エヴァンの新たな日々(3)-sideエリカ-
かたん、とナイフをお皿に置いた音が予想以上に大きく響いて、どきっとした。
目の前で食事をしていた夫は一瞬手を止めたけれど、すぐに何事もなかったかのように手を動かし始める。
会話もなく、ひたすら手を動かす作業は苦痛になるのだな、とぼんやり考えながら、千切ったパンを口に入れる。……そろそろ、噛むのも疲れてきた。
もはや味もよくわからないパンを義務的に咀嚼しながら、こっそりとため息をつく。ヴァ-ストン子爵領でつくられた一番美味しいパンのはずなのに、この空気のせいで台無しだ。
視界の端で、使用人たちが居心地悪そうな表情をしているのが見える。険悪とまではいかないけれどぎこちない雰囲気の主人夫婦をどう扱っていいのかわからず、困っているのだ。
—放っておいてほしい。
使用人としてはそういうわけにもいかないのだろうけれど、変に遠慮されたり気遣われたりする方が疲れる、というのが正直なところだ。唯一の救いは、父が何も干渉してこないことだろう。いつも通りの雰囲気で、新聞を読みながらお茶を啜る父を横目で見て、少しだけほっとする。
(……そういえば、こうして一緒に食事をするとき以外、エヴァン様と会わないわ)
ふっとそんなことを思う。最近の彼はエリカよりも早く起きて、朝と夜の食事の時間以外は顔を合わせることもなく、夜にエリカが寝た頃を見計らってベッドにもぐりこむという生活を続けている。今までは、食事のとき以外でも、お茶の時間や寝る前の時間などに必ず会いに来てくれていたのに。
(エヴァン様は私と会うために、時間を捻出してくれていたのね……)
もしかしたら気づかないうちに、エヴァンにいろいろと無理をさせていたのかもしれない。普通の夫婦とは違って、彼は婿養子なのだ。外国から来たこともあって、戸惑うことも多いはずなのに、全然そんなそぶりを見せなかった。
—だから、嫌になってしまったのだろうか。
そう考えて、はっとする。この暮らしに嫌気がさしたのだとしたら、彼の態度も頷ける。華やかな異国の都から、麦畑しかない田舎に婿入りをしたのだ。最初は目新しくても、すぐに飽きるに決まっている。そんな中で子どもができたと言われても、枷が増えたようで嬉しいとは思えないだろう。
「……カ。エリカ。顔を上げなさい」
「!」
不意に父の声が聞こえてきて、慌てて顔を上げる。気がつけば夫の姿はなく、使用人も出払っているようだ。広い食堂に、本当の意味で父と二人きり。今までにない事態に、困惑した。
「……お父さま」
それきり何を言っていいか分からず、口をつぐんだエリカに、父はふうっと息を吐いた。
「お前は昔から、考えすぎるきらいがある。思慮深いのは美徳だが、考えすぎは万病のもとだ。……体調だけではないぞ。人間関係においても、だ」
「……」
「夫婦のことだ、他人が口出しすべきではない。たとえ父親でも、この縁談をまとめた者でもな。夫婦の問題は、当事者が答えを出すべきだ。それがどんな結果になろうとも。……その上で、言わせてもらう。これは、年長者の助言として、聞きなさい」
「はい」
頷くと、父はまっすぐにエリカを見つめた。
「話し合いなさい。どんなことでも。遠慮や虚飾なしに、自分の気持ちを伝えることだ。それで喧嘩をしたとしても、お互い腹に言葉を秘めているより、ずっといい」
「……はい」
エリカはうなだれた。何も言えないままあれこれ考えて、見当違いな方向に突っ走る。今の自分そのものだ。
「最後に、これだけ言っておこう。お前たちの父親として」
少しだけ、父の声が和らぐ。
「お前たち二人は、似合いの夫婦だよ。だから、信じなさい。お前の夫と、お前自身を」
「……あ」
その言葉に、ふっと視界が晴れた気がした。
(そうか。私は、私のことも、エヴァン様のことも、信じられてなかったのだわ……)
「ありがとう、お父さま。エヴァン様と、話し合ってみるわ」
「ああ。そうしなさい。だがその前に、朝食を食べてしまわなくてはね」
「ええ」
二人で微笑み合って、ようやく胸のつかえがとれたように思う。
「そうやって笑っているほうが、エヴァンも安心するよ」
そう呟いた父の言葉は、残念ながらエリカの耳には届かなかった。




