そして日常は舞い戻る
設立準備室の棚の上は確立した三毛猫の定位置である。今日も器用に飛び乗ると、棚板と天井の隙間に入り込んで丸くなる。束の間の嵐は過ぎ去り、眼下に広がるのは諸々の均衡点として形成される日常の景色である。情勢の振れ幅が小さいという意味で、概ね平穏と言って構わないかもしれない。
勿論、事の収め方に関しては傍から見ていて色々と異論がある。逃げ出されると困るとか、資金提供の見返りとか、そういう意向が織り成す力学的作用を理解できなくはないのだが、それがどうして同居人を鎖で繋ぐという措置に収斂するのかは今一つレーニンには呑み込めないところである。それを唯々諾々と了承した同居人もよくわからない。王国情勢は複雑怪奇、人の営為はちっぽけな三毛猫の視点では見通せない複雑さと混沌で満ちている。
眼前の景色一つとっても、もはや精密な観測と論考なしにはその意味を推し測ることが叶わないのである。にゃーと溜息ひとつ、三毛猫は下界を睨む。
視線の先では、同居人がエリオの首に手を回し、しっかりとその背中に抱き付いている。少年はその意味不明な拘束を振り払うこともできず、白い頬を紅く染めながらただじっと耐えるのみである。幸い、例の数学力充填プログラムがあるので、精神的な逃避先には事欠かない。少々不憫な景色である。
一見すれば睦まじい少年少女の触れ合いだが、勿論、あの同居人がそう簡単に色気づく筈もない。元より、小動物に抱き付くのは大好きな小娘なのだ。その対象が俄かに人間にまで拡張されただけの話である。
どうしてこうなったのか。根源的な理由は首輪に鎖を繋がれたせいである。そのように三毛猫は分析する。同居人は事もなしと超然とした態度を貫いているが、その影響は明らかに多方面に噴出している。突如として顕在化した抱き付き癖は、その一端である。見物する三毛猫も、若干の危惧を禁じ得ない。同居人の堕落はそれほど静かに、しかし、深く進行しているのである。
一連の過程において、重要な役割を果たしているのがメイドのサーラである。王立騎士団特務班所属の従騎士で、勇者警護チーム主任、世話係を兼務し、エリオの次に同居人との接触経験が長い人物である。同居人の行動管理が開始されるにあたって、その管理者に彼女が指定されるのは順当な人選だった。
しかし、これが致命的にマズかったのだ。同居人の手綱を握り、支配下に置いた途端、この駄メイドの欲望の箍が見事にぶっ壊れたのである。逃げられないことをいいことに、容赦なく同居人を抱き締めて、なでなでするようになったのである。
まるで猫に襲い掛かる同居人のようだったと三毛猫は述懐する。
よくもまあ、こんな危険生物に果敢な接触を求めるものだとレーニンは感心を禁じ得ないが、確かに同居人は、外見だけに着目するならば美麗なお嬢様に違いないのである。サーラは、どうやらこれを愛でたくて仕方がなかったらしい。もふもふ王は期せずしてそのお膳立てをしてしまったのである。
当初、同居人は断固として抵抗した。じたばたと暴れて脱出を試みた。しかし、悲しいかな。体格差故に、その断固たる抵抗もさして効果を上げなかった。しかも、所詮は体力に乏しい小娘である。一通り暴れると、精根尽きて動けなくなる。そうなると、もはや状況はサーラの思うままである。気の済むまで撫で回され、時間が頃合いならそのままお風呂に入れられてしまう。そのプロセスはまさに猫の敗北と相似形である。成り行きを横から見物していた三毛猫も、あの胸骨への圧迫を思い出し、思わず肝が冷えた。
同居人が猫とは違うのは、逃げられないという現実的な制約である。猫ならば、今まさにレーニンがしているように、距離を保って接触を回避すれば良い。しかし、同居人は俊敏な生物ではないし、鎖によって行動が制約されているのである。機動による主導権の奪取は困難だった。
それ故に、同居人は逆転の発想で事に臨んだ。抵抗を諦めて素直に抱き付くと、サーラの攻勢が緩むことを同居人は発見したのである。先方からすると、無理に抱き締めるよりも得られる精神的満足が大きいらしい。この理に従い、抱かれる前に抱けという極めてシンプルなドクトリンが発明された。サーラを見つけたら、とにかく抱き付くのである。
結果として、サーラの横暴を抑止することに成功したのが、同居人もただでは済まなかった。抱き付くことに慣れ過ぎて、すっかり人肌が恋しくなってしまったらしいのだ。とりわけ、業務の都合もあって設立準備室に繋がれている昼間はその傾向が顕著となる。禁断症状が起こると、同居人はじっと高みに立て籠もるレーニンを見遣る。だが、胸骨を大切にするこの三毛猫がその意に応じる筈もない。結局、手頃な代用品ということでエリオが選択され、同居人の餌食となっているのである。
「流石にちょっと、動き辛いよ……」
少年が遂に耐えかねて、声を上げる。連日抱き付かれているので幾らか耐性ができているはずだが、今日はとりわけ辛いものがあるらしい。衣装が気に行ったのだろうか。そんなところだろうと三毛猫は当たりをつける。
「私だって動き辛いのです」
「いや、それとこれとは」
異論を上げるエリオに、より強く抱き締めることで同居人は応える。みるみるうちに耳まで赤くなって、少年は俯いたまま沈黙してしまった。それでも、同居人はその場を離れない。どうやら、室長席に戻ることすら面倒らしい。堕落である。しかし、見方を変えると道理ではあるのだ。確かに、最近の同居人は動き辛い格好ばかりしている。今日の衣装などはその最たるものである。
その引き摺るほど裾の長い法衣は、北方で森の精霊に仕える巫女が着用する由緒あるものらしい。いかにもエルフ向きの装備であるということで、サーラが押しつけてきた。装飾には乏しいが、艶やかな白い布が流れるような線を描く、何とも優雅な造形である。これに草木色の腰帯とマントで優しげなアクセントをつけている。邪悪な意匠を施された黒い首輪がなんとも不調和だが、これは外せないだけである。三毛猫は見ないふりをする。
傍から見れば優美な衣装だが、その代償として極めて動き辛い。膨らみの殆どないタイトな裾にスリットなどなく、それが無駄に長いものだから一歩進む度に足に絡みつくのだ。禁断症状のため、気力を振り絞って往路は走破したが、何の誘引のない復路を進むつもりにはならないらしい。
暫くそんな状況が続いたが、不意に転機が訪れる。同居人が俄かに少年の背中を離れると、鎖を鳴らしながら設立準備室の入口付近、その物陰に移動したのである。間もなく、お皿に乗った生肉を携えたサーラが入ってくる。レーニンの昼食である。それが床に置かれたことを確認したところで、同居人はサーラに抱き付く。そんな景色を確認して、少年は安堵と落胆の入り混じった、何とも言えない溜息をついた。
「助かりました、サーラさん」
「あら、もしかして、お邪魔してしまいましたか」
「そんなことはないです。断じて」
同居人の頭を撫でまわしながら笑うサーラに、エリオは語気を強める。譲れない一線だった。助力が不要と言う話になると、日暮れまであの窮状で耐え続けることになりかねない。
「大変ですねぇ」
そう言うと、サーラは抱き付いてきている同居人を優しく抱え上げる。もはや慣れたものなので、同居人も抵抗はしない。それから、鎖を辿るように設立準備室の奥まで歩み進むと、その側にある室長の椅子にそっと下ろしてもらう。特徴的な容姿もあって、人形を運んで設置するかのような景色である。
同居人が面倒な服装を拒まなくなった理由のひとつがこれである。移動の必要がある場合、愛でるついでにそのまま目的地まで運んでもらえると、この同居人は気付いてしまったのである。それ故に、自分で歩くことをやめてしまった。見事な堕落である。
これでは流石に運動不足だということで、時々、鎖を引かれて散歩にも出かけている。小一時間程かけて城内を一通り見て回っているらしい。しかし、虚弱な同居人は頻繁に散歩をすると疲れてしまうのである。故に、その意思表示を衣装の選択によって行っている。散歩可能な程度に簡素な衣装ならば肯定であり、そうでないなら否定である。これが、面倒な服装を拒まなくなったもうひとつの理由である。今日のところは断固否定であるらしい。
サーラになでなでされて若干うっとりしている同居人を横目で睨みつつ、三毛猫は棚から降りる。そして、皿の上の生肉に食らいつく。至福の時間である。
情勢判断として幾らかの留保が必要だが、同居人の堕落はレーニンにとって決して悪いものでもない。周囲の人間との均衡状態を維持しつつ、そこから利益を掠め取ることができるなら、この三毛猫にとっては最良の展開である。猫に小判とは、先人もよく言ったものである。実際、日持ちのしない食べ物の供給を期待しているので、関係性は細くとも長いことが望ましい。
しかし、そう上手くいくものかといえば、展望はそう明るいものでもない。表層的には堕落の道を突き進む同居人だが、情勢の主導権まで手放したわけではないのだ。今回の馬鹿騒ぎも、その大筋の部分は同居人によって仕組まれたものである。
R3の観測記録をモニタしていた三毛猫だからこそ知り得る話である。あの日、同居人の行動には幾つか不審な点があるのだ。元より、同居人は王都の治安状況を空の視点から調査済みなのである。それなのに、何故危険な川沿いの倉庫街に向かったのだろうか。
加えて言えば、同居人は事件の存在についてある程度認識していたはずである。メタ情報ライブラリに存在したあのイベントマーカーは、事後の情報と総合すると、まさにあの奴隷商人の『仕入れ』を示していた可能性が高い。
そこまで認識した上で、しかも、あんな仮装をした状態で、あの場に赴いたのである。偶然というには流石に出来すぎている。少なくとも、あの拉致までは、間違いなく同居人が故意に誘発したとみるのが自然である。
もっとも、その先に関してはレーニンにも今一つよくわからない。王立騎士団による突入は半ば偶然の産物である。どこまで同居人の作為が介在しているのか知れたものではない。事があれほど迅速に進んだのは三毛猫の気まぐれの賜物である。
──そこまで思考を巡らせて、レーニンははたと気づく。何故、自分は気紛れで事態に一石を投ずることができたのか。どうして、R3の観測情報をモニタすることができたのだろうかと。簡単である。同居人が薄い林檎ノートの電源を切り忘れたからに他ならない。まさか、そんなと言わざるを得ない程に細い線である。しかし、もしそうだとするならば、レーニンすら同居人の掌の上で踊らされていたことになる。
生肉を咥えながら振り返ると、金色の双眸がじっとレーニンを見据えていた。相変わらず感情の籠らない視線だが、この時ばかりは、どういうわけか「よくできました」と褒められているような気がした。身震いひとつ、三毛猫は床に転がる。
堕落しながらも、同居人は決して手を休めているわけではない。とりわけ、工作に関しては相変わらず意欲旺盛に取り組んでいる。最近は意外なところで、真空管などを作り始めた。魔術を利用すれば存外簡単に作れるようで、作例は既に10を超えている。現物が欲しいというよりも、試作を通じて何かを確認している雰囲気で、それが三毛猫の警戒感を刺激して止まない。
また、『塔』のルートでも油断なく手を回しているらしい。カーライン博士と結んで、何か大きなものを作ろうとしている兆候がある。とりあえず、その中核部品と思しき物体の図面を三毛猫も確認している。中央に球状の物体があり、そこから太い棒状の部品が円周上に伸びている、何とも幾何学的な雰囲気の漂う物体である。何かの炉心を思わせる装置だが、その用途は明らかではない。
どうやら、この計画には存外多数の人物が参画しているらしく、同居人は内線電話で頻繁に外部と連絡をとっている。気紛れに作ったこの通信機械は、同居人が鎖で繋がれた結果、いよいよ真価を発揮するようになった。魔法工芸研究棟内に交換所が設置され、着実にカバー範囲を広げていることも、この装置の運用性向上に大きく寄与している。しかし、そのお陰で、傍から見守る三毛猫には今一つ計画の広がりが上手く掴めない。
相変わらずこの小娘は腹の底で何かを企んでいるらしい。小さな三毛猫にはその奇々怪々な企みなどさっぱり見通すことはできないが、それでも、何かの胎動を感じ取る程度なら問題なくできる。奴隷商人を釣り上げた今回の一件も、所詮はより大きな仕掛けの一部に過ぎないはずである。得たものを眺めれば明らかである。労働力とは突き詰めれば手段であって、究極的な目標とはなり得ない。
何にせよ、レーニンとしてはこの平穏が長久のものとなることを祈るばかりである。そんなことを考えながら、三毛猫はおいしい生肉を食むのだった。
この方々、一般的常識的な日常とは随分異なる世界を生きているので、色々と手間取りました。




