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ねこのレーニン  作者: るびー
2章 鉄鋼革命
42/60

冷戦

 偉いおじさん達が内緒話をしている間、同居人はといえば、違法建築感溢れる第二常備軍設立準備室棟の隣に更なる違法建築物、ホワイトハウスをポン付けする作業に勤しんでいた。要するに、先日騎士団から譲り受けたレーガン閣下のための犬小屋を作っていたのである。


 人形のように華奢な容姿とは裏腹に、同居人はこの種の作業が得意である。首尾よく王立工房から分けて貰った木材をノミと木槌で器用に加工し、釘も使わず器用に構造を組み上げると、板材と漆喰で壁を盛り、あっという間に車庫のような巨大な犬小屋を完成させてしまった。これには大統領閣下もご満悦である。わふんと一鳴き、ふかふかの藁が敷かれた小屋に収まっている。


「貴方もクレムリンが欲しかったりしますか?」


 そんな景色を満足げに眺める同居人は、それから、腕の中のレーニンに問いかける。一応、気を回しているらしい。しかし、対する三毛猫は低く威嚇するようににゃーと鳴いて、これを拒絶する。その前に身柄を解放して欲しいのである。相変わらずこの小娘が力加減を弁えないせいで、胸骨が軋みを上げている。


 どうしてこんな不覚を取ったかといえば、話は単純である。あの謀議の後、勇者様の機嫌を損ねては大事だと、三毛猫の身柄は直ちに同居人のところへ返送されることとなったのだが、その担当者であるサーラが、あろうことかその身柄をこの横暴な小娘に手渡ししたのである。お陰で、思わず逃げ損ねた。


「そのクレムリンって、猫のお家か何かなの?」

「歴史ある猫の殿堂なのです」


 聞き慣れない固有名詞に素朴な問を発するエリオに、同居人はさらりと嘘を吹き込む。根も葉もないウソ地球設定がまた一つ増えた瞬間である。それでも、少年はへえと一声、あっさりと納得する。素直な性分なのだ。だからこそ、順調に同居人に騙されるその姿に、三毛猫は胸を締め付けられる思いである。実際、物理的に締め上げられている最中ではあるが。


 そうでなくとも、この少年に関して、レーニンには色々と思うところがある。同居人の堕落も大概だが、それに輪をかけて、この少年の状況は深刻な水準に達しているのだ。概ね同居人のせいである。


 同居人の助手として犬小屋建設に駆り出されたエリオは、お陰で、今日もメイド服という装いである。作業が完了し、大統領閣下に寄り掛かって休憩しているその姿は何とも微笑ましいが、翻って考えれば、それ以外の感想が特に浮かんでこないあたり、何かがおかしいのだ。素直な性分が祟っているのか、段々と彼がこの状況に順応しつつあることを如実に物語っているからである。


 兆候はあった。あのお姫様との茶会において同居人に丸め込まれたあたりで、既に何かがおかしかったのだ。決定打となったのは、メイド服のまま退勤してしまった先日の出来事だろうか。あの翌日、羞恥のあまり涙を零しながら同居人をがくがくと揺さぶり続けたこの少年だが、落ち着いたところで、しっかりと同居人の反撃を受けたのだ。


「恥ずかしいのはわかりましたが、よくよく考えると何が問題なのかわかりません。故国に良い言葉があります。かわいいは正義なのです。そして、あの姿の貴方も十分にかわいいのです。つまり正義です。正義を公に示すことに、何の問題があるのですか?」


 酷い詭弁だった。


 しかし、これが少年の心の何かを粉砕したのは確かなようである。元より同居人の手管もあって微弱だった抵抗は、事ここに至り完全に消失した。そんな状況で既成事実を重ねているのである。周囲の認識も含めて、段々と馴染んできている。彼を変態連中に対する防壁に仕立てようという邪悪な同居人の企みは着実に成就しつつあるのだ。


 そんな哀れな被害者にそっと近寄ると、その隣に同居人は腰を下ろす。


「ついに、デュアルもふもふを実現したのです」


 背に感じる極上のもふもふに、同居人もご満悦らしい。平生の如く淡々とした呟きだが、そこにはどこか恍惚とした響きが混じっていた。そんな彼女に、三毛猫はにゃーと鳴いて抗議する。


 胸骨が苦しいことは勿論だが、それ以上に場所が悪かった。合衆国の如く巨大なレーガン閣下は、まず、尋常の動物ではない。書類上は魔物(野犬)という扱いになっているが、それは担当者の無知と怠慢によるものであり、疑いの余地なく犬ではない何か別種の存在である。しかも、名前がいけない。レーガンときた。言わずと知れた対ソ強硬派である。どちらも頭のねじが緩めの同居人が即興でつけた名前なのだから、その命名に深い含意があるはずもないが、それでも正直なところ、三毛猫はこの巨大な犬の側に居たくない。


 本当ならば、今すぐにでも同居人の腕を振り解いて脱出したいところである。それをしないのは、万一この小娘に傷などつけると、後で仕返しが怖いからに他ならない。レーガン閣下も恐ろしいが、手負いの同居人はもっと恐ろしいのだ。何と言っても、相手は今や賢者称号持ちの魔術師である。ドラム式洗濯乾燥機でじゃぶじゃぶされる以上に酷いことになりかねない。


 そんな三毛猫の葛藤を察したのか、傍から様子を眺めていたエリオがこんな指摘をする。


「何だか、レーニン、嫌そうにしてるね」

「そんなことはないのです!」


 余計な一言だった。お陰で、途端に胸骨への圧迫が強まる。その圧力に、思わずぶみゃと苦しげな鳴き声が漏れる。これには思わず、四肢をじたばたと振り回し抗わずにはいられなかった。聡明な三毛猫は、抵抗が更なる物理力による鎮圧を招くことを承知していたが、現状が耐え難いことも事実だったのだ。

かくして、限界に向けた胸骨の耐久力検査が始まる──かと思われたが、ここで再び横槍が入る。


「もしかすると、レーガンのことが怖いんじゃないかな」


 エリオの指摘に同居人が首を捻る。同時に、その腕から力が抜け、締め付けが幾らか楽になった。ここに危機は回避されたのである。平静を取り戻した三毛猫は、にゃと安堵の鳴き声を上げる。


「というと?」

「ほら、僕達だって巨大な竜と相対したら怖いでしょ?」

「あんなもの、ただの大きな爬虫類ではありませんか。対物ライフルひとつでどうにでもなります」

「君に共感なんか求めた僕が馬鹿だったよ……」


 溜息ひとつ、少年は理路整然と小動物の心理に関する一般論を説き始める。即ち、『でかい is こわい』という真理である。実際、その通りなのだ。何と言っても、レーガン閣下は馬や、普通乗用自動車よりずっと大きい。流石に、人間サイズが相手ならば咀嚼不可避だが、猫サイズでは丸呑みの可能性すらある。そんなものを眼前にして本能的な恐怖を抱かないなど不可能なのだ。


「わふ?」


 そんな少年の立論に反応したのだろうか。大統領閣下が首を回し、くりくりとした瞳で三毛猫を見つめてくる。害意の欠片もない実に間の抜けた顔である。それだけに、レーニンとしては実にやり辛い。


「わふ……」


 寂しそうにされても困るのである。ぺたんと耳を畳む犬をちらと見遣り、三毛猫はうにゃと唸る。

そんな動物二匹のやりとりを平生の如く涼しい顔で観察していた同居人は、ここにきてようやく得心したらしい。相変わらず淡々とした口ぶりで、自らの分析に従った打開策を示してみせる。


「レーニンが怯えている原因は、米ソの戦略的不均衡に存在するのです。ならば、劣位に立たされているレーニンに何かを盛って均衡を回復してあげれば良いのです」


 勿論、所詮はこの小娘の理解である。アレな感じはどうしても否めない。しかし、一体何を盛ろうというのか。どこからかTELに載ったヤルスでも湧いてくるのだろうか。三毛猫は首を回して同居人の顔を見上げる。自然、炯々と光るその金色の瞳を見つめることとなり、悪寒で背筋がぶるぶると震える。

そんな愛猫の頭を撫でながら、同居人は淡々と告げる。


「レーニン、魔術を覚えましょう」


 そのあまりにも唐突な提案に、レーニンは思わず首を傾げてしまった。




 魔術とは、魔力を利用する一切の方法の総称である。故に、それは人類の専売特許ではありえない。言語化や記録、体系化といった作業に難があるだけで、魔力の利用自体は他の生物種ででも十分に可能だからである。実際、自然界には魔術めいた異能を持つ生物が実に数多く存在する。だから、猫に魔術を扱える可能性は、経験則に照らして十分に存在しているのである。しかし──


「そういうわけで、にゃにゃにゃっと適当にやってみるのです」


 平生の如く淡々と、けれど、どこか熱っぽく迫る同居人の要求は明らかな無茶振りで、だから、迫られる三毛猫はうにゃーんと困惑の鳴き声を禁じ得ない。懇切丁寧に教えてくれるのは良いが、一体この小娘は猫に何を期待しているというのだろうか。正直なところ、レーニンにはさっぱり理解できない。


「しかし、猫が魔法を使うなんて聞いたことないよ?」


 その辺の事情はエリオも似たようなものらしい。しかし、当事者ではないから、その問いかけには多分に好奇の色が含まれていた。対する同居人は、相変わらずしれっとこんな答えを返す。


「大丈夫です。故国イースタシアでは、尻尾が二本の猫は魔力を帯びた霊獣と崇められているのです」

「へえ。ということは、レーニンも?」

「勿論なのです」


 いつの間にか霊獣にされてしまった。誠実さには逆の意味で信頼感溢れる同居人である。あまり素直に信用しないでもらいたいところだが、元よりこの少年に真偽を検証する術などあるはずもない。また微妙なウソ地球設定が増えてしまったが、致し方ないところである。


「さあ、レーニン、今こそ尻尾二本の真価を世に示す時なのです」


 更に返す刀で迫ってくるのだから、レーニンとしては堪らない。猫又の意地を見せて見ろとでも言いたいのだろうが、生憎と二本の尻尾は単なる奇形の産物である。期待されたところで困るのだ。それを知りつつ煽る同居人をちらりと仰ぎ見て、三毛猫は心底うんざりといった調子でうにゃーと鳴いた。


 それでも、本音を言えば、レーニンも魔術の取扱いというトピックそれ自体には興味がある。普段なら早々に逃げ出しているところだが、未だ犬小屋に留まっている理由がそれである。圧倒的大質量を誇る大統領閣下相手にどれほどの意味があるかは知らないが、芸は身を助けるとも言う。ひたすらハードルを上げ続ける同居人には思うところがあるが、今しばらくは我慢することとしたのだ。


 そんな次第である。解放され、床の上で丸くなった三毛猫はうにゃうにゃと鳴きながら、同居人の求めに応じて色々と試してみている。


 魔術を扱うにはどうすれば良いか。同居人の解くところによれば、その手段は驚くほど簡明である。


 祈るのだ。


 真摯な祈りが天に通じれば、祈りに対応する内容が顕現する。信じる者は救われる。気合と根性、無限の精神力があればどうにでもなるのだ。この同居人がするにしては随分と雑な話だが、そうなるには十分な理由がある。魔術というのは、本質的に術者の心性により記述、制御されるものだからである。


 厳密に言えば、これは唯心性仮説という魔術理論の帰結である。それは即ち、術式を発動する際に生ずる魔術師の内面的確信に魔術の本質を見出し、一般に魔術の行使のために用いられる呪文、印章、陣、祈祷その他一切の魔術的外形行為を精神涵養の手段として割切るというものである。伝統的な魔法学の成果をばっさりと切り捨てるラディカルな仮説だが、こんな話が出てくるには、相応の事情がある。


 実のところ、この世界の魔術師も、魔術という現象の尻尾を今一つ捕まえきれていないのだ。現代魔術体系は、元より何か統一的な基礎理論から演繹的に構築されたものではなく、現実の利用に根差した経験知の集積として形成されたものに過ぎない。


 その代表格が、現象術における四段階構成理論である。これは名前の通り、術式を宣言、定義、効果、結合の四段階に区分して理解する。出自は詠唱、つまり、呪文の構成に関するものだが、その議論はアナロジーをとることで他の分野でも広く引用される。魔術に関する基本的な視座を提供する、入口の理論なのだ。故に、必須の教養とされる。その内容は大要、次の通りとなる。


 第一段階たる宣言詠唱は、これから魔術を取り扱うという一種の決意表明である。術者と自然法則との合一、或いは、超自然的存在への接続といった意味合いを持つらしい。理に通じるという言い方がされることもある。今様に言うならば、事象改変のための権限設定要求のような手続である。これを済ませることで、本番と言うべき術式本体の記述に移ることができる。


 第二段階たる定義詠唱は、術式によって改変を受ける対象を抽出する、言うなればオペランドの定義を行うものである。術者の前に存在する物理的実存と、術式によって操作される魔術的概念をリンクさせる作業と言っても構わない。これも今様に表現すればリソース設定といったところか。


 第三段階たる効果詠唱は、魔術的概念の操作を記述し、魔術効果を定義するものである。術式の本体と言って差し支えない。その実質は要するに、プログラミングそのものである。同居人はこれを自然言語的手段で記述する写像と呼んでいた。


 第四段階である結合詠唱は、定義された魔術的概念と魔術的操作を意味的に結び付け、術式を実行可能な状態に整えるものである。強いて計算機科学の中から類似の概念を探せば、機械語翻訳されたオブジェクトファイルを結び付け、最終的な実行可能ファイルを生成するリンカ処理だろうか。


 これらの段階を踏み、最終的なトリガーとなる起動文言を唱えることで術式は発動する。勿論、これは多分に講学的な概念である。実際にはもうちょっと複雑である。それでも、この理論が現象術の取扱いにおいて枢要な位置を示す呪文という要素を、極めてシステマティックに説明していることには変わりない。


 しかし、それが呪文の本質を述べるものかといえば、そういうわけでもない。


 現実問題として、格調高い呪文を定型的に唱えれば相応の魔術効果を引き出せるかといえば、答えは否である。一般人が聖句の如く棒読みしたところで、まず何も起こりはしない。逆に、魔術師が標準的な呪文の構成要素から適当にその構成要素を除去しても、通常は大した問題は生じない。だからこそ、利用頻度の高い生活魔術の類では、大胆に構成要素を取っ払って詠唱時間を最適化することが日常的に行われている。同居人の得意とする無詠唱現象術は、ある意味でその極致である。


 実のところ呪文の定型的な記述要素は、実際の術式の制御構造と密な連関を有しないのである。こうなってくると、呪文の魔術的本質とは何なのか、否応にも考えざるを得ない。


 そういった問題を取り扱う学術領域が魔術意味論と呼ばれるものである。先に述べた唯心性仮説もこの議論の範疇に属する。突き詰めて考えると、呪文には意味がないという理解である。そんなところに行き着いてしまう程、この辺りの闇は深い。どうやら、同居人はその中から努めて単純なものを拾い上げてきたようである。気合で解決というのは単純すぎて寧ろ方向を見失う感があるが、その辺は別の問題である。


「さあ、もっと熱くなるのです。諦めるなよーなのです」


 試行錯誤を繰り返す三毛猫に、同居人は淡々と声援を送ってくる。唯心性仮説に従えば、気分と勢いこそ重要なのである。もっとも、意図はわかるが、そのフレーズを平板な調子で口にされると調子が狂う。レーニンはうにゃーと低く鳴いて、無粋な同居人を黙らせる。


 基礎理論による裏付けがないとはいえ、四段階構成理論は思考整理枠組、またはフォーマットとして重要な価値を有する。また、ある種のリファレンスマニュアルでもある。定義詠唱や効果詠唱に関する議論は、見方を変えれば、気合によって影響を及ぼし易い対象や操作のリストを提示しているのだ。幾代にも渡る魔術師達の総当り的試行によって形成された操作可能確率分布の反映だと思えば、その信頼性は決して侮ることなどできない。


 そして、もう一つ、四段階構成理論には重要な功績がある。宣言詠唱の役割の強調である。同時に、それこそが今、うにゃうにゃと鳴くレーニンが直面している課題でもある。


 初心者からすれば魔術を扱うためのおまじないにしか思えない宣言詠唱だが、この成否が魔術師と非魔術師を峻別する最大の関門とされる。文言こそ、格調高くこれから魔術を扱う旨を宣言するだけだが、この一見形式的なプロセスの効果は、実のところ内面そのものに生ずるのだ。何かと繋がったような、視野が広がるような感じがするとは宣言詠唱について話を振られたエリオの言である。理に通じるという表現は比喩でも何でもなく、術式の構築に用いる入力経路を認識することである。そして、それは極めて主観的かつ感覚的な体験である。これでは、技術として教示するにも限度がある。


 仕方がないので、レーニンはうにゃーと鳴きながらお祈りをしているが、状況は芳しくない。一度経験すれば大丈夫と言われるが、人類でもそれができるのは一握りなのである。優しい同居人はしれっと無を取得する感じだとコツを教えてくれたが、勿論何の参考にもならない。


「やっぱり猫には難しいんじゃないかな」

「いいえ、気合があれば猫にもできるのです。即ち、レーニンには未だ気合が足りていないのです」

「僕にはもう十分気合が入ってるように見えるんだけど」


 大統領閣下に寄り掛かっている二人はといえば、各々感想を言い合っている。他人事ならぬ他猫事とはいえ、実に気楽なものである。それがどうしようもなく三毛猫の癇に障る。


 どうにかこの二人に一泡吹かせられないだろうか。そんなことを思うレーニンの脳裏に唐突に天啓が浮かぶ。それは、長らく待ち望んでいた類の感覚でもあった。得体の知れない全能感に浸りながら、何かに促されるかの如く、三毛猫はにゃーと威風堂々たる鳴き声を上げる。


 すると、少年の眼前に小さな光球が生まれた。


 日々腹の底に溜め込み続けた不満が解放された瞬間である。この時、レーニンは確信した。魔術とは即ち、実力による異議申立の手段なのである。即ち、ツッコミである。


「わっ、ちょっと!」


 突然の出来事に、エリオが思わず声を上げる。眩いというよりは儚げな、実用性に疑問のある灯りだが、少年の意表を突くには十分だったらしい。そんな三毛猫の祈りの結晶は、次の瞬間、ぱんと弾ける。破片が煌めきながら周囲に飛散するが、やがてそれも虚空に呑まれて消えた。


「もう、びっくりしたじゃないか!」

「私は何もしていないのです」

「えっ。そうすると、これってまさか」


 自らの偉業を誇示するように三毛猫がにゃーと長く鳴くと、思わずはっと振り向いた少年と目が合う。その宝石のような青い瞳は大きく見開かれていた。してやったりである。


「これが尻尾二本の真価なのです」


 そんな景色を横から眺めながら、同居人もどこか満足げに肯いた。




 それから暫くの間、うにゃうにゃと魔術の取扱いを試してみた結果、魔術の利用条件について概ね定性的な理解が得られるに至った。端的に結論を述べれば、いつでも使えるというわけではない。驚いた時かツッコみたくて仕方がない時に限られる。魔術師としてみれば到底及第点とは言い難いが、レーニンのユースケースを考えればこれで十分である。レーガン大統領閣下に魔術を行使する局面で、この三毛猫の精神状態が平静であるはずがないからである。


 取り扱える魔術の種類もごく僅かである。現状ではぱんと弾ける出来損ないの光源魔術と、ぱんと音を鳴らす詳細不明の音響魔術が使えるに過ぎない。どちらも少年を驚かせるには役立つが、大統領閣下相手には些かの効果も見られない。実戦にて確認済みである。そのくりくりとした瞳に見つめられ、思わずにゃーと魔術を放ってしまったのだ。その結果は、わふんという実に鷹揚としたお返事を頂くだけだった。


「まあ、不審者を追い払うには十分なのではないでしょうか」

「確かに突然使われるとびっくりするけど」


 二人の評価も、こんなものである。


 そんな事情なので、米ソの戦力差は未だ埋まらず存続している。その大きな舌でぺろっと舐めてくる閣下に対して三毛猫ができたことも、身を震わせて耐えることだけである。親愛の情の表れであろうと理解はするが、正直なところ、がぶっと美味しく頂かれないか小動物の身としては気が気ではない。その辺の機微を、雄大な大統領閣下は今一つ理解できていないようだった。


 それでも、見通しはそれほど暗くはない。宣言詠唱ひとつとっても、通常は月単位で修養を繰り返し、感覚を掴むものであるらしいのだ。三毛猫の偉業に狼狽したエリオが口走った実情である。妙に器用な同居人のお陰で今一つ実感が湧かないが、講習初日で曲がりなりにも魔術めいたものを扱えたことは、まずまず満足すべき成果である。後はぼちぼち練習を繰り返し、感覚を掴んでいけば良い。


 そこまで先を見通した時点で、三毛猫のやる気は消え失せた。一般的な魔術師の養成フローに関しても、できれば事前に提示して貰いたかった事項である。無暗ににゃーにゃーと頑張らなくても良かったのだ。そう思い至ったところで、途端に気が抜けてしまったのである。


 ぺたんと床に張り付いていると、流石にそろそろ潮時ということらしく、同居人がもふもふの大統領閣下から離れて設立準備室へと戻って行く。朝からずっと犬小屋建設に励んでいたのである。いい加減、滞った業務を片付けなければならないということらしい。同様に、数学問題演習を抱えるエリオもこれに続いた。頑張った反動で動く気も起きない三毛猫は、二本の尻尾を緩慢に振ってこれを見送る。


「わふ」


 間の抜けた鳴き声を上げて、大統領閣下が丸くなる。騒々しい連中が去って、本格的にお休みの模様である。怠惰な三毛猫は床を転がり適当な安全距離をとると、釣られて丸く昼寝の姿勢をとった。慣れないことをしたこともある。疲れたのでそのまま寝入ってしまいところだったが、大統領閣下の健やかな寝息を聞くと、どうにも不安な気分になって寝付くことができなかった。仕方がないので、巨大な犬小屋の開口部から外を眺めて、時間を潰す。


 レーニンの眼前に広がる景色は、端的に言って平和だった。時折、爆発音のようなものが聞こえることもあるが、その辺は魔術研究機関の宿命だろうか。


 元より世俗とは縁遠い場所柄である。魔王軍の襲来も、帝国の策動も、国王と南部諸侯の相克さえも、ここではまるで関係がない。だからこそ、同居人はこうして暢気に大統領閣下と戯れていられるわけだが、果たしてそれが良いことかといえば、三毛猫には定見がない。


 見えないところで、着実に物事は進んでいるのだ。もふもふ王が穏便に片付けてくれることを祈るばかりだが、隙を突いて、実は居たらしい反動分子が仕掛けてくるとも限らない。そうなれば、地獄の釜の蓋が開きかねないのだ。同居人の性格上、穏便に済ませるというシナリオが想起し難い。


 現状は平穏そのものだが、その先行きはどうにも不透明なのである。今、隣で熟睡中の危機から努めて目を逸らしながら、眠れない三毛猫は見通し難い今後に思いを馳せるのだった。


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