兄と妹
魔術の驚異を讃えるべきか、それとも、その奇跡の御業を道具主義的に使い倒す同居人を讃えるべきか、一介の三毛猫風情にはどうにも判断しかねる話だが、製鉄所敷地内に設けられた居留地での生活は日々漸次的な改善を続けている。先日、遂に上水道の整備が始まった。風車動力を用いて地下水路から水を汲み上げ、濾過器を通した後、配管を通じて所内各所に生活用水を送る仕掛けである。水圧源は単純に汲み上げられた水の位置エネルギーを利用する。
この大がかりな仕掛けにおいて、同居人は設備設計の他、重要部品たる配管類の製造設置を担当した。相変わらず、魔術でやりたい放題なのである。大量に買い付けてきた粘土を流動体操作魔術で任意形状に成形し、加熱魔術で連続的に燒結作業を行うことで、複雑かつ長大な構造を持つ焼物部品を短期間に作る手法を発明した。最早、人力3Dプリンタの様相である。その器用という域を超えた所業に、傍観者たる三毛猫としては、素直に賛辞を送るよりほかはない。
そんな驚異的なインフラ構築能力を有する同居人からすれば、大抵の場所が住めば都なのである。相変わらず焼物ハウスの中身は狭苦しいが、今や不満と言えばその程度のものである。三毛猫からすれば、猫大好き金獅子スィール君の相手が面倒とか、相変わらず自然体で猫を殺しに来る白獅子フォス君が怖いといった悩みもあるが、この辺は元より同居人が関知する問題ではない。
だから、同居人が唐突に王城に舞い戻ったのは、別に、彼女の意向ではないのである。
端的に言えば、ディート姫からの勅命である。巨大な城の奥に押し込められているあのお姫様は、退屈を紛らわせてくれる同居人の不在に耐えられなかったのである。もふもふ欠乏による同居人の禁断症状と似たようなものだろうか。せめて安息日くらい城に戻って来いという要求を、お姉様には妙に素直な同居人が拒むはずもなく、かくして、同居人は久方ぶりに王城の私室に戻ったのである。
「しかし、どうして僕まで?」
そんな豪奢な部屋の片隅で疑問の声を上げたのは、同居人と一緒に戻ってきたエリオである。片隅に置かれた姿見を睨みながら、いかにも浮かない顔をしている。
実のところ、彼がここに居ることそれ自体には何の不思議もない。表向きには同居人の世話役という設定である以上、同居人に随行することは当然のことだからである。だから、彼の疑問は別のところにある。
「神父様は海辺に留まっているんだし、こんな恰好をする必要はないと思うんだけど」
「お姉様の要望なので私にはどうにもできないのです。それに、似合っているのです。問題ありません」
「それはありがとう……って言ってもいいのかな?」
「いいのです。大丈夫なのです。かわいいともふもふは正義なのです」
毅然たる同居人の返答に、エリオは溜息ひとつ、がっくりと肩を落とす。見た目は麗しい姫君だというのに、何とも喜劇的な仕草である。そんな姿を、ふかふかの絨毯を転がる三毛猫はそっと見上げる。
そう、姫君なのである。眩い白と淡い萌木色を基調としたドレスはフリルとリボンを多用した重厚長大装飾過多な正規仕様で、いかにも少女趣味的な外観を呈している。袖も裾も極めて長く、その布地面積故に肌色指数は極めて低く抑えられているが、暑さ対策なのだろう、その生地は仄かに肌が透けて見える程度に薄い。同居人に負けない程度に細い二の腕や脚部の輪郭を微かに窺うことができる。
思えば設定上の要請より、普段からメイドの仮装をしているのである。既成事実は既に積み上がっている。傍から時局を見守る三毛猫からすれば、何を今更という思いもあるが、それでもその心中は察して余りある。これで、衣装が本当に似合っているのだから、皮肉というより他にない。同居人がもう一度、「やはり似合っています」と告げると、少年は顔を赤くして固まってしまった。
もっとも、そんな鬼畜の所業に及ぶ同居人も、全くの無傷というわけではない。
見た目は良いのだ。白いブラウスと淡い萌木色のベスト、膝丈程度のキュロットという構成は、同居人が要求し続けていた身軽な服装の要求を一応満たすものである。エリオの衣装とは、同じ生地から作った別のデザイン案という関係で、同居人はこちらを選択した。逆の選択ならば、少年の心の傷も若干和らいだのではないかと見られるが、同居人は非道である。現実はそうならなかった。
かくして、外観上は完全勝利を収めた同居人だが、内面では妥協を強いられた。正確に言えば下着の中身である。あの長耳に内在する脆弱性故に、ディート姫と相対して同居人の尿道括約筋は用を為さない。その結果生ずる事態への予防措置として、おむつの着用を求められたのである。
流石に、同居人もこれには難色を示したのだが、一計を案じたサーラが同居人の長耳を甘噛みし、案の定、膀胱の内容物を駄々漏れさせるに至って、完全に反論は封じられてしまった。目撃者たる三毛猫としては、論より証拠という諺を最悪な形で見せつけられた思いである。
ちなみに、この場における真の覇者たるあの駄メイドは、つい先程までその成果を満足気に眺めていたのだが、突然、鼻のあたりを押さえてどこかに駆け出してしまった。因果応報である。サーラの帰還を待って時間を潰していた二人の姫君だが、目的地はどうせ勝手知ったる王城の中である。衣装とちょっとした手荷物の最終確認を終えると、待ちきれなくなった同居人は移動を開始する。一人置いて行かれてはたまらないと、エリオがこれに追随した。
彼らが目指すのは、王城内に点在する庭園のひとつである。そこでディート姫主催の茶会が開かれる。思えば、同居人を籠絡した陰謀の場も茶会だった。だから、どうにもレーニンはあのお姫様が茶会ばかりしている気がしてならないのだが、これは強ち的外れな見解でもない。王族である以上、軽々に外出などできないのだ。暇を持て余す彼女は、城内で茶会を催すより他にすることがないのである。
「しかし、これ、歩き辛いね」
「だから、こちらにしたのです」
「賢明な判断だね」
しれっと酷いことを言ってのける同居人だが、いい加減、この少年も慣れたものらしい。眉ひとつ動かさず、さらりと流すと、今度は三角形がどうこうという話を始める。未だに続けている数学問題演習の話題である。数字回りには何か思い入れのあるらしい同居人は当然の如く振られた話題に食いつく。猫には理解し難い会話を交わしながら歩くうちに、二人は目的地へとたどり着いていた。
「つまり、世界は基本的に波だらけなのです」
「一体どこの世界だ、それは」
唐突に口を挟んできたのはエリオではない。年の頃は同じだが、蜂蜜色の巻き毛と翠玉の瞳を持つ少年である。誰だこいつという感じだが、幸いにして、レーニンには見覚えがある。王国王位継承権第一位、ディート姫の弟にあたるレオ王子である。ちょっと勇ましい名前だが、実物はお子様なので、ぷちレオ君とでもするのが適切だろうか。
「相変わらず嘘か真かわからないことばかり言う奴だ」
「恐らく真実だと思うのですが、確認する施設の整備に150兆リーン程必要なのです」
「清々しい金の無心だな。しかし、それだけあればライデールが丸ごと買えないか?」
「あの国はもっと安く買い叩けるのです」
相変わらず、些かも動じることなく寝言をのたまう小娘である。そんな彼女に、ぷちレオ王子は大仰に首を振ると、もう一人の姫君、エリオの方に向き直る。意味不明な異界の妖精姫は放置の構えである。
「で、こっちの娘は?」
「あっ、あああ、あの……」
王子としては至極当然の疑問ではあるが、唐突に矛先を向けられても困るのである。エリオは頬を赤くすると、同居人の背中に隠れてしまう。そんな彼の羞恥とは裏腹に、同居人はあくまで平静である。
「私の秘書官、エリオなのです」
平静なので、事実を端的に述べてしまう。
「あれ、お前の秘書官って確か……」
「概ね、貴方の想像通りだと思います」
「すまない。姉様が、本当にすまない……」
流石は弟と言うべきか、皆まで言わずとも事態の様相がわかってしまったらしい。そっとエリオの手を取ると、王子は頭を下げる。姉とは異なり、その感性は至って常識的であるらしい。しかし、外観に惑わされているのか、その所作は貴族の令嬢に対するそれである。真っ赤になってしまったエリオは、そのまま動かなくなってしまう。
「ところで、貴方の想像ですが、ここだけの話にして頂けると助かります。ええと、先日の光の柱の件は、まだ記憶に新しいですよね?」
「お前、本当にいい性格してるな」
そんな最中にあっても、同居人は至って平常運転だった。
エリオをどうにか宥めた一行は、ぷちレオ王子の案内に従い、茶会の会場へと赴く。具体的には、王子がエリオの手を引きエスコートするその後ろを同居人が黙って追従する形である。更にその後ろを、油断なく安全距離を保ちながら、三毛猫が追尾する。下手に同居人に接近して、その胸骨を無為に脅かされるのは本意ではないからである。
今回の庭園は、子供が駆け回るのに適した芝生と、その縁を画する低木の生垣からなる素朴な構成である。その片隅に石造りの東屋が置かれており、そこが最終目的地となる。何と言っても、遮るものがないから良く見えるのだ。東屋の中で既に待機しているディート姫が暢気に来訪者を見守る様まで、仔細に確認することができる。お陰で、瀟洒な東屋がレーニンにはどうしても伏魔殿に見える。
否応なく背筋が震える。しかし、それを圧して、三毛猫は地面を蹴り、駆け始める。
目指すはディート姫の膝の上である。君子危うきに近寄らずの鉄則を崩して、自らあの籠絡と堕落の魔女に挑むには相応の理由がある。いい加減、同居人が骨抜きにされ過ぎているのである。あの小娘自体がどうなろうとレーニンの知るところではないが、彼女の政治的ポジションの低下は、巡り巡って、この三毛猫の優雅な食生活を脅かしかねない。そのような展開は断じて回避されなければならないのだ。
同居人を大きく迂回して、三毛猫は全力で疾走する。幸いにして、直立歩行猿人共はこの小動物の計略など知る由もない。唐突な行動も、動物のすることだからと気に留める素振りも見せない。
かくして、難なく諸悪の根源に辿り着いた三毛猫は、東屋に作りつけてあるベンチに飛び乗ると、にゃーと優雅に鳴いて挨拶する。流石に、唐突に飛びついて嫌われるような真似は避けねばならない。あくまで平和裏に膝上に進駐し、そこを占有することで同居人が甘えるのを阻止しなければならないのだ。
「あら?」
暢気なお姫様は、そんな珍しい来賓に首を傾げると、静かに、しかし、有無を言わさず腕を回し、その小さな体躯を抱え上げようとする。予想外に積極的な行動である。思わず飛び退いて逃げ出したくなる心を意思の力で押さえつけ、三毛猫は努めてされるままにする。幸い、ディート姫は特段猫に害意があるような人物ではない。抱擁の加減は適切で、同居人のように無暗に胸骨を締め上げたりはしなかった。
「なるほど、これがもふもふなのですね」
何かに感心するお姫様の胸元で、密かにレーニンもその大きな胸の柔らかさに感心する。鉄板のように硬く平らな同居人の胸部とは大違いである。そんな感慨に浸っていると、ようやく歩みの遅い直立歩行猿人御一行が東屋に到着する。不躾な三毛猫を見止めて、ぷちレオ王子が口を開く。
「姉様、それは一体」
「ヴィオルの猫の、レーニンちゃんですわ」
ご紹介に与り、三毛猫もにゃーんと優雅に挨拶する。しかし、何故か王子様の視線は厳しい。
「猫の躾くらい、きちんとしたらどうなんだ」
「猫は自由なところが良いのです」
「まあまあ、初めて近くに来てくれたのですわ。私もつい嬉しくて」
不和を気取ったのだろうか、ディート姫がそれとなく宥めに入る。それは良いのだが、神妙に王子様を眺めて大人しくする三毛猫は、その内心で大きく震える。同居人のおまけに過ぎない小動物である。意識の蚊帳の外に置かれているだろうと高を括っていたのだが、存外動向を記憶されている。
「それにしても変な猫だな。動かなくなったぞ」
「そういう、理解し難いところが良いのです」
「お前みたいだな」
「そう褒められると照れるのです」
表情に動きの全くない同居人である。淡々と照れると言われても俄かには信じ難い。煽っているとしか思えないその言動に、ぷちレオ王子の額に青筋が浮かぶのがよく見て取れる。脳溢血が心配である。
それでも、レーニンにとって好都合なこともある。この王子様がさり気なく経路を封鎖し、お姫様に同居人が近寄ることを阻止しているのだ。これで、この小娘の尊厳が二重に護られていることになる。
「それはそうと、そろそろお茶にしましょう」
とどめとばかりに、お姫様が着席を促し、席が確定する。ミッションコンプリートである。その胸元で寛ぐ三毛猫に金色の鋭い視線が突き刺さるが、小さくにゃーと一鳴き、そっぽを向くことで対処した。
円形の東屋は、中央の円テーブルを挟んで、二つの湾曲した長椅子が対峙する構造となっている。その片方にぷちレオ王子と同居人が、もう片方にエリオとお姫様が座る形となる。どうにも不穏な気配が漂う配置だが、茶会の雰囲気それ自体は穏やかなものである。お姫様が暢気に微笑んでいてくれるところも大きいが、エリオの功績も小さくない。
「本当に可愛いのですわ」
「は、はい。ありがとうございます……」
ディート姫の賛辞に、少年は小さな声で礼を述べる。いかにも恥ずかしげだが、その賞賛自体は満更でもないらしい。赤面したまま俯く彼の頭を、お姫様はよしよしと撫でている。本来ならば抱き締めたいところなのだろうが、今は三毛猫という先客が居る。故にこの程度で収まっているのだが、これが幸いかどうか、正直なところ三毛猫にはよくわからない。
何にせよ、お姫様はお楽しみなのである。ぷちレオ王子も同居人も、これを口論で邪魔立てするほど愚かではない。仲良く黙って茶を啜りながら、エリオの初々しい所作を眺めている。
それでも、流石に耐えられないものがあったのだろう。ぷちレオ王子がぽつりと漏らす。
「しかし、いいのか? このままで」
「いいのです。他人の趣味に口を挟むのは無粋ではありませんか」
「お前なぁ。まあ、わからなくもないけれど」
そう言って、王子様はおもむろに茶を啜る。同居人もこれに続いた。
ちなみに、薄味好みの同居人には、専用の茶器が用意されている。金属製給湯器の上に濃く煮出した茶の原液を収める小容器を載せた、いわゆるサモワールのような構造をもつ器具である。使用時には原液を適当に湯で希釈する。元より好みの繊細な小娘である。どうやら、ディート姫としてはセルフサービスで片付けて処理してもらうのが合理的という結論に至ったらしい。
「幾らなんでも、ちょっと薄くないか?」
「このくらいで丁度良いのです」
同居人の適量は、原液一滴に対してカップ一杯分のお湯である。最早、ただのお湯なのだが、同居人にはこの違いがわかるらしい。無駄に高性能な舌である。
「わからん」
ごく正常な感性をもつ王子様は首を捻る。三毛猫も、同調するように首を捻った。
そんなぎこちない遣り取りを交わすうちに、孤立無援でディート姫の大攻勢を受けていたエリオは遂に赤くなって完全停止を迎えてしまう。何とも不憫な景色だが、それを憐れむ余裕はない。このお姫様の矛先が早速もう一人の姫君、同居人へと向かうことになるからである。
にゃーんと一鳴き、三毛猫はディート姫に甘える。優雅な食事のために、この場所は絶対に死守されなければならないのである。お姫様に媚を売る合間に、決意を込めて、同居人の金色の瞳を睨み返す。
この断固たる意思表示が通じたのか、同居人は俄かに動きを見せる。持参した手荷物の中から、ちょっとした機材を取り出したのである。上辺が弧を描く木造の筐体、その曲面部分に開けられた穴からはガラスの筒が5本ほど天に伸びている。裏側に布の張り付けられたスリットの下側では、左右に一つずつ取り付けられたダイヤル状のつまみが、黄金色の輝きを放っている。
これが何かと言えば、ラジオである。トランジスタ普及以前の、真空管を用いたクラシカルな外観のものである。先日作った試作品を拡大発展させた代物であるらしい。真空管の使用数が増えている。
「何だこれは」
「遠くから、若干特殊な方法で送られてきた声を聴く装置なのです」
「何だその煮え切らない表現は」
「つまり、電波なのです」
「でんぱ?」
未知なる語彙が登場し困惑する王族二人をよそに、同居人は手荷物の中からお馴染み、林檎印の携帯音楽機器を取り出す。もっとも、通常の仕様ではない。その平らな機材のイヤホンジャックに、プラスチック製の箱状機材が取り付けられている。カーステレオに接続するための、小型無線送信器である。
「こういうものは、触って感じた方が早いのです」
百聞は一見に如かずである。そんな教訓を垂れながら、同居人は静電容量式タッチパネルの上で指を滑らせる。その操作の結果は、瞬く間に反映された。アンテナに捉えられた電波は検波回路を経て信号となり、真空管にて増幅された後、水晶振動子を駆動させ、空気の振動として出力される。
『臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日、午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり』
よりにもよって、太平洋戦争の勃発を告げる大本営発表だった。
「箱から声が出てきましたが……あめりか? いぎりす?」
「悪辣な毛唐共を東洋から叩き出す聖戦の開始を知らせる記録音声です。こんな風に、この箱があれば、国家の重要な出来事を瞬時に、遍く民草に知らしめることができるのです」
相変わらず、しれっと毒を吐いて見せる同居人に、三毛猫は首を捻る。内容云々以前に、外見上一見明白に西洋系である同居人がそんなことを言い始めているのである。おまいうである。この小娘は本当にその意味を理解しているのだろうか。三毛猫は不思議で仕方がない。
とはいえ、その辺は地球に縁のある者にしかわからない機微でもある。だから、同居人の語る幻想のイースタシアしか知らない王子様は委細気にすることなく、こんな牧歌的な問いかけをしてくる。
「お前の作った、何だっけ、あのでんわとかいうものでは足りないのか?」
「少々用途が違うのです。一方的に声を送るだけなのでお話はできないですが、その分、この箱がたくさんあれば、その分だけたくさんの人に声を届けられるのです。マスメディアとか言うやつなのです」
『ロンドン、ニューヨークでの株高を受け、今日の東京市場も値を上げて始まっています。世界の景気基調回復への期待から、輸出関連銘柄を中心に買いが集まり、午前の終値は取引開始時より305円60銭高の18510円83銭となっています』
同居人が手早く機材の操作を終えると、今度はお昼の経済ニュースが流れてきた。同居人は何がしたくて、こんなものをライブラリの中に突っ込んでいたのだろうか。見守る三毛猫の疑問は尽きない。
「何だこれ」
「商いで重要な相場情報を伝えている記録音声なのです」
「麦の値段とかじゃないんだな」
ぽつりとぷちレオ王子が感想を述べる。今は小さいが、彼は将来の施政者なのである。教育は既に始まっているようで、穀物相場の重要性についても聞き及んでいるらしい。
興味深い薀蓄も出てきた。現在、魔王軍の侵攻によって国土が分断されているライデールでは、その東西で深刻な穀物価格差が生じているという。主要な大都市が多数存在する西部では価格が高騰する一方、一大穀倉地帯である東部では、消費市場から切り離されてしまった結果、穀物に値がつかない状況が続いている。漁夫の利を得ているのがこのレンブール王国である。東西の物資輸送を中継することで利鞘を稼いでいる他、安く輸入した麦で食糧備蓄を形成している。
そんな話を王子様はドヤ顔で披露してくれたのだが、これに同居人は「予想の範囲内なのです」と涼しく応じる。近時はもはや思い出すことも困難になってきたが、一応は王国の勇者様であり、王立第二常備軍設立準備室室長、つまり、軍部の親玉なのである。いつの間にか耕地面積からの生産量予測、流通経路、消費動態に関する分析を進めていたようで、その結果を常の如く幻影魔術による図表で示して見せる。
王国の海上輸送能力自体、この穀物の大量輸送という難事の前に十分とは言い難いが、それ以上に深刻なのは帝国内の陸上輸送網の混乱である。詳細は不明だが、中継物流拠点間で輸送が滞っており、結果として倉庫に荷物が積み上がっている。どうやら輸送を集権的に取り仕切る組織がないらしい。その帰結として、特に海から遠い北の内陸部で在庫が溢れているのである。値崩れするのも必然である。
もっとも、同居人の示した図表には、その内陸部から何故か魔王軍占領下にあるイルヴェアに向かう経路が示されている。レーニンはそれがどうしても気になるのだが、この点について、同居人は特に言及を行わなかった。ぷちレオ王子の面目を叩き潰すという目的は達成したからである。
この所業に、王子様は歯を食いしばり、険しい表情で耐えている。やはり脳梗塞などが心配でたまらなくなる様子だが、癇癪を起こさないのは王器の片鱗といえる。賞賛されて然るべき態度である。そして、涼しげな顔で勝ち誇っている同居人は大人げない。
しかし、恐ろしいのは、そんな不和を穏やかな笑みで眺めるお姫様である。曰く、「仲が良いですわ」とのことである。思わず真上を見上げた三毛猫は、ぶるりと震えると目を逸らす。この翠玉の瞳に映る世界は、一体どんなものだろうか。あの金色の瞳に映る景色と同じくらい、知りたくない。
──Johnny, get your gun, get your gun, get your gun.
──Take it on the run, on the run, on the run.
そうこうするうちに、ラジオから今度は軽快な歌声が流れ始める。アメリカ語である。実際、米国の歌なのだから、アメリカ英語に決まっている。Over There、元々は第一次世界大戦参戦時に戦意高揚のため作られた曲である。広い意味で言えば軍歌の類に属する。
「時事の報せだけではなく、娯楽のための音楽を配信することも可能なのです」
「ところで、これは一体何を謳う歌ですの?」
「概ね、海を超えて、敵を殴り倒しに行こうという内容なのです」
「全く豪気だな。英雄か何かか?」
「確かに英雄の類だと思いますが、200万人以上居たのです」
「……数がおかしくないか?」
「総力戦ですので」
しれっと言い放った同居人は、早速、幻影魔術で欧州の地図を展開する。列強の全面軍事衝突、その規模を視覚的に感じ取るためである。しかし、これは茶会でするような話なのだろうか。レーニンがうにゃーと唸って訝しんでいると、ディート姫が常の如く、ゆったりと問いかける。
「まあ、総力戦って?」
興味津々である。全く問題なかった。
「国家の全ての資源を投入して行われる、全面戦争の形態なのです」
「まあ、素敵ですわ」
それどころか、朗らかに戦争狂のような台詞を吐いてくれる。このお姫様、本当に大丈夫なのだろうか。そんな三毛猫の不安が伝わったのか、ぷちレオ王子が間髪入れずに補足してくれる。
「姉様は叙事詩とか、そういうのが好きなんだ。英雄が戦場で筋肉をぶつけ合うようなやつ」
銃後で留め置かれるお姫様が、あまり戦争の実態に通じているはずもないのだ。戦争という営みに、何らかのロマンティシズムを見出しているらしい。大きな胸の温もりを感じながら、彼女に抱かれる三毛猫は思い出す。詩歌を愛するお花畑という事前評が、そういえばあったのだ。結果として、それは全く正しかった。ただ、詩というのが英雄叙事詩の類で、歌というのが軍歌の類だっただけの話である。
──Over there, over there,
──Send the word, send the word over there.
このBGMも、一面では戦争の正義とロマンを煽っている。しかし、その割に、同居人が語り始めた内容には全く華がない。当然の事理である。それは当初の戦争計画が破綻し、機関銃の猛威に阻まれながら泥沼の塹壕戦が続く陰惨な話なのである。日に数千、或いは数万の人間が死んでいく途方もない生命の浪費に、名誉も栄光もありはしないのだ。
王族二人の表情がマルヌ会戦の後、戦争終結の道筋を見失った将軍たちのよう曇って行くのに従い、三毛猫はおもむろに顔を背ける。お姫様の猛攻により撃破されたエリオを眺める方が、まだ気楽だからである。そもそも、この少年はいつまで動作を停止しているのだろうか。そんなことを思いながら眺めていると、不意に、俯く彼と視線が合う。既に幾らか回復しているらしい。どうやら、彼はこのまま大人しくしていることで、この混沌とした茶会をやり過ごそうとしているのである。
そんな間に、同居人の話は妙な方向に大転回を見せる。塹壕陣地の構築と運用について論説していたかと思えば、今度は何故か開戦劈頭、東部戦線におけるタンネンベルクの戦いに言及している。ディート姫向けに、英雄譚を強調する方向に舵を切ったらしい。塹壕戦はどこかに消えた。
しかしながら、お姫様が求めているのは英雄的な決闘、そして、筋肉なのである。指揮統制などという技巧的な話は、およそ彼女の求めるところではない。そこで同居人は、話の矛先を航空機の運用へと向ける。泥沼の陸上とは異なり、空は個人技能が大きく作用する、天駆る騎士の戦場だからである。筋肉分は足りないが、そこは機力で補った。王子様も空物には心惹かれるようで、一石二鳥だった。
──We'll be over, we're coming over,
──And we won't come back till it's over, over there.
「ところでエリー、寝たふりなどしているとお茶が冷めてしまいます」
「ああ、いや、寝たふりなんて」
赤い男爵の活躍で形勢を盛り返した同居人は、余裕のあるうちに、エリオの企みを挫くことも忘れない。流石にそろそろ、王族二人の機嫌取りに疲れてきたのだ。代われという断固たる意思表示である。
それは同時に、三毛猫に臨戦態勢への移行を促すものでもあった。相変わらず、同居人はお姫様の膝上を狙っているのである。虎より恐ろしい金色の瞳が炯々と光る。まるで嵐の到来を告げる死告鳥、攻勢前準備射撃を見守る観測機のように冷酷な観察である。思わず、レーニンは身震いする。
それでも、今回ばかりは心強い味方がいる。空物話を喜びつつも、同居人の挙動に油断なく目を光らせているぷちレオ王子である。
「おい、変な気は起こすなよ」
邪悪な小娘の策動を看破したのか、しっかりと釘を刺そうとしてくれる。
「より効果的な位置を占めるために行われる機動は重要な戦術的行動なのです。将来、一軍を率いるつもりなら覚えておくと良いでしょう」
「いや、この場合、それを変な気って言うんだよ」
誤算があったとするならば、この同居人は簡単に釘が刺さるほど柔らかくはなかったことだろうか。堂々と制止する王子様に、「良いではありませんか」と怜悧に告げる。明らかに煽っている。ここまで続いた忍耐も、流石に限界だったのだろう。語気強く、ぷちレオ王子は要求する。
「いいから大人しくしろ。兄者の言うことは聞くものだ!」
「えっ、兄様なのです?」
「そうだ!」
王子は威勢よく言い切る。三毛猫も初耳の新事実が飛び出したが、これが存外同居人に効いた。相変わらず表情には些かの変化もないが、その金色の瞳は「貴方は正気なのですか?」と雄弁に語っている。何にせよ、同居人の動きは止まった。
「何だよその目は。お前は姉様の妹なんだろう? なら、僕の妹でもあるに決まっているじゃないか」
「それはおかしいのです。未定義のはずなのです」
「お前が妹になる前に、僕は弟だったんだ。何もおかしくない!」
察するに、この王子様は兄妹関係成立の先後を以って決定すべしと主張しているのである。関係構築時基準説とでも呼ぶべきか。事態を見守る三毛猫には、単純に年齢でソートすれば足りる気がしてならないのだが、その辺は見解の相違というやつである。暦の構造が一致しない異世界人が相手では単純な年齢比較はできない以上、或いは合理的な解決かもしれなかった。
暫く考え込んでいた同居人の方も、一応の結論をみたらしい。静かに、こう問いかける。
「兄様、なのです?」
「そうだと言っている」
「じゃあ、兄様なのです」
あっさりと、ぷちレオ王子の主張を全面的に認容した。
「わかったなら、ちゃんと兄者の言うことをだな」
「兄様は可愛い妹の願いを拒む、狭量で吝嗇な兄様なのですか?」
「可愛いとか自分で言うか……?」
「姉様の御許に行きたいのです」
「だめだ。お前はちょっと、その、姉様にくっつき過ぎなんだ」
「では、姉様の代わりに膝枕をして欲しいのです」
「はあ?」
「やっぱり吝嗇なのです?」
そして、流れるように主導権を取りに行く。
「レオ。妹に辛く当たるなんて許されないことですわ」
「ねっ、姉様まで」
更に、ディート姫が同居人支持の立場を明確にしたことで、情勢は完全に決した。ぷちレオ王子は兄の立場を取得し、同居人への包括的な指揮監督権能を得ようとしたのだろうが、その策動が裏目に出た格好である。彼は不承ながらもその膝上を明け渡し、同居人は当然の如くそこに頭を乗せる。物理的には地味な景色だが、一国の王子の膝を枕にしているのである。紛れもなく同居人の完全勝利だった。
「しかし、兄様はどうしてそう、姉様の御許へ赴くのを邪魔立てするのですか?」
東屋備え付けの長椅子に悠然と寝転がりながら、同居人が問いかける。勝利者の余裕漂う、何とも挑発的な態度ではあるが、疑問それ自体は正当なものである。レーニンも、どうして彼が同居人の尊厳と猫の食生活を護る戦いに助力してくれているのか、結局のところよくわからないのだ。
「いいだろっ、別に、ただなんとなく嫌なだけだ」
「やはり、兄様は吝嗇なのです?」
「そうじゃない! ただ、その、ここに来たばかりのお前が姉様と親しすぎるから……」
「なるほど、ただのシスコンでしたか」
「なんだそれ」
意味はわからないが、辛辣な評価であることは伝わったのだろう。眉を顰めたお兄様がその意を問おうとするが、同居人は答えない。代わりに、持参した手荷物に手を伸ばした。作り付けの長椅子に寝転がった姿勢だから、いかにも行儀が悪い。堂々と虚仮にされて、ぷちレオ王子もいい加減、怒り狂いそうな気配なのだが、冷静な同居人は全く意に介さない。鈍感力である。
そんな彼女が悠然と取り出したのは、どうということはない、ただの切り株である。
「なんだこれ」
「切り株なのです」
「いや、それはわかるが」
何の意図でそんなものを取り出したのか、まるで意味がわからない。
「どうするんだよ、こんなもの」
「見ていればいいのです」
そう答えるや否や、同居人の掲げる切り株に変化が生じる。その表面に、突然切れ込みの線が出現したのだ。察するに、同居人の切削魔術である。しかし、奇妙なのは、普段のような光条が見られないことである。可視領域外の光を用いているのだろうか。いよいよ手口が産業用工作機械じみてきた。
切断加工は瞬く間に完了し、同居人は淡々と切り離された端材を取り除く。中から出現したのは、端的に言えば飛行機である。エンジン4発の大型な機体で、細長い主翼にはそれなりの角度の後退角がつけられている。一見してわかるのは、それが民航機の類ではないことである。やけに胴体が細く、旅客にせよ、貨物にせよ、容積が足りているようには見えない。
「ひこうきか」
「Tu-95という爆撃機なのです。条件が許せば、これひとつで幾つもの街を消滅させられるのです」
「はあ?」
「核兵器の搭載が可能ですので」
淡々と雑な解説を加えながら、同居人は尚も作業を続ける。何か物足りないと思えば、プロペラがついていないのである。同居人は大きな端材のひとつを手にすると、そこから手際よくプロペラ部品を切り出していく。二重反転プロペラなので、部品数は合計8個となる。中央はリング状になっていて、これを予め本体側に設けられた軸棒にはめこむと、くるくる回せる仕掛けである。
最後に、コーンのような部品を軸にはめ込み、プロペラ部品が脱落しないようにすると、木彫りのTu-95が完成する。各部の最終確認を終えると、同居人はその置物をお兄様に押し付ける。
「あげるのです」
「おっ、おお、ありがとう?」
唐突な展開に戸惑いがちながら、ぷちレオ王子はこの贈り物を受け取った。
狐に化かされたような顔の王子様だが、実際に化かされているのである。物を贈られて、それでも荒ぶることのできる剛の者はそうはいない。散々ぷちレオ王子を弄んだ同居人は、この珍妙な置物を押し付けることで、その負債をあっさりと帳消しにして見せたのだ。一部始終を目撃した三毛猫はうにゃと唸る。
一仕事を為し終えた同居人は、尚も長期消耗戦を避ける手段としての戦略爆撃や、それに対する防御手段としての戦闘機の運用を説いていたが、やがて本当に疲れたのか、すやすやと寝息を立て始める。そんな彼女の頭を、ぷちレオ王子はぎこちない動作で撫でていた。
「本当に勝手なやつだ」
「でも、素直なのはいいことですわ」
「姉様、これは素直というのとは違うと思う。お前もそう思うよな」
「えっ、あっ、はい?」
唐突に話を振られて慌てるのは、のんびり茶を啜っていたエリオである。いつからそこが安全圏だと錯覚していたのだろうか。同居人も大概だが、この少年も詰めが甘い。
引き際を知る三毛猫はにゃーと長く鳴いて、ふるふると身体を揺らす。ディート姫に身柄の解放を求める合図である。同居人が昼寝を始めた以上、レーニンがこの鉄火場に留まる理由はない。お姫様に抱かれているのも存外悪くはなかったが、やはり危険からは距離を置きたいというのが本音だった。
ディート姫は色々とアレな人だが、決して察しが悪いわけではない。最後に頭を撫でると、そっと長椅子の上に身柄を解放してくれる。そんな動向を目聡く察知したぷちレオ王子が、何故か真顔で手招きしていたが、三毛猫は同居人ほど安くはない。ぷいっと顔を背けこの要求を一蹴、東屋の外に飛び出した。
「むう、この猫、飼主より手強くないか」
「猫は気紛れなものですわ」
「賢い子なんですが、それだけにちょっと気難しいところがあります」
「やっぱり飼主に似るんだな」
聞き捨てならない一言に、レーニンは二本の尻尾をぴんと立て、努めて鋭い視線で王子を睨む。にゃーと低く鳴いて、不快感を伝えることも忘れない。物静かで思慮深く、謙虚なこの小動物を、あろうことか、同居人の如き性悪小娘と同列に扱うとはどういう了見なのだろうか。恥を知るべきである。
「えっ、怒った?」
「ほら、可愛い妹を悪く言うからですわ」
「いや、多分、そうではないんだと、思います……」
「じゃあ、どうしてなんだ」
「恐ろしくて、僕の口からは」
公式に猫の世話係の地位にあるエリオだけは荒ぶるこの小動物の意を正確に推し量れたようだが、彼も彼なのである。気難しいとは何事か。人間には言ってはいけないことがある。なお、猫にはない。
もう一度ぷいと顔を背け、三毛猫が立ち去った後も尚、茶会は続く。
何を話しているのか、低木の作る木陰に潜り込んだ三毛猫にはもう知ることは叶わない。ただ、あの同居人が昼寝を決め込んだ以上、特に剣呑な話にはならないはずである。それを裏付けるように、時折、穏やかに談笑する声が三毛猫の鼓膜を震わせている。
しかし、エリオは気付いているのだろうか。三毛猫が立ち去ったことで、今やディート姫は完全なフリーハンドを手にしているのだ。本来ならば彼女の最優先目標となる妖精姫はぷちレオ王子にしっかりと確保されており、適当な囮となりうるような相手は存在しない。お姫様の欲望を受け止める者は、今や彼一人だけなのである。安全保障上、極めて危機的であると評価せざるを得ない状況にある。
とはいえ、そんなことは三毛猫にとって全くの他人事である。だから、案の定、東屋の方から悲鳴が聞こえてきても、レーニンは一切動じることなく午睡を楽しむのだった。
随分と遅くなりましたが、年内には間に合ったようです。
Quated Lyrics :
Over There (1917) by George M. Cohan (1887-1942)
調べてみたところ、著作権保護期間(著作権法51条2項 著作者の死後50年まで存続+連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律4条1項[米国3794日加算])を経過しているようなので、ふらっと引用してみました。
「ちょっと行ってヴィルヘルム2世のケツを蹴り上げて来ようぜ!」的な雰囲気の漂う、いかにもアメリカンな感じが気に入っております。




