パラリ・パラル・パラレル
パラリ・パラル・パラレル
「平行宇宙? なにそれ」
「もー、お母さんはすぐ『なにそれ』って言うんだから」
私は、わざと大袈裟に、ため息をついてみせた。
「だって、知らないんだから仕方ないじゃない」
「この本」
リビングの本棚から小説を一冊取り出して、母の目の前に差し出す。
「この本を、お母様が読んでいるときに、ご説明いたしました」
「えー、私、読んだっけ? 覚えてないよー。で、平行宇宙って何?」
今度は、わざとではない、心からのため息が出た。
母はとにかく、すぐ忘れる。年のせいとか、病気とかじゃない。私が小さい頃から、ずっと変わらない。
理由は簡単。真面目に聞いていないのだ。平行宇宙だなんて、そもそもSFに興味のない母が覚える必然性はない。
母は活字中毒で、とにかく文字さえ読めればなんでもいいのだ。母にとって『良い本』は文字数が多い本。文字数が少ない本は逆の評価になる。それだけ。
「宇宙はいくつもあって、それぞれがすごく似てるの。この宇宙と、隣の宇宙はそっくりだけど、まったく同じものじゃないから、少し違うところもある。そういう話」
「少し違うところって、例えば?」
「隣の宇宙では、お母さんの記憶力がアインシュタインなみだとか」
「それはいいわ。隣の宇宙から私を借りてこよう」
「借りてどうするのよ」
「大学を受験するの」
またくだらないことを言い出した。もう放っておくことにする。
「記憶力が良ければ、大学受験なんか屁でもないわよ、きっと。それで、テストはぜーんぶ記憶力がいい私に受けてもらうの」
母はウキウキと楽しげだ。
「そうだ、英会話を勉強するのもいいと思わない? それで、海外旅行に一緒に行くの」
「パスポートは一人ぶんしかとれないよ」
「あ、そうか」
しょんぼりする母は放っておいて、部屋に戻った。
お菓子を取りにリビングへ行くと、母がメモ用紙を手に首をひねっていた。
「どしたの」
「あれ! あんた、どしたの!?」
「いや、お菓子取りに来たんだけど、どしたの?」
「うん、えっと、ええええっと、なんだっけ。あ、そうだ。あのね。これ、アタシの字だと思うんだけど、書いた覚えがないのよね」
そう言って見せられたメモ用紙には『平行宇宙のお隣さんに楽器をたのむ』と書いてある。意味不明。
「なに、楽器って」
尋ねると母は首をかしげた。
「わかんない」
「これって、今書いたんじゃないの?」
「メモ帳の一番上に書いてあったんだけど……」
「なら、今日、書いたのよ。私、夕べ、メモ帳使ったもん」
「え! そうなの!? でも私、全然書いた記憶がないのよ」
これは、やばいかもしれない。思わず動きが止まった。
来たかもしれない。加齢による鈍間が。いわゆる認知的な問題が、とうとう、やってきたのか!? 母は私の心配をよそに飄飄として尋ねる。
「ねえ、平行宇宙って、なに?」
どうしよう、これは本当にヤバイのかもしれない。胸がドキドキしてきた。
「お母さん。お母さん、しっかり聞いて」
「なによ、怖い顔をして」
「さっき、ついさっきよ。話したよね、平行宇宙のこと」
「へ?」
うわあ、すごい顔した。鳩が豆鉄砲食らったような顔した。
「知らんよ」
「話したよ」
「いや、知らんよ。だって、今日、あんたと話すの、今が最初じゃない」
「は?」
今度は私が、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしたはずだ。
「朝も話したよね、朝御飯の時も」
母が首をひねる。
「あんた、いつも朝御飯食べないじゃないの」
「えー……」
何をどう言えばいいか、わからない。私は朝御飯が生きがいと言えるくらい好きだし、学校から帰ってきてからもリビングにずっといたし、もう、どこから突っ込んだらいいか……。
「それにしても、あんた。久しぶりね、部屋から出てきたの」
「へ?」
「きちんと着替えてるし。まさか、外に出るの?」
「へ?」
「突然、頑張りすぎじゃない? 一人で行ける? ついていこうか?」
「え、なになになになに? なんの話?」
母は口をつぐむと言いにくそうに上目使いで私を見た。なんだ、なんだ、その意味深な視線は?
「やっぱり、まだ、つらい?」
「なにが?」
母はやっぱり言いにくそうに、というか、申し訳なさそうに私を見る。
「お父さんが、あんなことになって……」
なんだ、なんだ、その意味深な間は。不安になるじゃないか。
「あんなことって、なに?」
母は視線をそらしてぼそりとつぶやいた。
「自殺……しちゃってさ」
「はあ!?」
母はいったいなにを言い出したのだ?
「やっぱり、何年たっても忘れられないよね……。お父さんの死体なんか見つけちゃったら……」
「いや、いや、いや、いるし! お父さん、今朝も会ったし!」
あわれみ、哀しみ、いとおしさ、そんな感情がまぜこぜになった母の顔は、とても冗談を言っているようには見えなかった。いつもの大ボケではない。大真面目だ。
やはり、本当に記憶が、いや、認知か? なんか変なことになっているのか?
「お母さん?」
「なに?」
「今日は、何年何月何日か、わかる?」
母は哀れみを湛えた瞳で、ハッキリと宣言した。
「減光二百八十三年、十三月、四十九日よ」
冗談じゃない。大真面目だ。認知の問題じゃない。これは!
「お母さん、平行移動したのよ!」
「へ?」
「パラレルワールドから、この宇宙に迷い混んじゃったのよ!」
「なあに、パラレルワールドって」
「だから、さっき説明したってば……、いや、それはこの宇宙のお母さんであって、このお母さんではなくて、じゃあ、この宇宙のお母さんは、どこへ行っちゃったの?」
母の目を見ると、哀れみの度合いはますます濃くなっている。
「あのね、お母さんはずっとここにいるわよ。心配しなくても、どこにも行かないから」
「そうじゃなくて! 多次元宇宙なのよ! お母さんが存在していた宇宙はこことは違って、何かの拍子に入れ代わっちゃったのよ!」
母の肩をつかんで揺さぶっても、母の表情は変わらない。
「ね、ちょっと落ち着きましょ。ほら、お父さんの仏壇に手を合わせて、お念仏を唱えたら心が落ち着くわ」
そう言って母は和室に向かう。ああ、こちらの父は死んでいないのだから、仏壇なんかないのに。かわいそうな母。きっと死ぬほどビックリするに違いない。
でも、事情をわかってもらうには、それが一番かもしれない。百聞一見。それがいい。
母は和室のふすまを開けて、しばらく室内をじっと見ていた。
「ねえ」
ああ、この事態をどうやって説明しよう。
「ほら、早くおいで」
あれ? 母はちっとも驚いてない。にぶいの? 仕方なく呼ばれるままに和室に入ると、そこには立派な仏壇があった。飾られた遺影は父のものだ。
「……なにこれ」
「お仏壇よ。大丈夫、こっちに来て。ね」
手を引かれて仏壇の前に座る。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。なんだ、これは。
なんなんだ、これは!
ばっと母を、いや、母の姿をした何者かを見上げる。何者かは哀れみを込めて私を見下ろす。
体が勝手に動いた。後ずさり、仏壇にしたたか背中をぶつけ、それでも痛みは感じない。じりじりと窓辺に移動する。視線はあの、何者かから離さない。離せるはずがない。
あれは、なんだ? 母の姿をしたあれは、なんだ?
「ね、落ち着いて。ちょっと落ち着こう。大丈夫だから」
何者かは一歩、近づいてきた。逃げなくちゃ!
窓の鍵を開けて、庭に飛び出ようとした、その時、
窓の外に何もないことに気づいた。
「あんた、何やってんの!? 窓閉めなさい! 早く!」
あわてて窓を閉めて鍵をかける。窓の外には真っ黒な何もない、闇さえもない、何もない世界が広がっていた。
「……なにこれ」
母の姿をした何者かが走りよってきて私の両肩をつかんで揺さぶった。
「あんた、何してんの!? しっかりして! 私たち、多次元ワープしてるのを忘れたの?」
「た……多次元?」
私はアホみたいな顔をして無意味に言葉を繰り返す。
「別の次元を探してるのよ。思い出せない?」
「別の次元?」
「私たちが安住できる次元。ね、きっと、あるから。あきらめないで、信じよう」
何者かは本当の母親のように慈悲にあふれた言葉をくれる。
「お母さん」
「なに?」
「今日は何年何月何日かわかる?」
何者か、いや、母は答えた。
「減光二百八十三年、十三月、四十九日よ」
ああ、ああ、ああ、ああ。世界がぐにゃりと崩れた。
パラレルワールドを遷移したのは、わたしだったのだ。
この絶望が支配する家に、私の多次元の私が暮らしていたんだ。私は、私の代わりにここにいるのだ。
だとしたら、この宇宙の私はどこに行ったのだ? 私がいた宇宙か? それともこの宇宙のさらに先の宇宙に弾き飛ばされたのか? そうしたら、その宇宙の私はどこへ? さらにさらに先の宇宙へ? その私は果たして私なのだろうか?
いや、本当に、本当は、私は私ではないのではないか?
父の死に耐えきれず、今まで安楽な夢を見続けていたのではないか?
いや、いや、いや。では、あのメモは?
この宇宙の母が当惑していた謎のメモは?
『平行宇宙のお隣さんに楽器をたのむ』
それは、元の宇宙の母が書いたものでは?
じゃあ、私の母はこの宇宙にいたのか?
では、だとしたら、父の仏壇は?
母が入れ替わったとしたら、元の母は?
いや、それよりも。窓の外の虚無は?
「ねえ、あんた、大丈夫?」
母の姿をした何者かが私の腕をとる。私は思わず振り払う。
母の姿をした何者かは、私を哀れんで微笑む。
その微笑は私の知らない母性を感じさせ、けれど、なつかしい母性を感じさせ。
ああ、もうわからない。
ああ、もうどうでもいいや。
この宇宙の行く末がどこであっても。
私がいったい、どこの私でも。
「ねえ、あんた、本当に、大丈夫?」
この何者かが母であっても、なくても。
「うん、大丈夫」
私は窓の鍵を開けて、外に飛び出した。




