となりの田中さん
となりの田中さん
私の名前は、田中である。
零細企業で課長職についている。部下は四人。皆、若手で真面目、束ねる方としては気楽だが、少々発想が硬いのが玉に瑕だ。
妻一人、娘二人。妻とは高校時代からの付き合いだが、今でも先輩である私を立ててくれる出来た嫁だ。
娘たちは十歳と八歳。長女がそろそろ反抗期にかかったようで、妻から叱られると口を尖らせて「でもさ」と口答えするようになった。大人になっていくのだなと実感して少し寂しいような気もする。
我が家は郊外の丘陵に作られた建売住宅地の一角である。新興住宅だけに、住人は私たち一家のような中年世代が多い。妻に中年だなどというと、最近は皆若いのだから自分たちも十分青年だと言い出すので、言わないようにしているが。
小さいながらも庭もあり、犬でも飼おうかと相談している。長女はウサギがいいと言い、次女はポニーがいいと言う。妻はどちらにしても世話は自分がすることになるのだから、出来るだけ小型のものがいいと言う。近いうちにペットショップに行ってみるつもりだ。
我が家は主要道路に面した一軒で、左右にもずらりと、向かいにもずらりと家が並んでいる、住宅地の中心部分にある。そこで、困ったことが一つある。
ご近所のことだ。
近所付き合いは社交的な妻のおかげで良好だ。特に困った人物もおらず、閑静で清潔な町だ。
問題はとなりの田中さんなのである。私も田中、おとなりも田中。郵便物がよく間違って入っている。それはまだいいのだ。宅配が間違ってくる。それも、まだいいのだ。
となりの田中さんが、問題なのだ。
我が家のとなりは田中さんだ。右隣も、左隣も、である。田中、田中、田中と並んだ真ん中の家が我が田中家だ。それは、まだいい。
問題はまだあるのだ。向かいも、田中さんなのだ。その両隣も田中さん。向こう三軒両隣が田中なのだ。田中が六軒。六軒田中。もう、ここは田んぼなのではないかと妻が笑うが、私はとても笑えない。
呼称の問題なのだ。
六軒みんな田中なのだ。
「あ、おはようございます、田中さん」
「ああ、どうも」
「田中さんもバスでしたよね。ご一緒しますか」
「はあ」
「やあ、田中さん」
「おや、田中さん」
「ああ、どうも」
「あ、田中さんもご一緒ですか。おはようございます」
「おはようございます」
「お二人は通勤は、バスですか」
「はい。田中さんは?」
「自転車です」
「いいですね。田中さんはどちらにお勤めですか?」
「……」
「……」
「あ、えーと。14番地の田中さんは」
「ああ、私でしたか。私は……」
こうである。
この状況を打開しようと、六軒田中で親睦会を開いたのだ。みな下の名前を書いた名札を付けて我が田中家でパーティーをするのだ。私は、激しく抵抗した。
「いいじゃないか、うちは15番地の田中と名乗れば」
「嫌よ、そんなの。番号で呼び合うなんて、人間性を喪失しそうだわ」
妻は普段からおおらかな人間なのだが、それは人間愛にあふれているからなのだ。人間味というものを信頼している。それはすごく良いことだと私も思う。だが、今回は譲れない。
「番号で呼び合うわけじゃないよ。何番目の田中か教えあうだけだ」
「だから、それが嫌なの。人間に一番も二番もないでしょう」
いつもは従順な妻だが、こと人類愛においては譲れないものがあるのだ。それはわかる。わかるが、ここは折れて欲しい。私はテーブルに両手をついて頭を下げた。
「たのむ! 親睦会なんてやめてくれ!」
「あなた……。やっぱり、気にしているのね。名前のこと」
返す言葉がなかった。私はいつも自分の名前に誇りを持っていると言い続けてきたのだ。それが偽りだったと認めたくはない。だが、仕方がない。この名前を近所に知られるよりは、偽りの仮面を剥がした方がどれだけマシか……。
その時、玄関のチャイムが鳴った。妻が立っていく。やってきたのは25番地の田中さん、うちの向かいの田中さんの奥さんのようだ。
「迷子の手紙をお届けに来ました」
「まあ、いつもすみません」
「いえいえ、お互い様ですから」
奥さん同士では誤配の手紙を迷子の手紙と呼ぶようだ。微笑ましい。
「それにしても、田中さんのご主人は立派なお名前ですねえ」
血の気が引いた。あわてて玄関に走って行く。
「あなた?」
目を丸くしている妻から手紙を奪い取る。表書きの文字は祖父のものだ。達筆で私の名前が書いてある。
『田中惣菜衛門』と。
力が抜けてがっくりと頭を垂れた。
「あなた……」
妻が私の肩にそっと手を置いた。お向かいの田中さんが、あっけに取られている様子が感じられる。ああ、知られてしまった。ここまで隠し通してきたのに。この時代錯誤な名前を知られてしまった。
「あなた、ごめんなさい。ずっと黙っていたことがあるの」
妻が私の両手をそっと握った。暖かい。顔を上げて妻の目を見る。今度は妻が目をそらした。
「今までも、なんども迷子の手紙を届けていただいているの。もう、田中さんたちは、あなたのフルネームを知っているの」
「……田中さんたちというのは、何番地の田中さんだ」
「今日、届けていただいた25番地の田中さんで、全員です」
今度こそ、立っていられないほど力を失くして、へなへなと床に座り込んだ。
そうして、親睦会は無事、決行され、私は近隣の田中さんから「惣ちゃん」と呼ばれることとなった。
「惣ちゃんは、やっぱり武家の子だったりするんですか?」
由美子さんに聞かれて、苦笑いが浮かんだ。
「いえ、うちは菓子屋だったんですよ。祖父の代で十五代続いてて、孫の私も和菓子屋を継ぐものだと思っていた祖父が代々受け継いでいた名前を付けてしまったんです。ですが、父が菓子屋をつぶしてしまって、この珍妙な名前だけが残ったというわけです」
「珍妙だなんて、そんなことないですよ」
慎之介さんが慰めてくれ、グラスにビールを注いでくれた。
「立派な名前じゃないですか。お菓子屋さんは失くなってしまっても、名前は代々、残っていくんですから」
「いや、名前も、私の代で最後ですね。うちは二人とも女の子ですから」
「ああ、そうですよねえ。いや、残念ですね。せっかくのかっこいいお名前が」
慎之介さんだけではない。田中さんたちは心から私の名前が絶えることを惜しんでくれた。なにやら、この名前で生きてきたことを認められた気がして、涙が出そうだった。
それからしばらくして、妻がみごもった。男の子だという。
はたして惣菜衛門の名を息子に継がせるかどうか、迷っている。
継がせたとしたら、私の名前は新たに付け直さなければならない。その場合、せっかく皆から呼ばれている「惣ちゃん」という名前も変えることになる。それはとても惜しい。そのくらい、私は自分の名前を、今ではとても、愛している。




