしいとか、ふさわしくないとかいう以前に、あなたはもうこの子の父親でしょう。そんな覚悟もないままに、あなたは私の夫になったの?」
「エリカ……」
「確かに、過去のことは変えられない。でも、あなたのその『罪』は、子どもに父親と名のることすら許されないほどのものなの?違うでしょう。でなければ、あなたの元恋人はどうなるのよ」
目を丸くするエヴァンに、一旦言葉を止めて彼を見上げる。これ以上情けないことを言ったら平手打ちの一発でもお見舞いしてやろうかしら、というエリカの考えなど露知らず、エヴァンはしばしの沈黙ののち、唐突にふふっと声を漏らした。
「そうだね。……うん、たしかにそうだ。君の言う通りだね」
「……どうしてそこで笑うの」
怪訝な顔をするエリカに、エヴァンはゆるく首を振った。
「ううん。……僕は、自分のことしか考えてなかったなあって。思い返してみれば、ずっとそうだ。クリストハルトと別れたときだって、アイリスとクリストハルトのためって言いながら、これ以上傷つきたくなくて、逃げたんだ」
「……だったら、私と約束してちょうだい。もう逃げないって。私の夫として、この子の父親として、役目をしっかり全うするって。そうしたら、もしも将来、あなたが自分のしてきたことで糾弾されたときは、私が必ず傍にいてあげるから」
「……え」
若葉色の瞳が揺れる。エヴァンの頬をしっかりと両手で押さえて、エリカはその瞳を覗きこんだ。
「あなたの心配してることなんて、分かってるわ。自分のやってきたことを考えると、子どもに顔向けできないとか、そういうことでしょう?でもね、断言するわ。そんなこと考えたって、一つも意味なんてないのよ」
子どもにとっては、過去に親が何をしていたかということは、たぶんそこまで重要ではない。それよりも、今どのように自分に向き合ってくれているのか、ということのほうが大事なのだ。過去を気にして下手な接し方をされては困るので、今ここでしっかりとそれを伝えないといけない。でなければ、変なところでうじうじするこの夫は、今後も同じ間違いをしでかすに違いないのだから。
(……どうしてかしら。まだ子どもを産んでもいないのに、子どもに説教する母親になった気分だわ)
複雑な気持ちで夫を見上げる。男なんていつまで経っても図体のでかい子どもよ、と、いつだったか村の女達から聞いた言葉が蘇った。間違いないと頷いて、エリカはため息をつく。なんだか、どっと疲れた。それを察したのか、エヴァンがそっとエリカの腕をとる。
「……そろそろ戻ろうか。朝食の時間が近づいてる」
「ええ」
こういうところは紳士的なのだけど、と思いながら、ありがたくエヴァンの腕に寄りかかる。
「ねえ。今夜寝るとき、あなたの話を聞かせて。昔話」
「……四人で遊んでいた頃の話?」
「そう。私には兄弟がいないから、羨ましくて。お友達だけでなくて、ご兄弟のお話も」
「いいよ。君が満足するまで、いくらでも」
夫がしてくれる話はどれも新鮮で面白いし、昔一緒に遊んでいた村の子ども達を思い出して、懐かしい気持ちになれる。穏やかで優しい声で紡がれるそれは、寝物語に最適だった。
「ねえエヴァン様。……私、あなたと結婚できて、良かったと思ってるのよ」
囁くと、彼が微笑んだ気配がした。
「ありがとう。僕もだよ」
そんな言葉とともに足を止めた彼に、そっと口づけを落とされる。
「……っ!」
頬を真っ赤に染めたエリカを満足げに見下ろしたエヴァンはそのまま屋敷に足を踏み入れ、その様子を見た使用人たちは、主人夫妻が仲直りしたことに、ほっと胸をなでおろしたという。




