第58話 切ない一人身のレスポンス
正午を回った。
角川河川敷の空気が、ゆっくりと変わり始める。
先ほどまで準備の音が中心だった会場に、別のざわめきが混じり出した。
場内のスピーカーから流れる低音質の流行曲。
笑い声。
子どものはしゃぐ音。
「……始まったな」
屋台のいくつかに、列ができている。
焼きそばの鉄板が音を立て、油が弾ける。
たこ焼きの丸い型に、生地が流し込まれる。
準備中だった店の半分が、予定通り営業を始めていた。
呼び込みの声も、さっきまでとは違う。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
「冷えてるよー、ラムネどう?」
商売の声だ。
客も、それに応じるように増えている。
昼飯がてら立ち寄った連中。
早めに場所取りを済ませた家族。
なんとなく様子を見に来た若い連中。
まだ混雑と呼べるほどではない。
だが、確実に密度は上がっており、こうなると人数のいるAPPはともかく、単独で動いている俺や新田では不審な人物を見つけられないだろう。
「……いい感じに散ってるな」
歩きながら、全体を見渡す。
人の流れは一方向に偏っていない。
屋台ごとに小さく滞留し、また動く。
詰まっている場所はない。
イベントの運営としては、理想的な状態だ。
河川敷の上段にも、人が増えていた。
ブルーシートの数が目に見えて増えている。
昼食を広げている家族もいる。
まだ余裕はあるが、場所取りの形にはなってきている。
「ここから一気に埋まるな」
夕方までには、隙間なんてなくなる。
視線を落とす。
屋台の間を、ゆっくり歩く。
匂いが強くなっていた。
ソース。油。
甘いシロップ。
かき氷の機械が回り始めている。
金魚すくいの水が、光を反射して揺れている。
射的の台には、まだ景品が整然と並んでいた。
どれも、よくある光景だ。
「……平和だな」
小さく呟く。
警備の配置も、大きな変化はない。
制服の警官が、一定間隔で立っている。見たことのない顔ばかりが並んでいるあたり、ここがホームグラウンドではないことを再認識させられる。
無線で連絡を取り合う声が、時折聞こえるが、あくまでイベントとしての警備だ。
それでも――
「……」
視線だけで、周囲をなぞる。
同じ場所に長く留まる人間。
逆に、一定の範囲を繰り返し歩いている人間。
何人かは、目に留まるが、それだけだ。致命的に怪しい人物はいない。
「焦る必要はないな。本当に何かあるかも、疑わしいわけだし」
時間はある。
まだ昼だ。
屋台の列の端で、足を止めると、目の前では、小さな子どもが、かき氷を指差していた。
「いちご! いちごがいい!」
「はいはい、順番ね」
親の声。
店員の笑い声。
どこにでもある光景なのだろう。
俺にはなくていいから、ありさにはあってほしいな。
あいつは何も悪いことはしていないのだから。
「まあ、ともかく仕事に集中しよう」
会場全体を、もう一度ゆっくりと見渡す。
まだ、何も起きてはいない。
このまま何事もなく、花火が上がって、祭りが終わる。
そう願ってまた、あてもなく歩き始める。
歩き始めようと、した時だ。
「あ! 如月さんじゃないですか!」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、立ち止まる。
振り返ると、見知った顔のはずなのに思わず息を呑んだ。
「如月さんは来ないって、ありさが言うからお誘いしなかったんですけど、やっぱり角川花火大会は来ますよね」
声の主は、NEON RIOTのベース担当にしてリーダー、マユミさん。
そしてその後ろには、同じくメンバーのキョウカ、リオ、そしてありさ。今日は勢ぞろいだ。
マユミさんが緑、キョウカが黒、リオが白、ありさが赤とそれぞれライブ衣装の時と同じ色の浴衣に身を包んでいる。
「うわ、確かにこれは……」
高いだろうな、という最低最悪の感想だけは何とか飲み込んだ。
七海め、いらん前振りをしやがって。
「これは……綺麗だな」
「ありがとうございます。なんか、ちょっと照れくさいですね」
素直に喜ぶマユミさんの後ろで、キョウカがにやりと微笑む。
本当は違う感想があっただろうと、視線だけで伝えてきていた。
「如月さん、お一人ですか? 七海さんと一緒かなと思ったんですけど」
「あ、えっと……」
考えてみれば一人で来ている段階で既に若干あやしいよな。
かといって捜査中に七海と一緒じゃややこしいし、新田と同行するのはシンプルに気分が悪い。
「まあ、一人です」
「ざまあみろ!」
「……えっ?」
突然、マユミさんの肩越しにリオが俺を指さし、叫ぶ。
ざまあみろと言われるようなことは彼女にしていないと思うし、何よりこんな子だったか?
「一人身! そーれ、ひっとりみ!」
「な、何事なんだ……」
よく分からないコールに手拍子まで付けて、変なハイテンションのリオが周囲をぐるぐる回る。
「ごめんなさい如月さん。リオ、先週彼氏と別れて……それからずっとこんな感じなんです」
「あー、なるほど。重症ですね」
先月のペンギンカフェは、リオ以外の3人だったもんな。
花火大会ともなれば、バンドメンバーよりも恋人を優先するだろうに、ここにいるということは、伊藤と別れたのは察せるところだったはずだ。
こういう機微は、推理とは別なんだよな。
「へっぽこ探偵が! 浮気を見抜けないからこんなことに!」
「いや、伊藤は浮気なんかしてなかったって。少なくともあの時は」
「うわーっ! 優悟の名前出すなああ!!」
「そんな理不尽な……」
依頼者から逆恨みされることは、たまにあることだ。
特に気にしてもいないし、これくらいは可愛いものである。
「よければ一緒にとも思ったんですが、リオがこれじゃあ……」
「お構いなく。メンバー同士、4人で回ってください」
俺がいる限りこの調子なんじゃ、4人も楽しめないだろうというのもあるが、怪盗と交戦する可能性がある以上、あまり俺の近くにはいない方がいい。
「そうだね、じゃあ私たち4人でまわらせてもらうとしよう。本当にいいんだね、如月君?」
キョウカがリオを羽交い絞めにしながら、俺にウインクを放つ。
一人でまわっているということは、怪盗事件の捜査ではと思っているが、普通にしていて大丈夫か?
そういう意図の質問だな。相変わらず察しがいい。
「ああ、構わない。俺以外にも一人のやつはいるしな」
新田とか。
まあ、他の探偵もいることまでは、さすがのキョウカもこの返答で察するのは不可能だろう。
「わたしも……」
「ああ、ありさも気にせず楽しんでこい」
ありさも何か察したのだろう。
彼女の中に眠る北園寺最大のアーティファクト、"戦慄のアーティファクト"のことを加味しても、ありさの楽しみを奪わねばならないような事態は起きていない。
だからなるべく力強く頷いてみせた。
仮に怪盗が本当にこの花火大会に来ていたとして、そいつの名前は怪盗ノーゴールドなんてマヌケなものだ。
俺も新田も、APPもいるこの会場で、北園寺のダメ怪盗ができることなどたかが知れている。
「じゃあ俺はもう行くよ。じゃあな、ありさ」
「うん……」
珍しく不安げに頷くありさを横目に、マユミさんにだけは一礼して、足早にその場を後にする。
「さて、今日は本当にいろいろあるな」
視線を屋台村の外れ、河川敷の果てへと向ける。
NEON RIOTと話している途中で気が付いたが、誰か俺を見ている。
姿こそ見えないが、感覚的に今目が合っている。
APPかと考えたが、昼前に感じ取ったものとは鋭さが段違いだ。
敵意は感じないから怪盗ではなさそうだが、一応挨拶に行ってみるか。
「目を逸らさないってことは、そっちも俺に気づかせるつもりで見てたってことなんだろ」
思わず深いため息が出る。
これだけ鋭い視線だ。
相当な手練れであろう視線の主に会うのもなかなかに億劫だし、これに新田が気づかないわけがない。
「また、あいつに会うことになるな……鼻持ちならないエセ関西人と花火大会デートなんてオチはごめんだぞ」
気の進まないまま、会場の端を目指してダラダラと歩いていく。
打ち上げまで、あと6時間。




