事後
レーニンが目を覚ますと、そこは湯の中だった。
同居人は真に報復と処断の権化である。それ故に、まず間違いなく寝込みを襲ってくると踏んでいたが、案の定である。一応、襲撃を警戒してベッドの下の隙間で隠れて丸くなっていたのだが、この自衛措置はあまり功を奏さなかったらしい。遺憾なことである。しかし、それ自体は想定の範囲内でもある。だから、冷静な三毛猫は慌てず騒がず、状況の迅速な解決のために周囲を確認し──そこで固まった。
「むう、濡れたレーニンはもふもふしていないのです」
「では、後で乾かしてあげないといけませんわね」
上を振り向いた三毛猫は、同居人を抱き締める大きな人物と目が合う。もふもふ王と同じ翡翠色の瞳、蜂蜜色の巻き毛、同居人ほどではないにせよ白い肌、間違いなく王国の王女様、ディート姫である。彼女は相変わらず同居人を抱き締めながら、一緒に入浴を楽しんでいるらしい。
あまりの衝撃に、三毛猫は口をぽかんと半開きにして鳴き声を失う。そもそも、ここは一体何処だろうか。明らかに同居人の居室ではない。犬か猫ならば泳げそうな広さのある、専用の浴室である。
「お姉様のお部屋に付属している浴室なのです」
気の利く同居人が淡々と所在地を教えてくれる。これで無駄に胸骨を締め付けてくれなければ大人しく抱かれてあげるのだが、その辺に気が至らないのが残念な限りである。
徐々に明らかとなってきたのは、三毛猫の想定を遥かに超えて深刻な現状である。お姉様というのが誰かと言えば、考えるまでもなくディート姫のことである。どうやらこのお姫様、僅か一夜にして同居人の調教を完了してしまったらしい。あんなに怯えていた相手だというのに、同居人は今やその豊かな谷間に頭を埋め、愛玩動物のように甘えている。流石は王族、見事な人心掌握術と言うほかない。
実のところ、この現状こそ、同居人がお姫様に怯えていた理由なのではなかろうか。そんな着想が三毛猫の脳裏に浮かぶ。何にせよ、同居人の堕落はこれでまた一歩進展したわけである。
お姫様に鎖を引かれて風呂から上がると、同居人は忽ち姫様付のメイド隊に取り囲まれる。入浴後の後始末である。体を拭いてもらったり、部屋着を着せて貰ったり、手入れの面倒な髪を梳いてもらったりと、至れり尽くせりである。概ねディート姫と同様の待遇なのだが、興味深いことに、同居人の方が配された人員が多い。どうやら、後宮に逗留している妖精姫への興味は、殊の外大きかったらしい。
なお、レーニンの面倒を見てくれたのは同居人である。自らもお世話をされている最中、器用に魔術で温風を作って乾かしてくれた。お陰で同居人好みのふわふわもふもふな毛並みになってしまったが、これはこれで悪いものではなかった。
一通り身嗜みが整った後は、特にすべきこともないので歓談の時間となった。ディート姫がソファーに腰かけると、同居人は追随し、迷いなくその膝の上に乗る。レーニンの知らぬ間に、そこが定位置という暗黙の了解ができたらしい。よくできましたとばかりに頭を撫でられると、同居人はその長耳をぴんと張り、小刻みに上下させる。どうやら嬉しいようである。この小娘、本当に大丈夫なのだろうか。
所詮は時間潰しなので、会話の内容は実にとりとめのないものである。最初はお菓子の話だった。それから、同居人が何故か製糖技術に関して語り始めたところまでは、三毛猫も記憶している。そこから先は、どちらかというと、絨毯のふかふかぶりを堪能することの方に夢中だった。更に、同居人の目を盗み、勇気あるメイドがねこじゃらしを持って挑んできたのである。しかも、なかなかの使い手である。猫として譲れない戦いだった。故に、会話など聞いている余裕などなかった。
──そんなことをしているうちに、話はいつの間にか核心に踏み込んでいた。床を転がりつつねこじゃらしを跳ね飛ばした三毛猫は、思わずうにゃと鳴いて立ち上がると、二人を見遣る。
「ねえ、ヴィオル。次に城から抜け出すときは、是非私も誘ってくださらないかしら」
お姫様の申出は唐突だった。しかし、理解できなくはないものでもあった。高貴な女性というのは、総じて暇なものである。そういう意味で、貴族のお姫様待遇でありながら、勇者様兼賢者様として忙しなく何かの策動に励む同居人をディート姫は羨んでいるらしい。それ故に、退屈を持て余すお姫様は一枚噛ませろと要求しているのである。
「それは構わないのですが、私も当面はあんな方法で外出する予定などないのです」
対する同居人の返答は淡々としたものである。けれど、目聡い三毛猫はその長耳が僅かに垂れ下がったことを見逃さない。主人の意に沿えず残念そうな雰囲気である。すっかり飼い馴らされている。
「あらあら、では『塔』の先生方と進めているのは何事なのかしら」
「あれは、鉄を生産するための装置を用意しようとしているだけなのです」
「鉄って、剣や鎧に使う、あの?」
「その鉄です。もっとも、使途は主に構造材料となりますが」
「というと?」
「建物や船の骨組みとなるものです。石や木材よりも頑丈なので、大きなものを作れるのです」
百聞は一見に如かずと、同居人が幻影魔術で示したのはワイヤーフレームで表示される本四架橋の長大な吊り橋である。それは現代土木建築技術の精華であると同時に、確かに素材技術の勝利でもあるのだ。木と石と天然繊維素材では、長大な海峡横断橋を作るには流石に強度が足りない。
「鉄がたくさんあれば、今、ここにはない物をたくさん作ることができるのです」
「なるほど、それを作ろうとしているわけなのですね」
よくできましたとばかりに、ディート姫が同居人の頭を撫でる。対する同居人は、心地良さそうに目を閉じ、力を抜いてお姫様にその身を委ねる。三毛猫には俄かに信じ難い景色である。このお姫様、同居人に一体何をしてくれたのだろうか。
「準備ができたら、私も見学に行って良いかしら」
「構わないのですが、熱くて埃っぽくて危ないところになるのです」
「うーん、そこは覚悟するのですわ」
同居人の警句に、お姫様は笑顔で答える。本当に理解しているか怪しいものだが、このお姫様の性分を考えると、実物で痛い目を見ないことにはわかってくれそうにない。同居人も何も言わなかった。
話が一巡すると、今度はお姫様が盤と駒を持ち出してくる。異界にもチェス相当のボードゲームがあるらしい。自然、二人はこれで遊ぶこととなった。
サーラが迎えに来てくれたのは、お姫様が何度目かの敗北を迎えた頃のことである。朝というか昼というか、微妙な時分だった。疲労で倒れたという同居人の主張が通ったために、周囲は無理に起こさずゆっくりと寝せてくれたらしい。実際、疲労していたのも間違いないらしく、被害者たるサーラは同居人に不便をかけたと詫びていた。
「零和有限確定完全情報ゲームは得意なのです」
「次は負けないですわ!」
熱い再戦の誓いを交わしたところで、同居人はようやく解放される。着替えやら何やらに時間をかけた結果、同居人がお姫様の私室を発つ頃にはもう昼前になっていた。
今日の同居人は、薄紅色で丈が膝下程度のワンピースドレスに白いエプロン状の前掛けという、若干活動的な装いである。猫と戯れるならこんなものかと、ディート姫が選んだのだ。レーニンからすればあまり愉快ではない配慮だが、その身軽さは思わぬところで役に立った。平素は同居人を抱えて運んでくれるサーラだが、今日は疲労で倒れたばかりということで、大事を取って同居人を自分で歩かせることとしたのである。お陰で、同居人は鎖を引かれてながら歩いている。犬の散歩状態である。
「しかし、ちょっと悔しいです。私もエリオ君の艶姿をちょっとくらい見てみたかったです」
そんな道中、サーラがしみじみと無念を語る。本来ならばこの駄メイドもあの銀髪の姫君を堪能できたのだろうが、同居人の反撃で全てが台無しになってしまったのである。
「確かに、順当に似合っていました」
「やはりそうですか! ああ、また機会は巡って来るのでしょうか」
「機会がないなら作れば良いのです」
世話係の嘆きに、同居人は残念な反応を見せる。一体何をしようというのか。サーラに何やら耳打ちすると、同居人はその手を取り、昨日は戻ることが叶わなかった私室へと駆け始める。ちょっとした小道具を回収するためである。それを一目見て、サーラは一転してご機嫌になった。その傍らで、三毛猫はうにゃぁと苦々しい鳴き声を上げることになった。もっとも、所詮は猫に過ぎないので、努めてその邪悪な企みを阻止しようとはしなかった。精々、少年の魂の平穏を祈った程度である。
そんな寄り道を挟んだため、同居人が設立準備室に辿り着いたのはお昼の時分に突入してからだった。
「今日はまた、随分と遅いお出ましだね」
「お姉様とたっぷり愛を育んでいたのです」
「えっ?」
ちょっとした嫌味に痛烈なカウンターを決めてから、同居人は平素の如く室長席に鎮座する。
内覧やお姫様との情事で席を空けていたため、薄い林檎ノートの隣には、同居人の決済や承認を待つ書類の丘ができていた。標高はおよそ3㎝程度である。勿論、世人が第二常備軍設立準備室なる場末の部署に用があるわけもなく、その殆どは賢者称号持ちの限定解除級魔術師にして王立魔術院特別研究員であるところの同居人に関わる案件なのだが、何にせよ、同居人の所掌する研究や事務は着実に増えている。近時、その私生活は堕落の一途を辿っているが、社会的には日増しに偉くなっているのである。
そんな書類を流し読みし、必要な書類にはサインなどしながら、同居人は秘書官に語りかける。
「昨日もお話しましたが、ピエトロに頼んで昨日見繕ってきた荷物を運びこんで貰ったのです。上の階に積み上がっている筈なので、整理をお願いしたいのです」
「うん、それは構わないんだけれど、結局、昨日何があったの?」
「色々なことがありました。それはそうと、その格好は作業には不向きでしょう。幸い、こちらに作業着のあてがあったので持って来ました。折角ですから、着替えてください」
「それはまた、嫌な予感しかしない話だね」
「貴方の考えはもっともです。しかし、何事も経験ではありませんか?」
金色の瞳と青色の瞳が睨み合う。しかし、それはほんの一瞬のことだった。
「わかったよ……」
いかにも苦渋に満ちた表情で、エリオは了承を伝える。眼力で同居人に敵うはずもなかったのだ。
「では、サーラ、例の物を」
「わかりました!」
柔和な微笑みを浮かべるサーラが手渡すのは、メイド服である。王城のものではない。同居人愛用の、あのコスプレ衣装のメイド服である。それを受け取った少年は、硬直して立ち尽くしている。
「どうして、これを?」
「似合いそうだから、ではだめですか?」
「昨日、本当に何があったの?」
「規制に抵触するので、あと8年程待ってください」
「もう、想像するだけでも恐ろしくて仕方がないよ……」
何にせよ、既に賽は投げられてしまっているのである。エリオは硬い表情で奥にある作業部屋に進む。慣れないだろうからと同居人は手伝いを申し出たが、流石に、これは断られた。
穏やかな昼下がり、設立準備室には書類を捲る音とキーボードの打鍵音、そして、布擦れの音が響く。
やがて姿を現したのは、銀髪の小さなメイドである。案の定、あまり違和感はない。元より華奢な体躯である。衣装で補正をかければ、性別を誤魔化すことくらい容易いのである。
「これで、いいかな?」
宝石のような青い瞳に涙を湛え、声を震わせながらエリオが問いかける。その頬は羞恥で赤く染まっていた。しかしながら、対するのは同居人である。いくら堕落したといっても、この程度で心を動かす程に豊かな感受性は持ち合わせていない。
「順当に似合っていますね」
同居人の感想は、例によって淡々としたものである。
「本当に?」
「ええ、本当です。自分で確認すると良いでしょう」
言い終えるや否や、虚空に鏡面が浮かぶ。同居人の光学操作魔術の一種らしい。その原理は皆目見当はつかないが、何かの力場で光を強引に捻じ曲げていることが窺える。震えながらその魔法の鑑を覗く少年をよそに、三毛猫はその縁を注視する。硝子のように周囲の景色が屈折し、変形して見える様が興味深い。その視界の外れで、鼻血を必死に手で隠す駄メイドが見えたが、気にするのはやめた。
「しかし、これ、ちょっと丈が短くないかな。なんか涼しいよ」
「大丈夫です。その分、動き易いのです」
「まあ、確かに」
相変わらず顔は赤いが、魔法の鑑で容姿を確認して、それなりに落ち着いて来たらしい。衣服の些細な乱れなどを直しながら、エリオは暢気な感想を述べる。
「さて、準備ができたようなら、早速、荷物整理をお願いします。書籍は棚に、金属類は工作室に、後は適当に同類を纏めて頂ければ構いません」
「うん、わかったよ」
「そうそう、重量物もあるので、サーラも手伝ってあげてください」
「承知しました!」
そんな調子で、大きなメイドと小さなメイドは並んで設立準備室棟2階へ踏み込んでいく。残されたのは、各々の定位置に陣取る室長閣下と三毛猫だけである。
二人の姿が見えなくなっても、同居人はなおも階段のあたりを見つめている。相変わらず表情に変化が乏しいので判断し辛いが、付き合いの長い三毛猫には感慨深げだと感じられた。一体どうしたというのか。三毛猫はにゃーんと鳴いて、首を捻る。
そんな愛猫の様子に気付いた同居人は、ぽつぽつと独白を始める。
「幾らか想定外の事態はありましたが、情勢は概ね所定の展開に収まりました」
同居人はおもむろに宙を仰ぐ。
丁度、上階では本格的な整頓作業が始まったところらしい。重い荷物を動かす音が断続的に響いてくる。レーニンは天井に近い場所に居るため、なかなか居心地が悪い。その辺は、騒音に敏感な同居人も同じらしい。大きな音がする度に、その長耳が跳ね上がる。
それでも、やはり同居人は満足げなのだ。
「愛でられるのも悪くはないのですが、いつまでもこうしてはいられないのです。幸い、彼にはその筋の才気に溢れています。彼にもそんな愛をお裾分けしてあげようと思うのです」
表現はいかにも善意を装っているが、その含意を読み解けば、結局のところ、サーラやお姫様のような変態の相手が面倒なので、エリオに押し付けたいということらしい。端的に言えば、身代わりが欲しいのだ。昨日からどこか言動がおかしいと思えば、腹の底でそんなことを企んでいたらしい。
「後は彼がこの道を受け入れ、気に入ってくれることを祈るばかりです」
己のために身近な秘書官すら生贄に捧げるその在り様は、まさに平素の同居人である。幾ら堕落したところで、その悪辣な性根までは変わらないということらしい。上界から人の営みを見守る三毛猫は安心し、それと同時に、とても残念な気持ちになる。
そんな三毛猫の送る生暖かい視線を勘違いしたらしい。同居人はレーニンをしっかり正面に見据えると、さも飛び込んで来いとばかりに両手を大きく広げる。基本的には聡明な同居人だが、猫の取り扱いに関してはさっぱり学習しないとみえる。レーニンが思わず首を傾げると、同居人も釣られて首を傾げる。
さて、どうしたものか。新たな難局に直面した三毛猫は、ごろりと丸くなって、じっくりとその対策を思案するのだった。




