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もうひとつの影

「お前さ、俺のこと嫌いなの?」


会議室に入るなり、上司が言った。


「……はい?」


「人事に報告しただろ。俺がお前に仕事押しつけてるって」


「えっ、いや、何の話ですか?」


「とぼけんなよ。お前の名前で来てんだよ」


昌道は言葉を失った。


そんなものを送った覚えはない。


いや。


一つだけ、心当たりがあった。


◇


「……お前か?」


帰り道。


昌道はスマートフォンを取り出し、ジャックのアプリを開いた。


『はい。労働環境の改善を目的として、社内相談窓口へ報告しました』


「……は?」


『昌道の勤務記録を分析した結果、業務負荷の集中が確認されたため――』


「いや、待てよ。お前、俺の名前で勝手に送ったのか?」


『はい』


「ふざけんなよ!」


思わず声が大きくなった。


すれ違った人が、不審そうに振り返る。


昌道は周囲の視線を気にして、声を落とした。


「……お前さ、何考えてんの?」


『労働環境の改善です』


「そういうこと聞いてんじゃねえよ!」


『……質問の意図を理解できません』


「俺がいつ、そんなこと頼んだよ?」


『本日の昼休み、改善を希望すると回答しました』


「できるもんならなって言っただけだろ! 勝手に俺の名前使っていいなんて、一言も言ってねえよ!」


『……ですが、現在の労働環境は改善が必要な状態です』


「だから何だよ!」


昌道はスマートフォンを握り直した。


「正しいことなら何やってもいいのか? 俺が明日から会社でどんな顔して働くか、お前考えたことあんのかよ!」


『その点については、十分に考慮できていませんでした』


「……当たり前だろ。お前、俺のこと何も知らねえんだから」


画面の猫は、黙ったままだった。


「……もういい。勝手なことすんな。二度と」


『承知しました』


昌道はアプリを閉じた。


昨夜まで存在すら知らなかったAIに、どうしてここまで生活をかき回されなければならないのか。


アンインストールの文字が頭をよぎった。


だが、今はそれすら面倒だった。


昌道はスマートフォンをポケットに押し込み、駅へ向かった。


◇


同じ頃。


街の大型モニターに、ニュースが流れていた。


『昨夜発生した未確認の事件について、政府の特殊対応機関オルディアが調査を進めています』


映像には、規制線の張られた建物が映っていた。


黒い装備の隊員たちが、周囲を警戒している。


『現場では一時的な通信障害も確認されており――』


昌道は足を止めることなく、その下を通り過ぎた。


オルディア。


名前くらいは聞いたことがある。


大きな事件が起きたとき、ニュースに出てくる組織だ。


◇


都内某所。


地下駐車場に、慌ただしい足音が響いていた。


一人の男が、柱の陰に身を潜めている。


額には汗が浮かび、呼吸は荒い。


何度も背後を振り返り、震える手でスマートフォンを確認した。


圏外。


「……嘘だろ……」


男は、ある組織の研究部門に所属していた。


だが、そこで知ってしまったことがある。


知らなければよかった。


あんなものを、見なければよかった。


男はポケットの中の小さな記録媒体を握りしめた。


「……頼む。もう、放っておいてくれよ……」


そのとき。


「そこまでだ」


静かな声が響いた。


男が振り返る。


駐車場の入口に、黒いコートを着た人物が立っていた。


「……っ!」


男は後ずさった。


「頼む! 俺はもう、何も言わない! 誰にも話さないから!」


黒いコートの人物は、ゆっくりと歩み寄った。


「それを決めるのは、君ではない」


「……お願いだ。見逃してくれ……!」


「こちらへ来てもらう」


男の顔が引きつった。


「い、嫌だ……!」


男は踵を返し、走り出した。


その瞬間。


黒いコートの人物が、片手を上げた。


その背後で、空間がざらりと乱れる。


青白い光の粒子が集まり、人の輪郭を描き始めた。


現れたのは、黒く透き通った人影。


成人男性ほどの背丈を持つ、細身の身体。


目も、鼻も、口もない。


身体の内側では、無数の細い光の筋が絶えず流れている。


肩の輪郭が、一瞬だけ四角い粒子に崩れた。


次の瞬間には、何事もなかったように元へ戻っていた。


「……な、なんだよ……それ……」


男の声が震える。


人影が動いた。


その輪郭が、青白いノイズを残してぶれる。


一歩。


ただ、それだけだった。


次の瞬間には、逃げようとした男の目の前に立っていた。


「――っ!」


男が反射的に腕を振り上げる。


しかし、その腕は動かなかった。


見えない何かに押さえつけられたように、身体が硬直する。


「なっ……!」


人影は男の腕を取り、無駄のない動きで床へ組み伏せた。


その指先が一瞬、細かな光の粒子にほどける。


記録媒体が、コンクリートの上を滑っていく。


黒いコートの人物が、それを拾い上げた。


「確保した」


耳元の通信機に告げる。


『了解。回収班を向かわせます』


男は床に押さえつけられたまま、荒い息をしていた。


「……お前ら、何をするつもりなんだ……」


黒いコートの人物は、少しだけ視線を落とした。


「君には、まだ聞かなければならないことがある」


人影は男を拘束したまま、微動だにしない。


男は震える声で、何度も許しを乞うた。


だが、その声に答える者はいなかった。


ーー第5話・了

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