第47話 モルモットの脱走と即席鑑定
__足元を毛玉が横切るのを感じながら。
「……ん?」
思わず視線を下げる。
白と茶色の小さな塊が、柵の下をくぐるようにして走り抜けていった。
丸い。
そして、速い。
「今の……」
「如月さん!」
七海が小さく叫んだ。
「あれ、モルモットじゃないですか!?」
俺もすぐに思い出した。
入口近くの檻にいたやつだ。
「脱走か?」
「たぶん!」
モルモットは芝生の上を必死に走っている。
小さい体で、信じられないくらいのスピードだ。
子どもたちの足元を縫うようにして駆け抜ける。
「おいおい……」
このまま放っておいたら、踏まれるぞ。
「七海」
「はい!」
「捕まえるぞ」
「任せてください!」
七海はすぐにしゃがみ込んだ。
逃げ道を塞ぐように回り込む。
だが――
モルモットはぴたりと方向を変えた。
七海の足の間をすり抜ける。
「わっ!」
「速いな」
「ちょっと待ってください!」
七海が慌てて追いかける。
モルモットは芝生から小道へ飛び出した。
小さな体が、ころころ転がるみたいに走っていく。
「おい、そっち行ったぞ!」
「わかってます!」
七海が回り込もうとする。
だがモルモットは、そのたびに方向を変えた。
左右に。
前に。
くるくると。
「こいつ……」
俺は思わず笑った。
「意外と賢いな」
「笑ってないで手伝ってください!」
七海が抗議する。
俺はため息をついた。
「しょうがない」
モルモットの進路を読む。
次の瞬間、そいつは花壇の縁へ向かった。
逃げ場は狭い。
俺はゆっくり回り込む。
「七海、反対側」
「はい!」
七海が位置を取る。
モルモットは花壇の前で止まった。
左右を見る。
そして――
俺と七海を見る。
「……」
小さな黒い目が、こっちを見上げていた。
「ほら、もう逃げ場ないぞ」
もちろん通じるわけもないが、つい言ってしまう。
七海がゆっくり手を伸ばした。
「大人しくしてくださいねー」
次の瞬間。
モルモットはぴょん、と跳ねた。
そして――
俺の足元をすり抜ける。
「うおっ」
「如月さん!」
ころころ転がるように逃げていく。
芝生を抜け、小さな柵の方へ。
七海が追いかける。
「待ってください!」
俺も歩き出した。
まあ、急ぐ必要はない。
所詮モルモットだ。毒もなければサイズも小さい。脱走したからといって危ないものでもない。
それに、そんなに遠くまで逃げられるわけが――
「……ん?」
そのとき、ふと気づく。
七海から、こんなに長い時間逃げられるか……?
無論七海も、完全に本気で追っているわけではないだろう。
あの身体能力を全部発揮してしまえば、他のお客さんに対して「わたしは怪盗マリンランタンです」と自供しているようなものだ。
マリンランタンは、たかが数ヶ月の活動歴で、目立った事件も起こしていない怪盗とはいえ、ここは北園寺だ。一人くらいはピンとくるだろう。
俺だって、死に物狂いで追っていたわけじゃないが、ちゃんと捕まえる気はあった。
「……」
俺はモルモットの背中を見ながら、少しだけ眉をひそめた。
なんだか妙な胸騒ぎがして、少し歩く速度を上げる。
モルモットは芝生を抜け、小道を横切り、そのまま入口の方へと向かっている。
七海が前で追いかけながら振り返る。
「如月さん、こっちです!」
「見えてる」
小さな背中は、ころころ転がるみたいに進んでいく。
人混みを避けるように、植え込みの縁を選んで走っている。
「……」
やっぱり妙だ。
ただのモルモットが、こんなに捕まらないわけがない。
完全に人の手が届かないような隙間に入るとか、そういうこともなく、ただ純粋にやたら絶妙な方向転換によって俺達を翻弄してきている。
本能的に逃げて、こうなるだろうか……?
七海も同じことを思ったのか、追いながら言った。
「この子、慣れてません?」
「何にだ」
「逃げるのにです」
「もともと脱走癖のあるやつなのかもな」
だが七海は首を横に振った。
「でも、やっぱりなんか変ですよ」
「……」
それ以上は言うな。
俺だってもう疑っている。
__そいつが怪盗・仮面レオンの変身なんじゃないかってのはな
だが、そんなことを周りに人が大勢いるところで言うのは悪手だ。
相手は怪盗だが、今のところモルモットに過ぎないのだ。
無駄にパニックを引き起こす必要はない。
「……あ」
しばらく無言でモルモットを追ううちに、七海が声を上げた。
モルモットが小さな柵の前で止まり、そしてそのまますっと横に回り込む。
そこは――
「モルモットの展示スペースだな」
入口近くで見た場所だ。
低い木柵で囲われたスペースの中に、丸い毛玉が何匹も転がっている。
そしてその柵の中では、ほうきを持った男性が、地面を掃いていた。
作業着姿。
どう見ても飼育員だ。
七海が駆け寄る。
「すみません!」
飼育員が顔を上げた。
「はい?」
「モルモット、一匹脱走してます!」
七海が指差す。
「さっき、あっちのペンギンのところまで逃げてて――」
俺も柵の前に立った。
「この辺に戻ってきたと思うんですが」
飼育員はきょとんとした顔をした。
「脱走?」
そして柵の中を見回す。
地面には、モルモットが何匹もいる。
草を食べているやつ。
丸まっているやつ。
のんびり歩いているやつ。
飼育員は少し屈み込み、ざっと数える。
「……」
それから首を傾げた。
「いや」
「え?」
「みんないますよ」
七海が瞬きをした。
「え?」
「モルモットは今、全部で八匹なんですけど」
飼育員は指を折って確認する。
「一、二、三……」
そして軽く笑った。
「ちゃんと八匹いますね」
七海と俺は、同時に柵の中を見た。
白い毛玉。
茶色い毛玉。
白茶の毛玉。
どれも、のんびり草を食べている。
飼育員さんが言うなら、まあ八匹で間違いないのだろう。
一瞬、この人が仮面レオンの変身した姿という可能性まで考えたが、基本的にあり得ないはずだ。
定期的に別の職員が近くを通っており、彼らから怪しまれないためには、今ここにいておかしくない職員を選んで化け、逆に本物をどこかに監禁しておく必要がある。
不可能ではないが、モルモットの柵内に入りたければそんな手順を踏まず、直接モルモットになるかハトにでもなればそれで充分だ。
「……」
七海が小さく言った。
「さっき、絶対いたんですけど」
飼育員は苦笑した。
「いろんな動物がいますからね。見間違えかもしれませんね」
そう言って、職員用の無線らしき装置を操作し始める。
モルモット以外の動物の脱走、そういう線を疑っているということだ。
「でも」
七海がまだ言いかけた。
俺は柵の中をもう一度見た。
八匹。確かに、八匹いる。
どれも同じような丸い体で、同じようにのんびりしていて。
区別なんて、つかない。
「……」
俺はゆっくり息を吐いた。
「七海」
「はい?」
「たぶん、見間違いだ」
「えっ」
「最初に俺も言っただろ。要するにネズミだろって、たぶん野良のネズミだったんだよ」
七海は少しだけ不満そうな顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「……そうですかね」
「たぶんな」
もちろん見間違えだとは思わないが、これ以上言っても飼育員さんを困惑させるだけだ。
俺はもう一度、柵の中を見る。
八匹の毛玉たちが思い思いに過ごしており、体躯や動きからして自力で脱走できそうにはない。
自力では、な。
「ねえ、如月さん」
そうして眺めていると、ふいに七海が顔を寄せ、耳元で囁いた。
「わたし、絶対また仮面レオンの仕業だと思うんですけど。見間違いじゃないですよ」
「安心しろ、俺もそう思ってる。ただ飼育員さんに説明する術がない」
「怪盗のことを普通に話したらいいんじゃ……」
もちろん、その通りだ。
俺で信じてもらえなければ源さんか、あの……また名前忘れたがあの警官にでも言ってもらえばそれで済む。
「それは最終手段にしよう。みんなこの場所を楽しんでるんだ、怪盗騒ぎで邪魔したくはない。これがライオンやゴリラに変身しているなら、そんなことも言ってられないが、今のところモルモットだ」
「なるほど。じゃあ、隠れたモルモット探しを、こっそり続けるんですね」
「どちらにせよ探さないといけないんだろうな」
最終的には、な。
「どちらにせよ?」
「ああ、まず目の前の八匹から考えようか」
「ごめんなさい、言ってる意味がわからないんですけど」
「つまりだ」
自然と深いため息が漏れた。
脱走モルモットを無視しておけばこんなことには……となりかけ、なんとか思いとどまって、説明を続ける。
「今あそこにいる八匹の中に仮面レオンがいて、仮面レオンが脱走させた本物のモルモットがさっき走り回ってたやつって可能性があるだろ……残念なことに」
「えっ、じゃあ……今からまず利きモルモットをするんですか?」
七海が頬を引きつらせる。
そんな顔するな。俺だってやりたくないんだ。
こうして俺達の、最悪の間違い探しは第二幕を迎えていく。




