第54話 ロシアンブルーの判決と踵落とし
シェルナを頭に乗せたまま、俺は事務所を出た。
真夏の空気が、肌にまとわりつく。
日差しは強く、アスファルトがじりじりと熱を返してくる。
「……暑いな」
頭の上のシェルナも、毛皮の分俺以上に暑いだろうに微動だにしない。
この位置がよほど気に入っているらしい。
「そこ、そんなに居心地いいのか?」
軽く声をかけるが、返事はない。
当然だ。猫だからな。
――と。
「……」
歩き出して、数十メートル。
気配に気づく。
足音、距離、そしてタイミング。
わざとらしくない程度に、合わせてきている。
この気配には経験も、心当たりもある。
「……なるほどな」
視線は動かさず、歩調も変えない。
七海だ。
隠れているつもりなんだろうが、甘い。
そもそも北園寺で俺を尾行しようなんて十年早い。
「……」
口元だけ、わずかに緩む。
さて、どうするか。
そのまま連れて行くか。
それとも――
「……いや」
小さく呟く。
悪いがここは撒く。
その方法で猫の集会所を見つけられると、さっきあれだけ煽ったのが無駄になる。
次の角を、何気なく曲がる。
表通りから一本入った、細い路地。
昼間でも薄暗い、雑多な裏道だ。
飲食店の裏口、積まれたケース、日本晴れの下でも構わず湿ったコンクリート。
足音を一度だけ強める。
七海に追わせるための合図だ。
そのまま、歩く。
さらに奥へ。
そして――角。
迷わず、もう一度曲がる。
その瞬間、足を止め音を消す。
壁際に寄り、呼吸も浅くする。
数秒後。
――タタッ。
七海の足音が、勢いよく通り過ぎた。
「……」
思わず、少しだけ笑う。
まっすぐ行ったか。
素直すぎるな。
そのまま、逆方向へ抜ける。
来た道を戻らず、さらに細い抜け道へ。
人の流れから完全に外れるルートだ。
この辺りは、何度も歩いている。
地図なんて見なくても、体が覚えている。
いくつかの路地を抜け、再び大通りへ出る。
振り返らない。
もう、気配はない。
「……撒いたか」
短く確認して、歩き出す。
向かうのは、沼尻公園。
念のためヴァイオレット通りから入るいつものルートは外そう。待ち伏せされても厄介だ。
入口はいくつもある。
街の南東、住宅街を抜け阿加保学院の脇から、公園へ入る。
土の匂い。木陰の涼しさ。
遠くで聞こえる子どもの声。
一歩足を踏み入れれば、表の賑わいとは別の顔がここにはある。
「……寄り道も悪くないだろ? 副所長」
シェルナが、わずかに耳を動かす。
そのまま、足を進める。
人の少ないルートを選びながら。
やがて__見えてきた。
木陰のベンチ。
見慣れた配置。
そして、数匹の猫。
「……」
猫の集会所。
俺が数日前におっさん猫の写真を撮った場所だ。
猫の数はその時より増えており、見覚えのない柄も混ざっている。
SNSにあがっている写真から場所を特定したのか、2人の女子学生が撮影中だ。
阿加保学院の制服。俺には感覚が分からないが、夏休みでも制服を着ることはあるんだな
「……来てるな。あっちも来てるといいんだが」
周囲を見渡すが、今のところお目当ての気配はない。
少し待つか。
学生の撮影を邪魔しないように、遠巻きに様子を窺う。
10分ほどが経過し、現場には俺とシェルナ、そして集会所の猫達だけが残された折、スマホが鳴った。
画面を見ると、通知の相手は新田だ。
あまり会話したくないが、暇つぶしにはちょうどいいか。
「よう、なんだ。今いいとこなんだが」
『東京弁のもしもしはイカついんやなあ。これでもオレ、如月君の縄張りやから気遣って連絡しとるんやで』
気なんか遣わず、早く大阪に帰ってくれればそれでいいんだがな。
『悪いニュースと悪いニュースがあるんやけど、どっちから聞きたい?』
「どうやって選ぶんだよ。お前の匙加減じゃねえか」
『なっはっは、そらそうやな。ほな一瞬で終わる方と、話せば長そうな方、どっちからがええ?』
「一瞬で終わる方だけとりあえず頼む。張り込み中なんだよ」
ベンチの周りでくつろぐ猫の何匹かが、こちらを興味なさそうに眺める。
なんとも平和な張り込みだ。
『ほなそうするわ。ついさっき、怪盗マリンランタンを見たで。ほんで逃げられた。屋根の上ピョンピョンしとってどうにもならんかったわ』
「そうか。そいつは俺の獲物だから放っておいてくれ。もう三ヶ月も追ってる」
嘘はついていない。
順調に大怪盗として名前を売ってもらって、いつか俺が捕まえて事務所の宣伝をする用に泳がしている。
『その正体は八大怪盗! みたいなことないの?』
「ねえよ。お前も見たんだろ? 八大怪盗なんか今若くても50代だろ、そんな動きじゃないだろアレ」
『あー……。うん、それもそうやな』
それくらい普通に考えたら分かるだろ。
新田の野郎、八大怪盗に固執しすぎていろいろ見失っているな。
「話せば長い方は、また後で聞いてやるよ。このヤマが片付いたら、こっちから連絡する」
『はいよ。ほな、せいぜい気張りや』
通話を終え、スマホをしまい直す。
新田にしてはいいタイミングで欲しい情報をくれたじゃねえか。
そろそろ仕掛けるか。
木陰のベンチへ、ゆっくりと歩み寄る。
猫たちは、いつも通りだ。
だらけきっているやつ。
半分寝ているやつ。
警戒心の薄い、平和な連中。
その中に、ヤツが紛れていると信じよう。
「……行くぞ」
頭の上のシェルナに、小さく声をかける。
す、と軽い重みが動いた。
肩を経由して、地面へ。
静かに歩く。
猫たちの中へ、迷いなく入っていく。
何匹かが顔を上げる。
だが、すぐに興味を失う。
__一匹を除いて。
「……」
シェルナの耳が、ぴたりと止まる。
視線が、固定される。
その先。
日陰で横になっていた一匹の猫。
他と同じように、だらけた姿勢。
だが――
次の瞬間。
「シャッ――!!」
低く、鋭い威嚇。
シェルナの毛が逆立つ。
周囲の空気が、一瞬で張り詰めた。
「……やっぱりか」
俺は小さく呟く。
その猫は、動かない。
逃げもしない。
ただ、こちらを見ている。
その視線だけが、他と違う。
次の瞬間――
シェルナが飛びかかった。
「ッ!」
躊躇がない。
一直線に、噛みつく。
猫が、ようやく動いた。
だが遅い。
避けきれず、体勢を崩す。
「……そこだな」
俺は一歩踏み込んだ。
そのまま両手で、襲われた哀れな猫を抱き上げた。
暴れる前に、しっかりと固定する。
「悪いな」
軽く笑う。
「ごめんな。うちの副所長が」
猫の体は、しなやかで。
普通の野良猫と、何も変わらない感触。
――だが。
耳元で、囁く。
「なんてな」
うちの副所長は、アーティファクトを持ってるやつが分かるんだよ。
仮面レオンがペンギンからヨウムに変わったあの日。
虎からカラスに変わったあの日。
俺に確信があった。
動物形態でも、変身アーティファクトを身に着けていなければ、動物から別の動物へ直接変身することはできないはずだと。
ほんの一瞬、間を置いて。
「逮捕だ、怪盗仮面レオン」
「――ッ!」
その瞬間。
腕の中の猫が、歪む。
毛並みが、崩れ。
輪郭が、解ける。
次の瞬間にはその輪郭は灰色の羽毛へと変わっていく。
また今回もヨウム。
「よくぞ見破ったな、探偵!」
バサッ、と翼が広がる。
腕の中から、強引に抜け出す。
「また会おう!」
そのまま、上空へ。
「逃がすかよ」
俺は、内ポケットのパイプに手をかけ……止めた。
必要なさそうだ。保険が間に合った。
「そこだぁぁぁっ!!」
上から、声。
次の瞬間。
影が、落ちる。
枝から枝へ一直線に降下する青い光。
マリンランタンだ。
「見つけましたよ、集会所……じゃなくて仮面レオン!!」
空中で体をひねる。
そのまま――かかと落とし。
――ドンッ!!
ヨウムの体が、地面に叩き落とされる。
「ぐえっ!?」
間抜けな声。
着地と同時に、変身が解ける。
赤い仮面。
緑の全身タイツ。
そのまま、地面に転がる。
「……ったく」
俺は歩み寄る。
仮面レオンは、ぴくりとも動かない。
完全に伸びている。
「終わりだな」
マリンランタンの方は、水色の衣装をはためかせ軽やかに着地する。
「……如月探偵、久しぶりですね」
「……おう」
気まずい沈黙。
青いマスク越しに、七海の動揺が伝わってくる。
「まあ、なんだ。俺一人で二人は警察まで連れていけない。逃げるなら今のうちだぞ」
「は……はーはっは! そうさせてもらいます!」
俺はため息をつく。
俺がこうなるように仕向けたんだが、それにしても後先考えな過ぎだろ。
「……じゃあ、さっさと行け」
「にゃ」
シェルナもそう言っている。
ただ単に、正体が七海だと分かっていて挨拶しているだけかもしれないが。
「さ……さらばだっ!」
居たたまれなくなった七海……いや、マリンランタンはそう言い残し、また樹上へと戻って跳び去っていった。
「さて」
地面に伸びたままの男を見下ろす。
「改めて__」
その手首を取る。
「怪盗仮面レオン。現行犯で逮捕だ」
しばらくは起きてこないであろうその男を、適当に縄で縛りあげると、口の中からコロンとビー玉が転がりおちた。
「なるほど、それが変身アーティファクト。口の中に入れていたわけか」
木陰には、いつもの静けさが戻っていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
源さんを電話で呼び出し、仮面レオンを引き渡した後、俺はまだ沼尻公園に留まっていた。
人通りの少なく、何より七海が寄り付く心配が一時的にないこの場所は、新田の言っていたもう一つの悪いニュースを聞くのに適していると考えたのだ。
「話せば長くなる悪いニュース。遠隔操作アーティファクトの方で、面倒が起きたんだろうな」
お手柄のシェルナをベンチで撫でながら、新田へと折り返す。
わずか1コールで新田のやかましい声が聞こえてきた。
『待っとったで。張り込みは終わったん?』
「ああ。さっき仮面レオンを逮捕して、警察に引き渡したところだ」
『ほんまに? さすが地元の探偵やな』
わざとらしく声を上ずらせてみせる新田。
嫌味にしか聞こえないな。
「で、話せば長くなる悪いニュースってのは?」
『なんや、リアクション薄いな。まあええわ、こっちも新しく、遠隔操作されたおもちゃを押さえたんや。今回は三輪車やったから、磁石で一発やったけど』
三輪車なら鉄のフレームが剥き出しだろうしな。
見た目で形が把握できる。
『サドルに刺さっとんや』
「刺さってた? 何が」
『万年筆と蛇革のナイフ。知っとるやろ』
「っ!」
背中を冷たいものが伝う。
知ってるも何も、そいつは師匠の仇__大怪盗・死神モルスのサインだ。
『ちゅうことで、もうしばらく北園寺にいさせてもらうわ。八大怪盗なら、手ぇ組んで相手する。そういう約束やったやろ?』
「……ああ」
その一言を絞りだすのが、俺には精一杯だった。




