猫と獅子
端的に言って、レーニンはあの獅子獣人二人がどうにも苦手である。深い理由があるわけではない。あちらは猛獣、こちらはイエネコ、明らかに格が違うのだ。ただそれだけの話である。
しかし、それは所詮こちらの理屈である。向こうには向こうの理論と関心がある。猫科という数少ない共通項が何かを惹き付けるのだろうか。彼らはこの何の変哲もない小動物に興味津々なのである。或いは、同居人に何かを吹き込まれたのかもしれない。その怪力故に同居人の重要保護観察対象として側に置かれる彼らは、日頃からもふもふにゃーにゃーと、偏向した猫の魅力を語り聞かされているのである。
かくして、こんな景色が現出する。
全速力で居留地の住居沿いを疾走する三毛猫は、手頃な建物の隙間を認めて、横跳びで進入を試みる。強引な方向転換である。猛烈な横Gを感じるが、そんなことを気にしている余裕はない。壁を蹴って速度を殺し切り、地に足を付けると、再び全力疾走を開始する。
「おいっ、こら、猫、逃げるな」
後から追いかけてきた売買目的保有資産甲──スイなんとか君が声を荒げるが、三毛猫は一切顧みない。同居人ですら、猫の胸骨を危険な程に締め上げてくるのだ。その瞬間出力に定評のある獅子獣人にかかれば、お気の毒な展開となるのは間違いない。そういう未来は御免なのである。
建物の角まで到達すると、レーニンはもう一度地面を蹴って方向を転じ、視線を切って姿を眩ませる。瞬発力では到底敵わないが、小回りでは体躯の小さな小動物に幾らか分があるのだ。彼らが全力を出せない錯雑地に逃げ込み、時間を稼ぐことで、彼らの乏しいスタミナを消耗させる。それが三毛猫の対獅子獣人対処戦術の要諦である。
「ぐう、ちょこまかと」
悔しそうなスイなんとか君の言葉を聞き流しながら、三毛猫は更に周辺警戒を厳にする。もう一人の獅子獣人、あの白獅子の姿が見えないからである。同居人の狼藉にも動じない寡黙で温厚な彼だが、身のこなしも頭の回りも、きゃんきゃん吠える金獅子より格段に上なのだ。恐らくは金獅子の方に猟犬役をやらせて、隙を突くことを狙っている。開所で対処不能な突撃を受けないよう住居群からは離れず、しかし、懸命に追いかけてくるスイなんとか君は確実に撒かなければならない。忙しい事この上ない。
「ねこー、ねこー、待ってくれよ……」
早速疲れてきたのか、急に懇願するような響きを含むなんとか君の言だが、レーニンは勿論、立ち止まりなどしない。追われているから逃げるのである。その理には些かの揺るぎもないのだ。
工程は順調、しかし、不意に嫌な予感を感じて、三毛猫は全力で横に飛ぶ。腹に暴風を感じたのは刹那の後である。衝撃を受けて、レーニンはごろごろと横に地面を転がる。その際に、地面に拳を突き立てる白獅子の姿を垣間見た。比喩でも冗談でもなく、地面にクレーターができている。どうやら、予め屋根の上に待機していたらしい。獅子の癖に、まるで豹のような手口である。
「外した」
「待て、俺達はその猫を捕まえようとしてるんだぞ」
憮然と呟く白獅子に、ようやく建物の隙間を抜けて追いついた金獅子も頭を抱える。程度問題ではあるが、常識と良識に関しては、こちらの方が期待できるらしい。
「動きを止めようと」
「いや、二度と動かなくなるから、それ」
「……あっ」
どうやら、捕獲方針を巡って深刻な齟齬があったようで、二人の間に気まずい空気が流れている。追われる側としても、Dead or Aliveはご遠慮願いたい。やはり、認識の刷り合せは重要なのだ。そんな道理を確認しつつ、三毛猫は再び地面を蹴る。さしあたり、今は二人に生じた間隙を利用すべき時である。故に進路を、スイなんとか君に向ける。
「おっ?」
散々逃げ回っていたと思えば、今度は駆け寄って来るのである。不可解な小動物の動きに首を傾げながらも、スイなんとか君は少し屈み、両手を開いて受け入れ態勢をとる。実に、この三毛猫にとって好都合な反応だった。レーニンは力強く地面を蹴って、彼の元に飛び寄る。
その飛翔中、三毛猫はにゃーと低く唸ると、前脚と前脚を合せてぽんと叩く。すると、彼の眼前に小さな光球が生まれ、ぽんと弾ける。
「うわっ?」
最終奥義、ねこだましの魔術である。対米戦の切り札として、気が向いた時に研鑽を重ねていたのだ。
「ふみゅ」
不意を突かれてのけぞるスイなんとか君の顔を踏み台に、もう一度、三毛猫は高く跳躍する。目指すは住居の屋根である。全てを察した白獅子が動き出すが、もう遅い。彼らの身体能力ならば、屋根に飛び乗るなど造作もないだろうが、下手に建物を損壊することがあれば、同居人のお説教が待っている。あまり無茶はできない二人を尻目に、ふわりと着地したレーニンは、そのまま屋根の上を走って現場を離脱する。
「ちくしょー、猫の癖に馬鹿にしやがって!」
後の方ではスイなんとか君が騒がしかったが、勿論、三毛猫は気にも留めなかった。
──近時は委細こんな調子である。居留地の更なる整備と製鉄所開設準備のため、同居人がずっとこの場所に留まっている結果、必然的に、この好奇心旺盛な獅子獣人達と触れ合う機会も増えている。そろそろ限界なので、レーニンはお城に帰りたくて仕方がないのだが、同居人はあの焼物ハウスに仮設の電話線を引き込み、完全な持久戦の構えを見せている。先行きは厳しいと言わざるを得ない。
もっとも、それだけ入れ込んでいることもあって、設備の拡張は順調である。二人の獅子の追撃を警戒しつつ、三毛猫は彼方を見遣る。つい先日まで無秩序に雑草が茂っていた荒地には、今や簡易な柵が巡らされて、その中を家畜や家禽の類が悠然と闊歩している。山羊のような生物が6匹、饅頭に翼を生やしたような丸い鳥が20羽ほど、それから、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程度に大量の鶏という陣容である。生活必需品を市場で調達した折、ついでとばかりに同居人がお買い上げしてきた。
どうして製鉄所に牧場を併設しようと思うのか。三毛猫にはその発想が今一つ理解できないが、彼らの存在が、この地に集住する職員の食生活に多少の潤いを与えていることは事実である。山羊からは乳がとれるし、鶏は卵を産む。これに対して、丸い鳥の貢献は皆無に等しいが、あれにはクッションのようにもふもふしているという強みがある。いかにも同居人が好みそうな形質である。
そして、そんな牧場の脇で丸くなっている白くてもふもふの巨大物体が、牧場の守護者であるレーガン閣下である。明らかに居場所を間違えている冬季迷彩が草地によく映える。
どうしてあの巨大犬がここに居るかといえば、滞在の長期化によりもふもふ分が不足している同居人が、強引に呼び寄せたのだ。騒ぎを避けるため、人通りの絶えた深夜、王城に戻り、こっそりと連れてきたらしい。暴挙である。お陰で、三毛猫はある朝目覚めると、わふんと不意に挨拶される憂き目にあった。あまりにも驚いたので、ひっくり返ってしまったことは、記憶に新しい。
厄介な獅子獣人に加え、圧倒的大質量を誇るレーガン閣下の進駐である。ごく普通の小動物である三毛猫にとって、情勢は極めて厳しい。しかし、希望がないわけでもない。三毛猫は慎重に追手の動向を確認すると、そろりと屋根から飛び降りて、地形を縫うようにして牧場を目指す。短距離限定だが、あの獅子共は異様に足が速いのだ。被発見を減らすための工夫である。
危険を冒してまで大統領閣下の御許に馳せ参じようとしているのは、他でもない、そこが絶対の聖域だからである。百獣の王らしく、同居人に怒られない程度に傍若無人の限りを尽くす二人の獅子だが、実のところ、彼らはこの犬とは名ばかりの巨大生物が苦手で仕方がないらしいのだ。遠目にちらちらとその雄姿を窺うばかりで、決して近寄ろうとはしない。無論、レーニンとて得意な相手であるはずもないが、益と害があるならば、そこは損得勘定の問題である。冷戦は終わったのだ。打算的な三毛猫は、現実の脅威である猛獣をやり過ごせるなら、レーガン閣下の巨大さについて目を瞑ることも吝かではない。
草地を駆け抜け、息も絶え絶えに牧場に辿り着くと、雄大なレーガン閣下はわふんと一声、鷹揚に出迎えてくれる。あちらは無害な小動物に、特に隔意など持ち合わせてはいないのだ。おまけに、疲労困憊のあまり体勢を崩し、ころころと地面を転がる三毛猫を、そのもふもふの尻尾で優しく受け止めてくれる。ちょっと度が過ぎる程に巨大なことを除けば、良いやつなのである。
ようやく一息つけて、三毛猫は丸くなる。新たな脅威のお陰で、おちおち昼寝もしていられないのだ。
そんな三毛猫に合わせたのか、レーガン閣下も昼寝を再開する。それとなく、そのふかふかの尻尾を枕として提供してくれるのだから、実に気が利いている。その猫よりも巨大な尻尾は、自身ももふもふである猫の基準からしても、見事なもふもふである。同居人まっしぐらという事実も肯ける。
「あれ、レーニン、こんなところに珍しい」
暫くそうして微睡んでいると、不意に声をかけられる。二本の尻尾がぴんと伸びる。猫にしてみれば、ここは非正規戦下の戦場なのである。何が脅威となるか、知れたものではないのだ。
それでも、今回ばかりはそう心配が必要な相手でもなかった。同居人の世話役たるメイドにして、製鉄所事務局長の任を押し付けられたフレネル神父の補佐役であるエリー……に扮しているエリオである。最近、ずっとそんな仮装をした姿を眺めているため、三毛猫の認識も段々と混濁してきた。
秘書官と言う肩書が単なる名目だったのも今は昔、最近の彼は多忙を極めている。原因は例によって同居人の思いつきである。製鉄所職員は出身地どころか、種族すら不統一な状況で、その使用言語も多岐に渡っている。そんな状況では業務上の意思連絡に支障があると、あの小娘は所内標準語を設定することを思いついたのである。即ち、当地の言語であるレンブール語である。
しかし、職員全員の殆どは外国の出身である。当然ながら、この国の言語を上手く操れるわけではない。故に、教育が必要となる。その講師役を、同居人はこの少年に押し付けたのである。
丁度、そんな仕事を片付けたところなのだろう。いかにも疲れた様子の少年は、何気なく三毛猫を拾い上げると、そのままレーガン閣下のもふもふボディにもたれかかる。かつて同居人が為し得なかった、デュアルもふもふの構えである。レーニンがにゃーと鳴くと、エリオは優しくその頭を撫でてくれる。そうして暢気に戯れていたのも束の間、いつしか少年はうつらうつらと転寝を始めてしまった。
安穏とした寝顔を仰ぎながら、三毛猫は同居人の所業に思いを馳せる。彼をこんなにも疲弊させているあの小娘だが、彼女は彼女で相応に面倒な仕事をこなしている。職員向けの、数学及び自然科学担当講師である。至極当然のことながら、完全な素人に製鉄所の操業を任せるわけにはいかないのだ。鉄を還元する、高エネルギーを取り扱う施設である。最低限の自然科学上の知識を欠くようでは、重大な事故を引き起こしかねない。そんな危難を避けるために、同居人は事前に必要と思われる事柄をあれこれ講義しているのである。聴衆にとっては辛いことが想像に難くない催しだが、安全教育を兼ねるため、原則として製鉄所職員は全員参加である。短期的には誰も幸せにならないその不毛さに、三毛猫は感心を禁じ得ない。
一人と二匹の穏やかな時間は、遠く大聖堂から、正午を告げる鐘が響くまで続いた。彼も忙しい身分なのである。エリオははっと跳ね起きると、大慌てでこの場を辞す。どうやら、何かがあるらしい。その後ろ姿を、レーガン閣下はわふんと見送った。
少年に抱えられた三毛猫も一緒に持ち去られることとなったが、レーニンは敢えてこれに抗おうとはしなかった。対獅子獣人の観点からみれば、エリオの側も相応に安全だからである。見かけはメイドだが、その正体は天災級の見習い魔術師なのである。流石に同居人の如く怯えられたりはしないが、その霊威を直感的に感じるのか、獣人達は近寄って来ない。三毛猫からすれば、有難い話である。
猫を抱えてひた走ること暫し、やがてエリオは真新しい建物に辿り着く。つい先日完成した事務局棟である。例の如く同居人の指揮による突貫工事の産物で、慎ましやかな事務室に、小さな倉庫と会議室兼用の講堂をくっつけた、新築にして既に場当たり的な感のある建物である。
「あっ、エリーちゃん遅い!」
「すみません、お昼寝をしていたらつい……」
そのまま奥の講堂に駆け込むと、中には既に参加者が一堂に会していた。フレネル神父と、稀少な女性職員達である。何とも不思議な組み合わせだが、彼女達も製鉄所事務局の要員である。どうやら、昼食を兼ねて気楽な話し合いを行っていたらしい。机の上には果物入りの麦粥が置かれているのが見える。
「お姫様の猫も一緒だ。珍しい」
「本当に尻尾が二本ある。珍しい」
「ほれほれ、こっちこーい」
三毛猫も何故か熱烈歓迎である。しかし、来いと言われて振り向くほどお人好しではない。そっぽを向いて断固たる姿勢を示すが、何故だかこれが火に油を注いでしまったらしい。頭の回る者がしなる棒状の物体など持ち出して気を引こうとしてくる。その程度の誘惑に負けるような三毛猫ではないが、我慢するのもなかなかに辛いものがある。
更に辛いのが、いかにも厳めしい事務局長、フレネル神父の視線である。その表情自体は特に平素と変わるものでもないが、そのフォーカスが渦中の中心たる三毛猫に固定されているのだ。照準用レーザーポインタを額に突き付けられているような感覚である。流石にこの威圧感に、たまらずレーニンはうにゃあとのけ反ってしまう。
「さて、続きを始めたいのですが、その」
「あっ、はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
しかも、何やら暗黙の合意が成立し、三毛猫の身柄はこの神父に引き渡されてしまう。
思わず縊り殺されるのではと本気で心配してしまったが、流石にそんなことはなかった。外見からは思いもよらない優しい手つきで、背中をもふもふされる。拍子抜けである。
それから何事もなかったかの如く再開されたのは、どうということはない、今後一週間の食事の献立に関する討議である。どうしてそれが事務局の仕事なのか疑問がないでもないが、生産設備が稼働どころか、未だ着工すらしていない現状では、会計処理や労務管理と言ってみたところで、さほどすることもないのである。故に、調達される需品の中でも、量的、価格的に最大のものである食糧と、その差配に関する決定が事務局の主たる任務として宛がわれることになったのだ。
何とも牧歌的な話だが、流石におよそ150人分の食事ともなると、それはそれで大事でもあることも間違いない。しかも、抜け目ない同居人が食費の大枠を制限してしまったため、限られた予算の中でどうにかすることも要求されている。参考程度に、王立騎士団の出入り業者に関する納入価格資料も渡されているようだが、「お肉、高い」との言葉が漏れ聞こえているあたり、悩みは尽きない。
「やっぱり予算が足りないのがいけないっ! 私達は断固として食費の増額を要求すべきだ」
「いや、工夫すればどうにかなる範疇だと思うよ?」
「謎肉使用の合意が得られるなら、この一割で片付けて見せるのです。そういえば、丁度、在庫が幾つか冷凍庫で冷えたままですし」
「そういうのは却下です」
しれっと討議に混ざってきた同居人に、エリオが笑顔で釘を刺す。寧ろ、一体どこから湧いて来たのだこの危険生物と三毛猫は焦るが、どうやら、講堂の片隅に置かれた大きな籠──可搬型同居人用寝台ルビャンカの中で丸くなっていたらしい。最初から居たのだ。油断も隙もあったものではない。
「まあ、一山当てれば食費も増やせるのです。それまでの辛抱なので節制に努めてください」
「山師みたいなこと言いますね、姫様」
「大丈夫です、当てればどうということはないのです」
エリオにばっさりと謎肉オプションを封じられても、この小娘は涼しい態度を崩さない。今度はどう考えても賭博に入れ込んでいる人のようなことを言い始める。
それでも、この同居人の無責任な空手形に勇気付けられたのだろうか、討議は俄かに動きを見せる。比較的安価な黒パンと具材が日替わりのクリーム系シチューを基軸とする、大方針が採択されたのである。更に、財政の余裕を勘案しながら、これにチーズや果物がつくものとされた。なお、肉の焼き物はない。
トマトがあればというような趣旨のことを呟いていたあたり、籠の中から様子を見守る同居人には課題の残る帰結だったらしいが、何にせよこれで一件落着である。丁度、麦粥も喰い尽くしたところで、会合は散会となった。この時、ようやく神父に抱かれる愛猫を見止めた同居人は、常のように飛び込んでこいとばかりに両腕を開く。しかし、三毛猫がそんな地雷に引っかかるわけもない。当然の如くその要求を黙殺すると、長い耳を垂れ下げた同居人はそのまま籠の中に崩れ落ちて丸くなる。どうやら眠かったらしい。それからすぐに不貞寝を決め込んでしまった。
悪は滅びた。感慨を込めて三毛猫はにゃーと鳴く。
もっとも、更に度し難い存在はそのまま手つかずでもある。真顔で手元の猫をもふもふし続けるフレネル神父にどのように対処すべきか、レーニンには見当もつかない。それは、彼が席を立ち、事務室に戻ってからも同様である。同居人のように胸骨を脅かすわけでもなし、致命的な問題があるわけでもないのだが、気ままにごろごろしたいのも事実なのである。三毛猫は席を蹴るため、無難な大義名分を探して周囲を見回す。しかし、顔はともかく、振る舞いは紳士な神父様なのである。そんなものは特にない。
結局、しびれを切らしたレーニンは、うにゃうにゃと暴れると、強引に神父の膝上から脱出する。
基本的に話がわかる人物である。フレネル神父は去りゆく三毛猫を引き留めようとはしない。ただ、その後ろ姿を静かに見守るのみである。そこはかとなく悪いことをしてしまった雰囲気だが、猫と自由は不可分一体なのである。にゃーと低い声で鳴いた三毛猫はそそくさと事務室を後にする。
何はともあれ、久しぶりの娑婆である。玄関に辿り着いた三毛猫は、うにゃと体を伸ばすと、ゆったりとした歩調で外に歩み出す。すると、横から声をかけるものがあった。
「あっ、猫」
金色の方の獅子獣人である。見上げると、何とも間の抜けた顔をしている。一通りその造形を堪能した三毛猫は、それから、悠然と歩を進める。焦らず、騒がず、目指すは事務室に鎮座するフレネル神父の膝上である。猫と自由は不可分一体なのである。それは、過去の経緯に対してすら例外ではない。
「おい、猫、ちょっと待て」
背後でスイなんとか君が何やら騒ぐが、三毛猫は気にも留めず、歩みを続ける。
何分、獅子獣人がその身体能力を発揮すると、勢い余って周囲の物を景気よく破壊してしまうのである。同居人激怒案件となるのは間違いないし、事務局棟という場所柄、神父による異端審問も始まる可能性がある。いくら百獣の王とて、これは流石に耐え難い。だから、建物の中に入ってしまえば、三毛猫の勝利はほぼ間違いないのである。
更に、場所柄がこの小動物に味方した。
「あっ」
「げっ」
荷物を抱えたエリオが折よく通りがかったのである。
「ええっと、ほ、本日はお日柄も良く」
「おっ、おう、昼寝……日和だな」
いかにも当たり障りのない会話を始める二人だが、その声は露骨に震えている。三毛猫には、少なくともエリオの気持ちはよくわかる。猛獣がその辺をふらついているのである。怖くないはずがないのだ。少年を見遣ってみれば、泣き出す一歩手前でどうにか作り笑いを保つ微妙な均衡が見て取れる。
どうにか助け船を出したいところではあるが、非力な小動物にできることなど何もない。三毛猫は粛々と事務室への歩みを進める。スイなんとか君が何故か助けて欲しそうに見ているが、こんなことで猫を頼るなというのがレーニンの偽らざる感想である。猫の歩みは止まらない。
無事に事務室に舞い戻ると、三毛猫はにゃーんと一鳴き、まっすぐフレネル神父のところに向かう。何分、つい先刻そこを離れたばかりなのだ。そこが無難な居場所であろうと考えての行動だった。
幸い、想定はさほど外れていなかった。足元に座って佇む三毛猫を見つけると、フレネル神父は表情一つ変えずにその身柄を拾い上げ、膝上に設置する。全て元の鞘に収まった格好である。同居人と双璧をなす程に表情の起伏に乏しい彼だが、猫の背中を撫でる手は、先刻にも増して、慈しむかの如く優しいものだった。どうやら、彼もレーニンの帰還を喜んでいるとみえる。
かくして安定を確保した三毛猫は、欠伸をひとつ、うとうとし始める。多方面からの横槍で、あまり昼寝ができなかったのだ。神父の膝上も安全地帯と判明した今、躊躇う理由はどこにもなかった。
勿論、迂闊な三毛猫が失念しているだけで、寝ている間に不測の事態が生じる可能性はある。例えば、神出鬼没な同居人がふらっとその身柄を強奪して、容赦なく胸骨を締め上げる可能性である。
不意に違和感を覚えて、三毛猫は目を覚ます。その目に飛び込んできたのは、大きく膨らんだ胸部である。シリコンでも入れたのだろうか。最近、女装が流行っているのだなと感慨を抱きつつ目を背けると、見慣れた神父の厳めしい顔が目に入る。思わずにゃあと鳴いてしまう。空間が歪んでいる。
「あわわわわ、レーニン君、起きちゃった!?」
慌てる三毛猫にかけられたのは、女性の声である。どうやら向こうも慌てているらしい。上体を動かし、その大きな向こう側を窺うと、鮮やかな赤毛と、栗色の大きな瞳、おっとりとした顔立ちの女性が目に入る。これでようやく合点がいった。どうということはない。事務室の面子で回しもふもふをしていただけである。何とも不遜な行為だが、特に害があるわけでもない。三毛猫は堂々たる二度寝を決め込む。
「あら、また寝た」
「なかなか図太い猫だね」
何か失礼なことを言われた気がするが、怒りより眠気が勝った。
何かと人気のある三毛猫だが、人間とは移ろい易いものでもある。暫くは回しもふもふ行為に勤しんでいた事務職員達だが、流石に飽きたのだ。気付けば焼物ハウスから取り寄せられたクレムリンに収められ、事務室の片隅に安置されていた。お陰で、目が覚めた時、世間から忘れられた一発屋のような気分を味わうことができた。少々切なくて、思わずにゃーと鳴いてしまう。
「あっ、レーニン、起きてたんだ」
そんなやさぐれ三毛猫を迎えに来てくれたのは、猫の世話係を兼務するエリオである。どうやら既に日は落ちて、お家に戻る時間らしい。三毛猫の場合、その行き先はあの焼物ハウスということになる。
──製作経緯から焼物ハウスの呼称が維持されてはいるが、実のところ、その現物はいよいよもって名状し難い状況になっている。同居人が己の趣味に従い、自由な改装を加えた結果である。
あの小娘は、外部から造園業者を呼んできたと思えば、焼物のドーム天井の上に木を植えたのだ。そのままでは根が露出してしまうので、土を盛ることも忘れない。ついでに、光源魔術で持続時間の長い光球を幾つもぷかぷかと浮かべたので、その外観はいかにも妖精の住居めいた、幻想的な趣が漂っている。
もっとも、中身は建てつけの悪い扉と窓がひとつずつ、何とも狭苦しい穴倉でしかない。お椀のような半球状の形状が祟って、空間効率も頗る悪い。そんな中に、執務用の机と椅子、びりびり石発電装置2号機、書類用の棚に衣装用ケースを詰め込んでいるのである。更に、夜にはクレムリンとルビャンカ、それから、新たに調達されたフォート・ミード──エリオ用の寝台籠が展開される。運用開始から間もないというのに、既に建物の容積は限界を迎えつつある。
お陰で、三毛猫は虎視眈々とその胸骨を脅かす同居人から逃げ回るのに難儀する羽目となるのだが、今の時分に関して言えば、心配は要らない。同居人は所内の衛生環境を改善すべく、今日も浴場の給湯に励んでいる頃合いなのである。故に、クレムリンごと運ばれる三毛猫は丸くなり、今夜の同居人対策に思いを巡らせる。どうせ相手は鈍い小娘である。錯雑地を縫うように走り回れば良いのだが、無駄な運動を強いられるのも億劫なので、より合理的な解決を模索していた。
「よっ、よう、猫」
だから、油断していたのである。焼物ハウスに先客が居るなど想定していなかった。しかも、それが同居人に準ずる危険生物ともなると、尚更である。はっと上を見上げると、クレムリンを運ぶ少年は穏やかな微笑みを浮かべている。どうやら、彼にしてやられたらしい。素直で温厚な性分だと認識していたが、同居人のせいで暗黒面に堕ちたのだろうか。遺憾なことである。
何にせよ、現在の危難には対処しなければならない。レーニンは体を捻ると、軽快に籠から躍り出ようと試みる。とりあえず、虚空に飛び出すところまでは成功した。しかし、その足は地面に着かない。機敏に反応したエリオに抱えられてしまったからである。更に、彼は建てつけの悪い扉をしっかり閉ざし、退路を塞ぐ。これで迅速な離脱は著しく困難なものとなった。
「なあ、エリー、大丈夫なのか? やっぱり物凄く嫌われてるんだけど」
「大丈夫です。ほら、レーニン、話せばわかりますから」
同居人あたりに問答無用と銃撃されそうなことを言いながら、少年は腕の中の猫を宥める。対するレーニンはうにゃうにゃと暴れて、猛獣と対話する言語はないと主張するが、全く離してくれる気配はない。思えば、そもそも三毛猫は人語を扱えないのだ。話が通じるわけがない。
「ねこ……」
断固たる抵抗を貫く三毛猫を前に、スイなんとか君は丸みを帯びた耳をぺたりと畳む。琥珀色の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。そんな目で見られたところで、三毛猫の軟鉄並の意思が揺らぐはずもないが、新しい種類の反応ではある。四肢をじたばたさせながらも、レーニンは器用に首を傾げる。
「さあ、スィール、例の物を」
エリオが何かを促すと、スイなんとか君は後手に隠していた器具を取り出す。細長く、よくしなる建築廃材にその辺で生えている植物の房を適当にくくりつけた代物である。ボリュームたっぷりで、振るとわさわさする。恐るべき重量級ねこじゃらしである。作りは雑だが、振られると無性に気になる。
「彼は、貴方が構ってくれないことを気に病んでいたようです。だから、こう、仲良くする秘訣を教えて
あげました。距離を保って、玩具で遊べばいいんです」
事務局棟の玄関で見捨てた後の事だろうか、どうやら真摯なお悩み相談会が展開されたらしい。
確かに、獅子獣人の危険性は撫でられたら頸骨が折れそうとか、抱き締められると胸骨が粉砕骨折の後内臓破裂、爾後上半身と下半身が切断されそうといった、物理的な懸念が主たるものである。適切な器具の利用により非接触状態が維持されるならば、遊んであげることも吝かではない。この少年は実に問題の本質をよく理解している。同居人の所業に対してもこの調子で小言を述べて貰いたいものである。
床に解放された三毛猫は、恐る恐る、わさわさと動く重ねこじゃらしに近付く。質感もさることながら、その不規則な動きが無性に興味を惹くのである。暫くじっとその房を睨み付けた三毛猫は、一瞬の機会を認め、猫パンチを繰り出す。半球形の焼物ハウスに、歓声が沸いた。
一体どうしてこんな重労働に勤しまねばならないのか、疑問がないでもないが、重ねこじゃらしとの格闘は暫く続いた。わさわさと動く物体に挑むのは、猫の本分に属する行為だからである。にゃーと勇ましく鳴いて、レーニンは果敢に挑んだ。しかし、相手は玩具なのである。幾ら打撃を加えようとも、決定的な勝利は叶わない。冷静になってその事実に気付いた三毛猫は、応戦をやめて床に転がる。疲れたのだ。
「飽きた?」
「まあ、猫ですから」
「そうか」
重ねこじゃらしを振るのをやめたスイなんとか君は、おもむろに三毛猫に手を伸ばそうとするが、途中で躊躇する。多少玩具で遊んだ程度では、未だ信頼醸成が不十分と判断してのこととみえる。別に、幾ら実績を積み上げようとも、三毛猫は彼にもふもふを許すつもりなど毛頭ないが、信じるならば個人の自由である。さしあたり、自制の必要を認識した点は評価して、レーニンはにゃーと賛辞を送る。
流石に108式まではないのだろうが、猫用玩具は他にもある。木を削って作られた球である。加工精度は悪くなく、ほぼ真球であるため、板張りで平滑な床面をよく転がる。この獅子獣人は、それをそっと転がして、三毛猫に寄越すのだ。そういう遊びは犬とやって欲しいものだが、いざ転がって来ると、送り返さずにはいられない。そして、送り返すと、また送られてくる。無限ループである。
もっとも、そんなカロリーの浪費も長くは続かなかった。悪の首魁が現れたからである。
「おや、こんなところに居ましたか」
建てつけの悪い扉を勢いよく開け放ち、颯爽と出現した同居人は、すかすかとこの獅子獣人の元に歩み寄ると、問答無用でその尻尾を掴み上げ、先についた房をもふもふし始める。
「いっ、一体何だよ」
「お風呂に入るのです」
「いや、俺、そういうのは」
「問答無用なのです。今日と言う今日は逃がさないのです」
やはり水濡れは嫌いなのだろうか。スイなんとか君は渋るが、入浴文化を啓蒙せんとする同居人には一片の容赦もない。腕力では太刀打ちできないはずなのだが、強引に彼の尻尾を引っ張って外に連れ出す。
「エリーも後で出頭するように、なのです」
呆然と立ち尽くす少年に、しっかり釘を刺すことも忘れない。
「やめろ、やめてくれ! 頼むから!」
夜の居留地に悲痛な叫びが木霊する。哀れなスィール君は、完全に同居人の餌食である。そんな凄惨な景色をにゃーんと見送った三毛猫は何だか気の毒で仕方が無くなったので、また後日、彼と玩具で遊んであげようかと思案を始めるのだった。




