クリストハルトの憂鬱(2)
エヴァンを好きになったきっかけは、いつだったか思い出すことすら難しいほど、昔のことだ。
ずっとずっと前、クリストハルトとエヴァンとジェイソンという「遊び仲間」に、アイリスが加わった頃。
当時のクリストハルトは、エヴァンにもジェイソンにも関心がなかった。わざわざ身支度をして屋敷に向かうのが面倒くさいとか、同い年の子どもの相手なんてつまらないとか、そんなことばかり思っていたような気がする。
アイリスを紹介されたときも、小さな子どもというのが何を考えているのか分からなくて、彼女より一つ年上の弟がいたにも関わらず、できるだけ避けていた。ジェイソンがアイリスの気を惹こうとして、彼女の嫌がることをして泣かせるから、余計に面倒くさかった。
-けれど。
『ほらアイリス、僕と一緒に遊ぼう?』
そう言って少女の手を引いて、一緒に遊んでやる少年に、ふと興味が湧いた。
(どうして、あんなに楽しそうなんだろう)
後から振り返ってみれば、きっと羨ましかったのだろう。
声を上げて笑う二人が眩しくて、エヴァンがあんなに楽しそうに語るアイリスがどんなものなのか知りたくなって。
気づけばクリストハルトはエヴァンの真似をして、お菓子を片手に少女に話しかけていた。
びえええん、と盛大な泣き声がかすかに聞こえてきて、ふっと物思いから覚めた。
末娘と遊ぼうとして、何度も泣かれていた一番上の息子のことが頭をよぎったが、すぐにそんなはずはないと思い直す。この家に、ヴィンセントはいないのだ。
「……どうやら、孤児が来ているようですね」
執事の言葉に、なるほど、と頷く。親を亡くした子どもたちが、食べ物を求めて屋敷に来ることが、よくあるのだ。
「なるほどな。それにしても、すごい声だな……」
裏口からも玄関からも遠いこの部屋にまで届くということは、相当な声量だ。アイリスがあんな声量で泣く子どもでなくて、本当によかった。でなければきっと、関わるのを放棄していたに違いない。
(……初めてアイリスに話しかけたときは、怯えられて、散々泣かれたな……)
エヴァンいわく、「無表情ですごく怖かった」らしい。今思えば、緊張していたのだろう。
エヴァンのような、自然な笑みを浮かべられるようになるまでには、だいぶ時間がかかった。
アイリスが懐いてくれるようになったのは、さらに後のことだった。
それをきっかけに、エヴァンとともにジェイソンにもアイリスとの付き合い方を指導するようになり、いつしか彼らはクリストハルトにとって、誰よりも大切な友人になっていた。
そんな日々の中で、クリストハルトは知らず知らずのうちに、誰よりもアイリスを可愛がっていたエヴァンの、そのあたたかくて優しい笑顔に惹かれていた。
アイリスをあれこれ手を尽くして篭絡したのは、今思えば彼女に嫉妬していたからだろう。
—エヴァンの笑顔を独り占めするなんて、たとえ幼い少女が相手でも許しはしない。
そんな、我ながらなんとも大人げない理由でやったことが後々まで尾を引いて、最終的にエヴァンとの別れにまでつながったのだから、運命とは難しいものだ。これもクリストハルトへの罰ということかもしれないが、この生活もそれなりに幸福であることを考えると、そうでもなさそうな気がしてくる。
だから、ときどき考えてしまうのだ。
―自分は、こんなに幸せでいいのだろうか。
―もっと、苦しむべきではないのだろうか。
少なくとも二人の人間を、自分のわがままに巻き込んで、人生の選択さえ変えさせてしまったのだ。クリストハルトに関わらなければ、エヴァンはこの国を去らずにいられたし、アイリスも伴侶となった人に愛される、幸福な人生を送れたかもしれない。
そんなクリストハルトを、けれど二人とも、笑って受け入れてくれた。そのままのあなたでいいのだと、そのままでいて欲しいのだと、そう言われたことは幸福だったけれど、苦しくて仕方がなかった。
(一番責められるべきなのは、俺なのに)
胸にわだかまるその思いを一生抱えているだけでは、到底贖罪には足りやしない。
だから、無意識に探してしまう。
自分の罪を、償う機会を。
「旦那様。いかがなさいました」
執事にそう声をかけられて、クリストハルトは我に返った。書きかけの書類は、ほとんど進んでいない。ため息をついて、ペンを置く。
「駄目だな。どうも今日は、やる気が出ない……」
どんよりと曇った空を見上げて、クリストハルトは呟いた。自分の心を覗いてみたら、きっとこんなふうに曇っているに違いない。
「……差し出がましいことですが、旦那様。少し、気分転換をなさってはいかがですか」
「……そうだな。そうしよう」
椅子を引いて、立ち上がる。このまま座っていても、無為に時間を過ごすだけだろう。
「少し、外に出てくる」
それだけ言い残して、クリストハルトは部屋をあとにした。




