辻褄合わせ
嘘をつくというのは存外難しい事である。その場を取り繕うための一時的なものならともかく、相手に現実を誤認させ続けようとするならば、やはり相応の仕込みが必要である。何と言っても、この種の仕事にはきめ細やかな配慮が欠かせないのだ。古来より、些細な矛盾から虚構を見破られる事例は枚挙に暇がない。だからこそ、騙し続けようと欲するなら、虚構と現実を橋渡しする不断の努力が必要なのだ。偶発的事情とはいえ、エリーなる架空の世話役を創出した同居人もまた、この理から逃れることはできない。
あの顔の怖い神父を騙して何の得があるのか、傍から時局を見守る三毛猫にはさっぱり理解できないが、やってしまったことは仕方がない。同居人は体裁を保つべく、油断なく方々に手を回した。事務連絡を装い関係各所に事情を説明して、この小芝居への協力を求めたのだ。あの神父を取り巻く現実を捻じ曲げるには、端的に言って人手が必要だからである。
少なくとも、サーラの協力は難なく得られた。事が教会に露見すればエリオの艶姿を堪能できなくなると脅したところ、向こうの方から協力を打診してきた次第である。似たような手口は、意外なことにチュチーリア女史にも通用した。秩序と手続の化身とも言うべきこの厳格な『塔』事務局職員だが、プライベートな局面では存外かわいいものに目がないらしい。舌先三寸で言い包めることに成功した。
同居人が終業時刻を迎えると、すぐ後宮のディート姫を訪ねたのもこの種の策動の一環である。虎の威を借ること甚だしいが、王族の権威をもって各方面で生じ得る反発を封殺しつつ、自らの意向をゴリ押しするつもりらしい。本気である。同居人は手加減なしであの神父を騙し通す所存なのである。
極めて不躾な振る舞いだが、幸いにして、このお姫様は同居人に懐かれることを好いている。常の如くこの小さな妖精姫を膝上に招くと、切々と告げられる同居人のわがままを静かに聞いてくれる。その動機が教会の魔手からエリオの女装趣味を護るためと聞くと、彼女の態度は一層好意的になった。何と言っても、このお姫様も変態である。事が自らの利害にも繋がる以上、協力しないわけにはいかないのだ。
「いや、僕、別にそういう趣味じゃないんですが……」
そんな交渉の成り行きを嘆くのは、付添として側に控えるエリオである。世話役という設定上、私室に戻る同居人に随行せざるを得なかったのだ。神父の目が届かないところで別れれば足りたのだが、結局、そのまま流れでついてきた。お陰で、このメイド姿の少年は同居人の偏向した方便を間近で聞かされる羽目になったのである。
そんな彼に抱かれる三毛猫も同様に事態を憂慮している。交渉の展開こそ首尾よく成果をもぎ取りつつあるが、その行状は一見してアレなのである。招かれるままお姫様の膝上に陣取ったのはいいが、その勢いのまま抱きついて、彼女の深い谷間に頭を埋めているのはどういうことか。お姫様としては異存ないようで、そっとこの小娘を抱き寄せて、頭を撫でてあげている。先日括りつけられた首輪と鈴も相俟って、飼主が仔猫を愛でているような絵である。
思えばこの同居人、飼い馴らすのが殆ど不可能と思われるような猛獣なのである。それをどう躾ければこうなるのか。神父を騙すための算段が済んでも、同居人は親愛なるお姉様にくっついて離れようとはしない。それどころか、段々と瞼が落ちてきて、今にも無防備に眠ってしまいそうな有様である。完全に懐いている。そんな状況を現出するお姫様の手腕に、動静を見守る三毛猫も戦慄を禁じ得ない。
あの強引な茶会の夜、明らかにこの二人の間で何かがあったのだ。しかし、保身を優先した三毛猫は、その真相を把握していない。今にして思えば痛恨の極みである。その辺の事情は従者として佇むエリオも変わらないらしい。平素とは随分と異なる同居人の様子に、眉間に皺を寄せて何かを思案している。
そんな一人と一匹の様子を察したのだろうか。にやりと笑みを浮かべ、不意にお姫様が声をかけてくる。
「あら、もしかして、羨ましいのかしら?」
「い、いえ、そういうわけではないのですが」
「うーん、なら、どうして私がヴィオルとこんなに仲良くなれたのか、気になっていると」
「はい、そんなところです……」
まさか、正直にどうやってこの勇者様を籠絡して骨抜きにしたか問うわけにもいかないのだ。探るように問いかけるお姫様に、少年はぎこちなく微笑み返して肯定を伝える。
対するお姫様の反応は、迅速で激烈なものだった。
「実は簡単なのです。こうするのですわ」
そう宣言すると、お姫様は抱えた同居人の長耳をぺろっと舐めて、その先端を甘噛みする。長く飛び出ているものだから、実に咥え易いのだ。
「にゃ、姉様」
微睡んでいた同居人が跳ね起きるが、胸と腹に手を回され、しっかりと抱き締められているが故に逃れることはできない。そうして暫く長耳を責められるうちに、この小娘は「にゃー」と甘く鳴くと、ぐったりとお姫様にその身を預け始める。どうやら、身体に力が入らないらしい。
「えっ?」
事態を見守るエリオが唖然としているが、無理もない。こんなことができるとは誰も思わなかったのだ。
果たして、これを仲良しと表現して良いものか。単に抗拒不能に陥れて手籠めにしただけではないか。三毛猫の脳裏をそんな疑問が駆け巡る。しかし、その辺の事情を差し引けば確かに効果的な手段でもある。この特徴的なエルフっぽい長耳は、同時に、この凶暴な小娘を無力化するに足る弱点なのだ。
結局、明らかになったのは一晩中延々とこの弱点を突き続けて同居人を屈服させたらしいという事実である。一体何を考えればそんな攻略法が思い浮かぶのかわからないが、何にせよ、レーニンにとってはそれなりに有益な知見ではあった。上手く利用すれば、質量差故に長らく同居人に優位で推移していたパワーバランスを、幾らか三毛猫の側に傾けることが可能なのだ。つまりは下剋上である。
「ふみゃー」
丹念に責められる同居人は、蕩けるような声を上げてディート姫に縋りつく。やはり表情筋が退化しているのだろうか。この期に及んでもその表情自体は涼しいものだが、心なしか、その白い頬は若干の紅潮を見せている。この同居人にも一応赤い血潮が流れているのだなと、今更ながら三毛猫はうにゃと鳴いて感動する。
「みゃう……」
更に耳責めを続けると、同居人の鳴き声は徐々に小さくなり、痙攣したように小刻みに震えるだけとなる。流石にこの辺に至ると潮時ということらしい。長らく同居人を苛めていたディート姫は長耳を解放し、今度はその身をぎゅっと強く抱き締める。出来上がった同居人は為す術なくされるままである。本当にこのお姫様、よく同居人の扱いを心得ている。
「ほら、簡単でしょう?」
「えっ、ええ」
爽やかな笑顔で語りかけるこのお姫様に、エリオも曖昧な笑顔で返事を返す。これに何を言えというのか。確かに簡単かもしれないが、何かとレベルが高すぎる。
けれども、お姫様は変態である。そんな客観的事実など顧みない。彼女の視線は、時にこのねじ曲がった三毛猫の心を打つ程にまっすぐ前向きなのだ。
「そうそう、良いことを思いついたのですわ。エリオ君、貴方もやってみませんか」
だから、満面の笑顔で今度はこんな提案をしてくる。
「えっ、あの」
「ほらほら、優しくしてあげればいいのですわ」
「いえ、僕はその」
「はやくはやく」
既にして退路は存在しなかった。この少年に王族と正面から事を構えるような気概はないのだ。しかし、無力化済みとはいえ、猛獣の耳を舐めるというのも些か勇気の要る行為である。今となっては杞憂かもしれないが、一度機嫌を損ねれば人死にすら出しかねないのだ。過去の事例がそれを証明している。
幾度かの逡巡を繰り返し、しかし、お姫様の澄んだ期待の眼差しに曝されて、エリオはゆっくりと同居人のもとに歩みを進める。
そんなお姫様の趣向に心を打たれた三毛猫は、油断なくこの少年の腕を逃れると、ふかふかの絨毯の上を転がって素早く安全圏へと離脱する。前回の経験を踏まえて観測は続行するが、できることならそのまま逃げ帰りたい。周囲を見回し適当な物陰を見つけると、そこに素早く駆け込む。
すっかりやられてしまった同居人はといえば、震えるエリオが隣に陣取ってもなお、みゃーと人語ならざる鳴き声を上げて呆けている。そんな彼女の長い耳を咥えるべく、エリオはそっと顔を寄せる。
「さあ、勇気を出して」
どうしてこのお姫様は無駄に勇気の要るようなことをさせるのか。何にせよ、そんな応援に勇気付けられたのか少年は口を大きく開く。その動きは刹那の後、ゆっくりと閉じられる方向に転じた。
そして、遂に少年は一線を超えた。
ただでさえ白い顔からは血の気が引き、額には汗が浮かび始めている。不発弾の信管を咥えるような顔、というのが遠目に眺めるレーニンの正直な感想である。恐らく、口に含みはしたが、その尖った耳の先端を噛むところまでは達していないのだろう。そのせいか、同居人に目立った反応はない。
「優しくしてあげるのですわ」
お姫様が訓示を垂れる横で、エリオはこの危険物を咥え続ける。しかし、次のマイルストーンへ向かう勇気がないのだろうか。少年はもごもごと口を動かしているが、決定的打撃を与えられないようで、ここにきて事態は膠着の様相を呈する。
そのまま時は流れ──おもむろに少年は長耳から口を離す。
「おかしいです。噛んでも何も起こりません」
お姫様の方を振り向いた彼が告げたのは、端的な事実である。傍目にはわからなかったが、ちゃんと優しく甘噛みを実施していたらしい。
「あら? そんなはずは」
「もう少し強くしてみるべきなんでしょうか」
首を傾げたエリオは、今度はぱくりと無造作に長耳を咥える。同居人の無反応に安心したのか、それとも、眼前の謎の解明に関心を奪われたのか、いきなり大胆な仕草である。
そうして、はむはむと長耳を噛んでは首を傾げることを繰り返すこと暫し、けれども、状況は一向に打開しない。これにはお姫様もうーんと唸って困り顔である。結局、始終そんな調子となった。事態を進展させたのは、意外な方向からもたらされた指摘である。
「あまり悩む必要はないのです。要するに、下手なだけなのです」
言い辛いことでもしれっと言及してくれる同居人だった。エリオがトライアル・アンド・エラーを繰り返すうちに立ち直ったのだ。もっとも、これはお姫様の意向に反しているらしい。少し思案すると、ディート姫はぱくりと、少年が噛んでいるのとは逆側の耳を甘噛みし始める。
「にゃ、にゃあ……。ともかく、こう、何か違うのです。ふみゃぁ……というか、流石に痛いのです」
容赦のない攻勢に耐えながら、それでも同居人はどうにか抗議を口にする。あまりに無反応なため、相当に強く噛まれていたらしい。
「えっ、ああ、ごめん」
「にゃ、口ははにゃさないでください。そのへたひゃは、にゃ、むしろ、きにょう、なのれす。れいしぇいににゃれりゅのれ、ふぁなひゃにゃひて」
どんどん呂律が回らなくなっているので何が言いたいか判然としないが、善解するに、「貴様は下手過ぎて寧ろ醒めるから続けろ」という旨を述べているようである。少なくとも、エリオはそのように受け取ったらしい。憮然とした表情で長耳への甘噛みを再開する。
「ふにゃあ、あぶにゃいところれした」
効果は覿面のようで、幾らか持ち直した同居人は安堵を漏らす。しかし、傍からみると何とも珍奇な絵である。三毛猫はうみゃと唸る。客観的観測事実を述べれば、妖精姫とも謳われる同居人が、片方の長耳を王国の王女様に、もう片方の長耳をメイド服の少年に齧られながら、にゃあにゃあと鳴いているのである。意味がわからない。もうひとつおまけに意味がわからないのは、姫様付のメイド方が一部始終を物陰から固唾を飲んで見守っていることである。類友なのか、朱に交わったのか。何にせよ、マトモな人間はここには居ないとよくわかる話である。
全力でアクセルを踏み続けるディート姫と、それを奇跡の技巧で押し留めるエリオの不毛な戦いは、やがてお姫様が諦め、「むー」と頬を膨らませることでようやく決着を見た。この種の戦いにおいては、気分を萎えさせる方が圧倒的に有利なのだ。引き時を見失ったエリオは尚も同居人の長耳を齧っていたが、同居人からもういいと告げられて、素っ気なく口を離した。そこに勝者の姿などなかった。
「たしゅかったのです……」
「折角の好機だったのにー、ですわ」
安堵する同居人の側ではお姫様が悔しさを滲ませている。エリオはといえば、そんな二人から少々離れたところで立ち尽くしている。やはり、その手並みを当然の如く完全否定されたことがショックだったらしい。今にも崩れ落ちそうな佇まいである。
「まあ、今日のところはこのくらいにしておいてあげますわ」
「ねえしゃま、それでは悪役のせりふ、なのです」
「ふふふ、今晩は精々楽しく過ごせばいいのですわ」
何だか頭の痛くなるようなやりとりをしつつ、二人は抱擁を交わす。今日のところは、それが別れの挨拶だった。ようやく膝の上から解放された同居人は、俯いたまま動かないエリオをがっしりと抱えると、強引に押しながらお姫様の居所から退出する。留まる理由などないので、三毛猫もこれに追随した。
「うー、下手、下手って……」
「故国には適材適所という言葉があるのです。水準から大きく離れたものは、何かしら利用価値があるのです。後は評価軸の設定の問題に過ぎません。そういうことでいいではありませんか」
少年の背中を押しながら、同居人は懸命なフォローを試みる。しかし、どうにもポイントを外している感が否めない。寧ろ、どんどん追い打ちをかけてはいないだろうか。
そんな調子で歩みを進める二人は、いつしか同居人に与えられた居室の前に至っていた。流石に、この少年を放置するわけにもいかない。とりあえず部屋に押し込もうと、同居人は扉へと手をかける。
不意に声を掛けられたのは、そんな時のことである。
「おや、マーラフェルト卿。こんなところで何を?」
ある意味で事の元凶とも言えるフレネル神父だった。相変わらずの無表情で淡々と問いかけてくる。
「ここが私のお部屋なのです」
「なるほど。では、ご近所ということですね。国王陛下のご厚意で、私も暫くここの部屋を使わせて頂けることになりました」
若手であり、明らかに前線の実務を担う層の人物である。教会序列的にはさほど偉いわけではないこの神父だが、同時にペンネ大司教が任命した勇者監査に関する教会の代表者である。少なくとも、もふもふ王は彼をそのように遇することにしたらしい。ならば、賓客の逗留に充てられるこの区画の部屋が与えられるのも、通常の成り行きということになる。
互いの事情を把握したところで、神父は妖精姫の隣で俯く世話係を一瞥する。明らかに妙な景色である。やはり気になって仕方がないとみえる。
「ところで、その、エリーはどうしたのでしょう」
「一言では言い尽くせない、とても悲しいことがあったのです……」
「これは立ち入ったことを聞いてしまいました。申し訳ありません」
「いえ、構いません」
その言葉を聞き終えると、神父は同居人に一礼して別れを告げる。どうやら、自らに割り振られた部屋を探している最中だったらしい。厳つい彼の姿は、やがて光石に照らされる回廊の奥に消えて行った。
神父の背中を見送った同居人は遅滞なく作業を再開する。おもむろに扉を開くと、力なく佇むエリオを強引に部屋の中に押し込んだのだ。何の躊躇もない、力任せの早業である。
「あらあら、勇者様、これはまた積極的ですね」
「やむを得ない措置なのです」
笑顔で迎えたのは、部屋の中で待機していたサーラである。また不思議な物言いだが、同居人が物理力で強引に少年を押しこんでいる以上、積極的というのも強ち間違いとは言い難い。
動かないエリオを適当に長椅子に転がすと、同居人はサーラに抱き付く。元よりこの駄メイドの相手は初手抱き付きが定石だが、今回はもう少し実際的な意味合いがあるらしい。
「サーラ、お風呂に入れて欲しいのです」
随分とアレなお願いを始めたのだ。
傍から見守る三毛猫としては如何なものかという感を禁じ得ない内容だが、そのコスト自体はそう高いものではない。元より、居室備え付けの浴槽で朝晩二回、同居人はこの駄メイドに洗って貰っているからである。この習慣、当初は当地の貴族の嗜みだとレーニンも納得していたのだが、城内で見聞を深めるうちに全く別の事情であることが判明した。この国には入浴の習慣こそあれ、毎日風呂に入る程ではないのである。結局、この駄メイドが裸に剥いた妖精姫を愛でたくてやっているに過ぎないのだ。
「はい、それはもう、よろこんで!」
そういうわけで、まずこの要求は拒まれない。サーラは元気よく応えると、鼻を押さえて着替えを取りに行く。やはりディート姫に負けない程度に駄目な人である。
もっとも、同居人はこれに異を唱えない。元より羞恥心などあまりない小娘である。長毛種の猫並に手入れが手間な生き物であることもあり、相手が喜んでやってくれるならお任せしようと考えている節すらある。同居人の堕落は、尚も着々と進行しているのだ。
しかし、この同居人、可及的速やかに風呂に入りたくて仕方がないらしい。任せておけば良いものを、サーラが不在の間、自ら風呂の準備に着手してしまう。
確かに、大した手間ではないのだ。居室のまんなかという不可解極まりない位置に据えられた浴槽だが、元々王族のために用意されたこともあり、極めて高機能な機材である。タイルに仕込まれた火石による湯沸しは勿論、魔法的に機能するポンプにより、城内に引き込まれた水道水を汲み上げることもできる。その操作は、浴槽から伸びる導魔銀製の部品を握ることで行う。賢者の面目躍如といったところだろうか。通常は相応に時間のかかる作業だが、その豊富な魔力を活かして、同居人はあっという間に浴槽を湯で満たしてしまった。
これには、暫くして着替えの部屋着を抱えて戻ってきたサーラも思わず目を丸くする。とはいえ、従前繰り返してきた奇行を思えば、些事であることも事実である。切替の早いこの駄メイドは手間が省けたと思い直して、同居人の服を脱がせにかかる。
「ははー、なるほど、そういうことでしたか」
「姉様はちょっと激しすぎるのです」
その途中、サーラは何かに気付いたらしい。随分と意味深長な言葉を交わしているが、レーニンはそれを聞き流して長椅子に歩みを進める。落ち込んでいるのか拗ねているのか、すっかり動かなくなったエリオを観察するためである。
「うー」
少年は小さく唸り声を上げている。どうにも判断し難い様相である。何だか面倒になったので、三毛猫は横たわる彼の頭に乗ると、そのまま丸くなってにゃーと鳴く。
「えっ、ちょっ、おもい、重いよ」
流石にこの狼藉は堪えたらしい。反射的にエリオが上体を起こすと、跳ね飛ばされた三毛猫はごろごろと長椅子の上を転がる。そのまま勢いに任せて転がっていると、手すりにぶつかって止まった。
「おはようございます」
「おはよ……って、えっ?」
正気に戻ったらしいエリオが周囲を見回すと、そこには当然、入浴中の同居人が居る。服を着て風呂に入る者などあまり居ない。浴槽の縁に寄り掛かっている同居人は、勿論、全裸である。
「ななな、なっ」
「貴方も入りますか?」
「いや、そこで冷静に誘おうとしないでよ」
「よいではありませんか」
何が良いのかわからないが、何にせよ、この同居人は揺らがない。湯浴みが心地よいのか、金色の双眸を細めながら、ゆったりと話を続ける。
「それはさておき、業務連絡です。エリオ、当面の間、貴方にもここで寝泊まりして頂きます」
「えっ、どうして?」
「先程フレネル助祭と会ったではありませんか」
「あれ、会ったの?」
「ええ、つい先程」
どうやら、あまりにも落ち込み過ぎていて、周囲のことなどまるで目に入っていなかったらしい。首を傾げて思案する少年は、やがてその意味に思い当たったのか、ゆっくりとその表情を凍らせる。
「暫くこの近辺に滞在するようです。貴方を私の世話係ということにしてしまった以上、一緒に居てくれないと気取られる恐れがあるのです」
「そこまでしないと、いけないのかな?」
「小さな嘘ほど露見しやすいのです。この種の演出は遺漏なく行う必要があります」
エリオの問いかけに、同居人はさっぱりと答える。あの神父を騙して何の得があるのか三毛猫には理解できないが、同居人が本気なのは間違いない。徹底的にやるつもりなのだ。そんな覇気に当てられて、このメイド装束の少年は小刻みに震えている。
時が経つにつれて、事態はどんどんその面妖の度を増している。この少年も大変である。長椅子で逆さまになって転がるレーニンは、そんな気楽な感想を抱く。
さらに言えば、彼を襲う困難はこれだけではないのだ。
「ところで、エリオ君、お風呂入らないんですか?」
謀議の間を縫って、おもむろにサーラが問いかける。満面の良い笑顔である。どうしようもない下心が駄々漏れである。
「物は考えようです。絶好の機会とは思いませんか。うへへ」
「いや、あの、その、どうしてっ?」
思わず声が上擦る。この少年、根が素直なだけに、強引に押し込まれると弱いのである。
この駄目な大人こそ、今、ここにある危機である。さて、果たして彼はどう乗り切るのだろうか。気になるところではあるが、局外に在り続けるこの三毛猫も、流石にその帰趨を見守ることに疲れてきた。これはもう、なるようにしかならないのである。そう時局を見通した三毛猫は、翌朝、事態の帰結を確認すれば概ね足りるだろうと割り切ることにした。
そういうわけで、レーニンは密かに行動を開始する。同居人の関心がエリオに注がれていることを油断なく確認すると、ごろりと長椅子から転げ落ちる。目指すのは、絶対不可侵たる猫の牙城、部屋の片隅に置かれた可搬型猫用寝台、クレムリンである。気取られないように、しかし、悠然と三毛猫は離脱する。
「なるほど、つまり、私の風呂には入れないと言うわけですか」
「エリオ君、今、ここで貴方の勇気が試されているんですっ!」
「いや、さっき十分に蛮勇を奮ったばかりなんですけど」
騒がしい三人の応酬を聞き流しながら、レーニンはクレムリンの中で丸くなる。そこは猫の絶対の聖域なのである。ふかふかの藁が薫る籠の中には癒しが満ちていて、この三毛猫が眠りに落ちるのにさほど時間はかからなかった。




