勇者の野望
なんとかと煙は高い所に登るというが、レーニンも高い所が好きである。設立準備室の棚の上を定位置と決めたのも、そこが室内最高峰であるからに他ならない。流石に鳥の目には敵わないが、眺望は抜群である。そして、何よりも、同居人の手が届かないというあたりが素晴らしい。安全は何物にも替え難い。
そんな猫の聖域で丸くなったレーニンは徐に下界を見遣る。優雅に寛ぐ猫と違って、下界の住人は忙しない。例えば、秘書官のエリオは宿題に追われている。同居人考案による数学力充填プログラムである。内容は初歩的な幾何や代数の問題らしいが、出題者の性向を反映して底意地が悪いらしい。問題は壁の黒板に掲示されているが、眠くなるので、三毛猫はなるべく見ないようにしている。
魔術を教えて欲しいと乞う相手に数学問題演習で応じるのは嫌がらせとも思えるが、面倒なことに、同居人は本気でこれが正道と信じている節がある。魔法と呼べばいかにも摩訶不思議な現象という感があるが、現代っ子である同居人は、メカニズムが不明ながらも、それが結局のところ一種の物理現象であると確信しているらしい。根拠はなさそうなので、信仰というべきか。
科学の言語とは即ち数学である。その意味で、数学を重視する同居人の姿勢は理由のないものではない。しかし、その勉学に即効性があるかといえば、甚だ疑問というのもまた事実である。手持ちサイズの黒板にカリカリと解答を書き込む少年の努力は、果たして報われるのだろうか。レーニンは心配を禁じ得ない。
一方、安心感に満ちているのが同居人である。室長席に堂々と鎮座し、薄い林檎ノートをスコールのように打鍵しながら、粛々と何かの作業を進めている。今日は朝からずっとこの調子である。仕事熱心は結構だが、単調な動作と生命感の薄いその容姿が相俟って、キーボードを叩く自動人形のようにも見える。
目を惹くのはその格好である。この世界にすっかり馴染んだということか、白い木綿のローブに大きな葉っぱのケープという、いかにもファンタジーな装いである。何かの紋様が刻まれた木製の腕輪や、同じく木製の髪留めと相俟って、いかにもエルフの見習い魔法使いという感を与える。装身具を木製で統一しているのは同居人の趣味である。履いているサンダルまで、固定用の革紐を除く全てが木製の特注品なのだから、その辺は徹底している。
どうして同居人がこんなコスプレをしているのか。その経緯は語ると存外長い。
第二常備軍設立準備室室長。国王直属の対魔王軍専門部隊の長であり、王立常備軍総長カイラル将軍と同格にある軍部の要人。建前を並べてそう説けばいかにも凄そうだが、実際には無任所特命大臣ほどの存在感もない。新設部局のため、動かせる予算がないのだ。設立の趣旨からすれば、大々的に募兵して何か部隊でも編成すべきなのだが、これはカネがないという一事によって非現実的なシナリオとなっていた。
しかし、そんなことは同居人にとってどうでも良かった。生活費は宮廷費と、何故か王立騎士団の工作費から滞りなく支出されていたし、同居人が当面やりたいことについては、常に『塔』が非公式な援助を行っていたからである。即ち、工作資材の提供と機材の貸し出しである。同居人のもつ異界の民という属性が有利に作用した格好である。王族相手の例の特別講義がそれなりに興味を喚起したことも幸いした。この小さな勇者様が何をするのか、『塔』の研究者も興味津々だったのだ。
異界の珍しい素材と技術に触発されたのか、当初の懸案であったびりびり石発電機が完成してもなお、同居人の工作意欲は衰えなかった。どうせ他にやることもないのである。エリオに数学など教えつつ、自信は気ままに工作に励んだ。そういうのが好きな性分なのである。相変わらず表情に変化は乏しいが、設計を検討する同居人は不思議と楽しそうに見える。
勇者としての職務放棄とも思える所業だが、それを咎める者は居なかった。寧ろ歓迎されていたというのが三毛猫の所感である。思えば、あのもふもふ王は豪奢な生活を餌として、同居人を籠の小鳥にしようとしていたのである。象牙の塔に籠って研究開発に勤しむ同居人は、段取りこそ狂ったものの、着地点としては似たようなものである。
同居人の放縦は許容され、それは大きな成果へと繋がる。びりびり石の小規模電源としての活用を模索していた同居人は、おもむろに水晶式マイクロフォン、その利用手段であるところの電話を完成させたのである。『塔』関係者との連絡に出向くのが面倒なので、内線電話が欲しかったらしい。
実際に結ばれたのは『塔』の内部、設立準備室のあるC研究棟と魔法工芸研究棟の間の短い距離でしかないが、原理的には王国を網羅しうる高速通信手段である。その実現は、王国の首脳部に大きな衝撃を与えた。彼らはよく理解していたのである、迅速な情報がどれだけ大きな武器となるかを。密かに王政府内に電信電話室なる新部署が設けられたのも決して過剰な反応ではなかった。
元より軍功など期待されていない飾り物の勇者である。しかし、地味ながらも関係者の度肝を抜く発明は、この異界人の持つ価値を王国の高貴な面々に突き付けることとなった。即ち、異界技術の生き字引としての価値である。姫君の暇潰しに催された茶番も、その認識を後押しすることに寄与した。ライデールすら凌駕する大国が犇めき、精巧な機械の力に支えられた異形の世界。その叡智の片鱗でも手に入れば、さぞかし有益なことだろう。そういう誘惑に、いよいよ偉い方々は逆らい得なくなったのである。
その結果が、同居人に授与された賢者の称号である。
それ自体は単なる名誉称号だが、この種の栄典の御多分に漏れず、種々のおまけが付属する。最も大きいのは『塔』の特別研究員資格の付与である。国費から研究費助成が受けられるのは勿論、王立魔術院事務局調達部による共同調達制度に参加できるようになる。貴重な魔法資材を『塔』の研究者で共同購入、共同利用し、資源効率を高めるというのがその名目だが、実質は資材調達の代行による手続負担の軽減である。担当部署の練度も高い。市場を駆使して、大抵の物ならば手に入れてくる。
勿論、他にもおまけはある。地味ながら、見逃せないのが魔術師資格の付与である。これこそが、同居人の格好を説明する理由でもある。実のところ、これをコスプレというのは正しくない。魔術師の地位に基づく、立派な正装なのである。
衣装それ自体もおまけである。異界から召喚された同居人が魔術師の正装など持っているはずもなく、ないと不都合なこともあるだろうからと贈られたものである。『塔』は同居人にどんな意匠にすべきか問い合わせてきたため、結果として同居人の趣味が反映されたものとなった。
状況は落ち着くところに落ち着いた感がある。三毛猫としては、このまま穏やかに日々が過ぎることを切に期待したいところである。しかし、聡明なこの小動物は、その期待が理由のないものであることを薄々察してもいた。この同居人、見た目に似合わず、存外荒事を好むのである。
「エリオ」
打鍵速度を維持したまま、同居人が徐に呼びかける。何気ない一言である。
しかし、穏やかな沈黙が破られたことで、途端に設立準備室に緊張が走る。殆ど同居人の人徳の賜物である。流石に、理由なく刃傷に及んだりはしないものの、その程度で同居人が丸くなるわけなどない。学究精神溢れる同居人の攻勢を間近で受けるエリオが身構えるのも、無理はなかった。
「な、なんだろう?」
「ちょっとお出かけしませんか」
「お出かけ?」
答える声が上擦る。存外普通なので意表を突かれた格好である。
「ええ、街の方を見てみたいのです」
そう言って、同居人は薄い林檎ノートの画面を示す。画面に広がるのは実に写実的な地図である。どうやら、あの得体の知れないUAVが撮影した像を繋ぎ合わせたものらしい。
もっとも、空撮画像など見慣れないエリオは、それが何なのか理解するのに時間を要する。
「えーっと、これは……平民街? なんでまた」
「ちょっとしたフィールドワークというやつです。故国には百聞は一見に如かずという諺もあります。資料のない部分も合せて、実地で調べねばなりません」
「調べるって、何を?」
「動員の可否とその限度です」
うにゃ? なかなか刺激的な言辞に、ごろごろしていた三毛猫は頭を上げる。
動員というのは、要するに、一般市民を集めて兵力とすることである。兵力として価値の高い若年男性に始まり、必要ならばより年長の者を集める。若人もおっさんも、可能な限り全部戦場送りにするような場合は、特に総動員と呼ばれる。総力戦を遂行する流儀の一つである。
勿論、同居人の言う『動員』は、通常の意味での動員ではあり得ない。国民がその身を挺して国家を護るという前提自体が国民国家のお約束に違いなく、加えて、動員を実効あらしめるためには、一度一通りの訓練を通じて兵隊としての基本を叩き込まれていること、即ち、徴兵制の実施が必要不可欠なのだ。言うまでもなく、王国にそんな制度はない。『動員』といったところで、文字通り、その辺の一般市民を掻き集める以上の意味はないだろう。
魔王軍の侵攻を察知して、応時に肉壁として並べるのも難しい。防御効果が疑問という以前に、所要量を必要な場所に配置する手段、つまり、大量輸送機関がない。こうなると、いよいよ何のために動員などという大行事を催すのかよくわからなくなってくる。
もっとも、エリオの疑問はそこではないらしい。
「動員って、平民を戦場に送るつもりなの?」
それは静かな問いかけだった。この少年にしては珍しい反応である。三毛猫はそっとその表情を窺う。
「必要ならばそうするでしょう。相手は我々よりも数で勝るのです。我々の独立と繁栄を維持するため、使えるものを使えるようにする必要があります」
「でも、平民を護り、導くのが貴族の務めじゃないか」
「その通りです。しかし、瞬間的にでも投入兵力を増やすことが、却って生存率の向上に寄与することもあります。よりよい結果のために、あらゆる方策が検討されて然るべきではありませんか」
肉壁にもならない素人集団をどう使えば生存率向上に寄与するのか知らないが、同居人の淡泊な態度はそれが紛れもない真意であると告げている。エリオもそれっきり俯いて黙ってしまった。
少年が説いたのは貴族の高貴な務めというやつである。弱い人々を護り、平和と秩序を維持するために貴族は平民の上に立ち、軍権を独占しているのである。そういう建前論である。しかし、建前であるが故に、それを正面から否定するような平民の動員案には反発を禁じ得ないのだろう。
青いなぁとレーニンは思う。しかし、嫌な青さではない。寧ろ、王国の人々を戦争の掛け金にしようと企む同居人の方が不気味である。この小娘、どうして既にしてこう発想が悪辣なのか。浅からぬ付き合いだが、レーニンにもよくわからない。
「何にせよ、我々は手持ちの道具を一通り確認する必要があります」
同居人が席を立つ。その手には、いつの間にか細身のダガーナイフが握られていた。抜身である。その凶器の存在に気付いて、エリオの表情が変わる。
「ちょ、ちょっと、そんなものを持ち出して何をするんだ」
「お出かけの前に、少々交渉の必要があります。合意を円滑に進めるための小道具です」
「それって脅迫って言うんじゃ」
「過程はどうでもいいのです。迅速に結果が得られることこそ重要です」
そう言って、同居人は揚々と設立準備室を退出する。木製サンダルの高い足音が着実に遠ざかる。
「よくわからないけど、人殺しだけはやめて欲しいな」
盛大な溜息ひとつ、エリオも立ち上がる。あの危うい勇者様を止めるのは彼の仕事である。やれやれと首を振る少年からは、そういう決意と覚悟と、若干の諦念が滲み出ていた。
棚の上から少年の出発を見届けたレーニンは、にゃ、と短く鳴いて丸くなる。その声は、人の出払った設立準備室によく通る。またも、同居人による愉快な茶番が始まったが、あれは眺めるにも神経を使うのである。今回は平和の牙城たる設立準備室で昼寝する方向で肚を決めていた。
しかし、安穏と惰眠を貪るには、この三毛猫は少々目聡過ぎた。何気なく設立準備室を眺めた時、不意に、あるものが目に留まってしまったのである。
室長の机の上に無造作に放置された薄い林檎ノート。畳まれずに放置されたそれは、未だ起動状態にある。その事実に気付いた三毛猫はごくりと唾を飲んだ。
お嬢様はどうにも明後日な方向に仕事熱心なご様子です。




