音浴
音浴
「あー、疲れた」
彼女は帰るなり、ジャケットも脱がずにソファに横になる。
「超能力があったらなー」
冷蔵庫に向かって両手を伸ばす。手のひらに何かの力を集めようと力むが、なにも起きはしない。
あきらめて立ちあがり、ダイニングテーブルと揃いの椅子の背に、脱いだジャケットを引っ掻ける。
念力では開かなかった冷蔵庫の扉を開き、缶ビールを取り出す。
小気味良い音をたててプルトップを開ける。直接口をつけて、喉を鳴らして半分ほどを一気に飲み干す。
「くぅっはぁー!」
体の芯を震わせるような雄叫びとともにげっぷする。
「あー、あ。あー」
息継ぎのたびに意味のない声を出し、ゆっくりとビールを空にする。
空き缶をキッチンのシンクに放り込んで、ビールの泡を推進力にしているかのように、すいすいと浴室に向かう。
ポイポイと服を脱ぎ散らかして風呂に入り、シャワーを浴びる。浴槽に湯を張ったのは、いつが最後だろうか。冷え性の体のためには湯につかるのがいいのだが。そう思いつつ、今日もシャワーで済ませる。
部屋着を着て、髪を拭きながらリビングに戻りソファに座り込む。ひじ掛けに体をもたせかけて、ローテーブルに置きっぱなしのリモコンでオーディオを起こす。
古いCDプレイヤーは12枚のオートチェンジャー機能がある。好きなCDを12枚、ほぼ入れっぱなしで、毎日、音楽を流している。
シャッフルモードにしてあるので、どのCDがどの曲順でかかるか、プレイヤー任せだ。少しのドキドキと共に、一人きりの生活に自分があずかりしらぬ力が働く不思議さを感じる。
それは、まるでお天気のように、彼女の意に介しない、自然の事柄のような気持になるのだ。
今日、プレイヤーが一曲目に選んだのはNewOilDealsの『夜はレコードのように』。ヒップホップなのに、懐かしい白黒の洋画を思わせる。イングリッド・バーグマンの姿が見えてきそうだ。
髪を拭く手を止めて、うーんと唸りながら伸びをする。プレイヤーから流れてくる音がシャボン玉の泡のようにフワリと肌に当たってパチンとはじける。そのわずかな感触が彼女の肌を、髪を、心を艶めかせていく。
彼女は女に生まれたことを喜ぶ。音楽の泡で美しくなる自分を、今日も愛することが出来るから。
「うんしょっ」
一曲目が終わり、彼女は掛け声をかけて起き上がった。脱ぎ散らかした服を拾っていく。CDは三曲目の『veloceでまた会いましょう』に代わった。やわらかなキーボードと軽快なドラムの上をすべっていく滑らかなリリック。
彼女は音に乗るように、すべるように、明日へ向かう。
まずは洗濯。それから食卓。彼女は今日も音浴をすませ、穏やかな夜にひたっていく。




