浴場の決戦
なみなみと湯の湛えられた浴槽は、今や最前線の戦場である。高圧を以て噴射された湯の塊は、万有引力に従って弧を描き、激情に牙を剥く少年の顔面をしたたかに打ち付ける。ぶるぶると首を振って水滴を四方に撒き散らすと、彼は吠える。
「くっそ、お前いい加減にしろよ。魔術とか幾らなんでも卑怯だろう」
「戯言を。闘争を制すべくあらゆる手段を動員するのは当然のことなのです」
対する同居人はどこまでも怜悧である。駄目押しとばかりに魔術で湯の塊を複数発射し、その同時着弾を以って相手に黙らせにかかる。まさに、暴力こそ正義と言わんばかりの姿勢である。しかし、その傲慢も長続きはしない。水面から迸った水流が、寸分も違わずにその顔面を直撃したのである。少年の胸に滾る、不屈の意思がこれをなさしめた。渾身の水鉄砲に、驕る同居人がぐらりと傾く。
「はっは、ざまああああおえっ」
もっとも、快哉を叫ぶ余裕などはない。歓喜に大口を開けば、そこに湯が叩き込まれるからである。口から液体を吐き出しながら、少年は鋭く敵手を睨みつける。
かくして、情勢は五分である。
魔術によって湯の塊を連続発射し、以って面公算射撃を実施する同居人に対して、その打撃を耐え忍ぶ少年は、確実に小娘の顔面を射貫くことで抵抗する。実効ダメージレートはほぼ同等である。故に形勢が大きく動くことはなく、そもそも、人の闘争意思を挫くのに飛び交う湯の塊はあまりにも無力である。あまりにも水準の低い決戦を横目で眺めつつ、三毛猫はうにゃうと唸る。
この不毛な争いの発端は先刻にまで遡る。
給湯装置の稼働状況を確認すべく、周囲の暇人を引き連れて浴槽を確認した際の出来事である。今にして思えば、疑うべきだった。どうして、同居人はこの少年の手を引き、連れてきたのかを。答えはすぐに皆の知るところとなった。引っ張ってきたその手を、そのままぐいっと、湯の中に浸けたのである。もうもうと湯気を上げ、ついでに、こぽこぽと不思議な音を奏でている湯の中に、である。やや遅れて上がった悲鳴を以って、同居人は装置の給湯能力の証明とした。
それはいいのだが、収まらないのは贄に捧げられた少年の方である。かくして、争いは始まった。少年は同居人を弾劾し、同居人は涼しい顔で無視を決め込む。せっせと怒声と罵声を浴びせてみても、大した進展はない。粘り強い糾弾の末に、物で釣って有耶無耶にしようという実に同居人らしい提案を引き出すことはできたのだが、誠意に欠くとして、少年はこれを蹴ってしまった。
ところで、こんな場合に頼りになるものがある。暴力である。
いかに不誠実な相手といえども、殴れば無視はできないし、指の二三本でも折ってやれば、大抵の要求は通る。人類の集合知たる歴史が認めるこの強力なソリューションを、賢明な少年も採用することにしたわけである。そして、水の追加投入により然るべく温度を調整された湯を浴む段となって、それは具体的表現形態へと結実した。つまるところ、この水鉄砲の応酬である。
──仕方がないのである。貴族を拳で殴り倒せば、色々とマズいことになる。例えば、平民から貴族への暴行は重罪である。これを軽々に許すと身分制度が揺らぐのだから、至極当然の措置である。
更に、この小娘には護衛がついている。洗い場でダークエルフの胸を鷲掴みにして、その大きさに驚嘆しているサーラである。振る舞いが色々とアレだが、一応は正規の騎士である。いくら計測に夢中とはいえ、護衛対象に危機が迫れば、飛んできて強烈な物理力を叩き込んでくる。きっと、そのはずである。
「一体何を食べたらこんなに大きく……うっ」
「特に大したものは……というか、どうしてそこで泣くの!?」
「いえ、やはり人は生まれで決まるんだなと思うと」
「よくわからないけど、諦めないで!」
なんか重い話が始まったことを察して、レーニンはそっと目を逸らす。そのままでいれば、色々なものに対する内的確信が揺らぎそうな気がしたのである。不都合な真実からは、目を背けるに限る。
ちなみに、この三毛猫が既に目を背けている事柄がある。己が身柄の所在である。端的に述べると、木桶の中にぶち込まれて湯殿に浮かべられている。錨代わりに縄で重石をくくりつけてあるので、自然対流に乗って接岸、脱出することも難しい。やけに丁寧な手口から伺える通り、あの同居人の仕業である。
レーニンはこの処遇にどのような意味合いがあるのか知らない。知る機会も失われた。既に戦端は開かれているのだ。高圧放水に忙しい同居人に猫を構う余裕があるはずもなく、終わりの見えない闘争は、そのまま風呂上がりの時まで放置を決め込まれる未来を示唆している。
不意に切ない思いが去来して、三毛猫はにゃーんと鳴く。
目を他方に転ずれば、湯殿の隅で事務局のやけに艶のある女性職員達が談笑する様が窺える。反対側では戦争中だというのに、実に平和な景色である。ついでに、件のダークエルフの連れ子も視認できる。少女と幼女の姉妹、湯煙の中でも視認性抜群な赤毛が特徴的な二人組である。恐らくは火属性であろう。彼女達は水流に任せてゆらゆらと水面を漂い、共同浴場の大きな湯殿を楽しんでいる。
先程から妙に女性比率が高いのは必然である。浴槽をひとつしか持たないこの浴場では、時間割で男湯と女湯が切り替わる。今は後者の時間であり、同居人と死闘を繰り広げるあの少年が唯一の男性である。お子様枠に属するが故の処遇である。特に問題はない。妙齢の異性が裸体を晒すこの空間で、彼はただ同居人との闘争に邁進しているのである。その判断の妥当性は明らかである。
これがエリーならば話はこう単純ではない。彼は同居人に抱きつかれた程度で赤面し、困惑する程に初心なのである。換言すれば、異性を意識する程度には感性の機微を持ち合わせている。同居人が暴露療法の如くよく抱き着くので、近時は幾分慣れたらしいが、それでも動揺を隠しきれてはいない。性別を隠蔽する必要から、このような場所に連れ込まれることのないことは彼にとって幸いなことであろう。
もっとも、禍福というのは流動的で相対的な概念である。現に今、この三毛猫はエリーの不在が心底残念で仕方がない。猫の合理的取扱いに定評のある彼が居合わせたなら、にゃーんと哀愁漂う声を上げることで、この湯上の牢獄からすんなりと解放して貰えたはずなのである。
猫に好意的な人間は他にも居るが、水面を掻きつつにゃーと助けを求めても、救いの手が伸ばされることはなかった。どうやら、単純に遊んでいると思われているらしい。思えば、平民層においては入浴の習慣のない土地である。濡れるのを嫌がる猫の一般的な気性も、世間では未だ認知されていない。そこまで察して、レーニンは考えるのをやめた。濃密な湿気は不快だが、木桶に留まる限り濡れることはない。濡れなければ、耐えられる。風呂上りには一緒に連れて行って貰えるのだから、それを待つことにしたのである。性格と猫の扱いに難のある同居人だが、几帳面さは信頼に足る。
かくして、レーニンは人々を見守る概念と化した。質量と形ある、もふもふの概念である。
そんな猫型をした真理の一端に迫る者が居た。視認性抜群の髪色をした幼女である。水流に任せて漂流するうちに、この猫封印装置に接近するコースに入ったらしい。何にせよ、早期警戒線を超えたのである。レーニンは直ちに監視体制に移行する。特段脅威ではないが、恰好の暇潰し素材なのである。二本の尻尾を振りながら、三毛猫は漂流する幼女の動静を逐一観察する。
そうするうちに、動きがあった。茫洋と天を仰いでいた幼女の首が動き、俄かに三毛猫を収める木桶を指向したのである。髪色に反して水属性を湛える瞳が、監視体制にある小動物を捕捉する。漂流する幼女が針路を変えたのは、この直後のことである。ぐいぐいとこの木桶の方に近付いてくる。その一部始終を、レーニンは諦観と共に見守る。本音を言えば適度な距離をとりたいのだが、逃げ場はどこにもない。
間もなく辿り着いた幼女はじとりと木桶を覗き込み、中の三毛猫を検分する。腹を据えた三毛猫も、静かにその姿を見上げる。須臾の睨み合い。先に動いたのは幼女の方だった。
「強欲の獣? なぜ貴様がここに在る」
その言葉の端々からどうにもゆんゆんするものが漂うが、レーニンは委細気にせず、すっと前脚を伸ばして諸悪の根源を指し示す。電波の相手は同居人で慣れているのである。
対する幼女は三毛猫の堂々たる振る舞いに首を捻っていたが、やがて、そのもふもふした腕の先に荒ぶる妖精姫の姿を見つけて、得心したように頷く。
「なるほど、黄金妖精は使い魔を連れ込んだか」
その斬新な解釈に異論がないではないが、レーニンはにゃーんと鳴いて肯定を告げる。話が早いに越したことはないのである。ついでに、その興味の矛先を奇行が輝く同居人に向けて貰えるのが最良の展開だったのだが、残念ながら、幼女は纏わりつく視線でじっくりと三毛猫を見つめてくる。ヘイト管理に完全に失敗した格好である。さて、どうしたものか。ぬいぐるみの如く硬直しつつ、レーニンは思考する。
「使い魔なら、何か特別な力の一つでもあるだろう。強欲の獣は、その性分から財貨を見つけて溜め込むものとも聞く。その嗅覚はどのように養うのだ。我も金脈を見つけて金貨ざくざくしたい」
寝言を無視しながら硬直していると、幼女が木桶をがくがくして回答を急かしてくる。転んでうにゃんと丸くなった三毛猫は、仕方がないので前脚を伸ばして、同居人を指し示す。詐欺。美人局。脅迫。およそ小金を稼ぐことに関してはあちらの方が遥かに得意である。どうにも非合法な趣もあるが、その辺はレーニンの与り知るところではない。
「ざくざくしたい。したいのだ」
もっとも、幼女はがくがくと木桶を揺らし続ける。真摯ではあるが、少々回答が迂遠に過ぎたのである。その意が伝わらず、回答として認識されなかった。とはいえ、言語を持たぬ三毛猫がこれ以上の金策を示せるはずもない。仕方がなく、レーニンは耳と尻尾を畳み、まるい毛玉と化して振動する木桶を転がる。ドラム式洗濯乾燥機の予行演習の如き状況である。三半規管への打撃は大きい。あまり長くはもちそうにないと悲観的な見通しを得た頃である。不意に木桶の動きが止まる。
「イリス、なにしてるの?」
「うむ、強欲の獣に金脈の見つけ方を問ういていた」
木桶の底で伸びる猫を、二対の瞳が覗き込む。湯殿を回遊していた姉妹、その姉の方が合流したのである。一回り大きな彼女も青い瞳をしているが、こちらはどちらかというと空色である。
「強欲の獣って、この猫?」
「うむ。我と皆の贄を奪っていく忌まわしい獣だ」
「確かに油断も隙もないよね」
「そして、抜け目なく財貨を蓄える存在でもある」
「それは先生の作り話だと思うな」
「しかし、黄金妖精の使い魔で……」
「でも、猫よりあっちの方が金脈の権化っぽいよ?」
「言われてみれば、きらきらしている」
「ニルも言ってた。長いものには巻かれろって」
「金の切れ目が縁の切れ目。途切れぬ金は固い絆。アリア姉、我は理解したぞ」
固く両手を結ぶ姉妹を見上げながら、三毛猫も静かに頷く。その結論は論理的にも倫理的にもどうかと思うが、わかりあえたのなら、それはひとまず良いことであろう。少なくとも、背後で無為な水鉄砲の応酬を続ける人類と比べれば、幾らか建設的な態度である。
とはいえ、永遠に続く闘争というものもない。決着は着実に近付いていた。
不意に違和感を覚えて、レーニンは木桶から顔を出す。何かに引き寄せられるような、微かな加速度を感じたのである。うにゃーんと一鳴き、周囲を検分すると、その原因はすぐに明らかになる。同居人である。両手を天高く掲げた彼女は、湯殿から湯を吸い上げて、その手の間に巨大な水球を形成している。木桶10杯分を遥かに超える大質量の投擲を以って、相対する少年を完全粉砕する構えである。いつの間にかちょっとだけ低くなった浴槽の水位に、あの小娘の本気が垣間見える。
「待て、待て、お前それは流石に反則だろ?」
「魔術師が魔術を使って何が悪いと言うのですか」
「悪いに決まってるだろ! なんだよそのでかい水の塊。 殺す気か!」
「安心してください。非殺傷術式なのです。一応」
「ちょっと含みを残すのやめろ!」
横暴な同居人に抗議しつつも、少年はその手を休めず、水鉄砲による連撃を浴びせ続ける。しかし、覚悟を決めたらしい同居人は揺るがない。水球は更にその直径を増し、浴槽の水位は着実に低下を続ける。
「愚かなり、ジャン。素直に長いものに巻かれておけばよかろうものを」
同胞の危機を眺めながら、しかし、幼女の論評はこの上なく冷淡なものである。完全なる言行一致、裏表のない態度は形式的には誠実と評価しうるが、その実質はあまりに誠実とは程遠い。
そんな妹を、姉が窘める。
「だめだよ、イリス。大切な仲間を見捨てるような真似は」
「我は強い者の友であろうと決めたのだ。今は涙を呑んで損切りするところではないか」
「だめだめ。背中を任せられる仲間が居ないと、忍び寄ってきた輩からぷすりと刺されるんだよ」
「たしかに。甘い汁は啜りたいが、刺されるのは嫌だ」
清々しい正論である。レーニンもおいしいお魚を食べたいが、胸骨を締め上げられるのは御免である。
「しかし、あの愚か者を助う術などあるのか。相手は魔術師だ」
「助ければいいんだよ。あのお姫様をやっつけるわけじゃない」
「アリア姉、知っているだろう。我は水に顔をつけられない。荒事は無理だ」
「大丈夫、私に考えがある」
そうきっぱりと言い切ると、姉は木桶の中に佇む三毛猫をちらりと見遣る。意味深な行動である。うにゃと首を傾げる三毛猫をよそに、姉はこの小動物を収める木桶をまさぐり始める。何をしているのかと頭を上げると、その所業は間もなく判明する。木桶を係留するための重石、それを結ぶ縄をほどいているのである。猫には不可能だが、手先の器用な直立歩行猿ならば容易な芸当である。
間もなく重石は外され、漂流の自由を取り戻した木桶は湯殿をゆらゆらと漂い始める。それが流れてしまわないように両手で掴んだ姉は、そのまま木桶を持ち上げて、おもむろにひっくり返した。
やや遅れて、じゃぼんと大きな水音が響く。
「この桶でお湯をぶっかけて、お姫様が怯んだ隙にジャンを引き離すんだよ」
「ところで、棲家を追われた強欲の獣が睨んではいないか」
「ほら、よそ見しない。今はそんなこと気にしてる場合じゃないでしょ?」
「そうか。あの愚か者を救うのが先か」
姉に促されるまま、幼女は顔の半分まで湯につかり、そろりと少年への接近を開始する。その出立を見届けた姉も、奪った木桶を沈め、同様の仕草で同居人への接近を試みる。決戦は近い。その後ろ姿を、レーニンは鋭い視線で見送る。声は上げない。なぜなら、この三毛猫もまた、鼻の頭が水面に出ている程度の半水没状態だからである。にゃーんと鳴こうものなら、口から看過し難い量の水分が流入する。
せめて浴槽の縁にでも運んで欲しかったのだが、事ここに至っては仕方がない。レーニンはその四脚で水を掻き、ゆるゆると湯殿を泳ぎ始める。濡れることを嫌がる性分は、泳げないことを意味するものではない。時々プールに向けて猫を遠投する同居人をもつ関係上、水泳技能それ自体は必要なものである。
情勢が動いたのは、レーニンがようやく浴槽の縁に辿り着いた頃である。
振り返ると、丁度、赤毛の姉が行動を起こしたところだった。ばさりと立ち上がり、渾身の力をもって木桶の湯を同居人に叩きつける。妹の方が鯱の如く少年に襲い掛かったのも、ほぼ同時のことである。飛び掛かって押し倒し、波が引くように足を掴んで彼の身体を引っ張ろうとする。事前計画通りの見事な連携である。水塊の直撃を受けた同居人はぐらりと傾き、状況の変化に即応できない。
一見すると計略は順調に推移している。しかし、その実、彼女達は重要な事実を見落としていた。魔術の制御には、相応の集中が必要なものなのである。そんな局面で予期せぬ襲撃を受けるとどうなるか。
浴槽の縁に佇む三毛猫は見た。同居人の高く掲げた両手、その上に浮かんでいた水球が崩落する瞬間を。
驚いた同居人が魔術の制御を手放してしまった結果である。超常の理は失われ、水球の運動は純然たる物理、万有引力の法則に委ねられる。つまりは自由落下するのである。真下では術者たる同居人が浸水した軍艦の如く傾いているのだが、重力加速度はそんなものを顧慮しない。次の瞬間、水塊は同居人を押し潰し、高く上った水柱がその姿をかき消してしまう。胸のすくような景色である。悪はここに滅びた。その感慨でレーニンの胸中はいっぱいになる。
もっとも、事態は未だに進行中である。解き放たれた重力ポテンシャルの暴力は、同居人を餌食にした程度では収まらない。湯殿に叩きつけられた水球の運動エネルギーは、津波に転じて四方に伝播する。
最初の犠牲者は、事態の引き金を引いた赤毛の姉である。近すぎたのだ。木桶で湯をぶっかけた、そのままの姿勢で奔流に呑み込まれた。その次に、少年が呑み込まれた。大事はない。足を掴まれているせいで最初から溺れていた。彼の足を引っ張っていた赤毛の妹の方は首尾よく危機を脱した。重荷を手放して逃げに徹したからである。それから、遠巻きに事態を見守る大人達に至る頃には、波はすっかり勢いを失っていた。精々、顔に湯がかかって驚く程度のものである。特に健康上の障害を生じさせるものではない。
レーニンはといえば、津波に流されて、そのまま浴槽の外に押し出された。床をぐるぐると転がること数度、全身をぶるぶると振るって水滴を飛ばす。そして、眼を開いてまっすぐ前を見つめる。
そこには、神妙な顔でダークエルフの胸を揉むサーラの姿があった。いつまで揉んでいるつもりなのか。三毛猫はとてもとても残念な気分になった。




