その頃、自宅では
ミハイルが散歩から帰ってくると、住み慣れた家は随分と様変わりしていた。敷地を巡回する歩哨の隙を突きつつ様子を伺ってみると、母屋の一角が綺麗になくなっていた。爆発でも外因による破壊でもない。空間そのものが抉り取られたかのようである。消失部には、測定器らしい柱状の機器が設置されていた。
流石の黒猫も、この事態には戸惑いを隠せなかった。母屋に何があったのかもわからないが、敷地を武装した兵隊が固めているというのも理解できない。しかも、普通の武装ではない。黒い、甲冑のようなパワードスーツである。腕には、少なくとも12.7㎜以上と思しき得物、背中にはSAMともATGMともつかない筒物がついている。明らかに堅気の装備ではない。
黒猫は無意識のうちに国籍記号を探る。こんな珍妙なものを繰り出す存在など、米軍以外に思いつかなかったからである。しかし、目ぼしい成果はない。肩に白い鎌のような部隊マークがついているだけで、他に所属を示すようなものは見つからなかった。非公式の特殊部隊か。そうでなければ、公安警察の敗北とでも言うべき事態である。
ミハイルは思考を巡らせる。第一の疑問はご主人の安否である。それに準ずるものとして、他の猫の安否もある。無事ではないというのが黒猫の直感である。ならば、自分も肉片とならないうちに、お暇すべきだろうか。君子危うきに近寄らず。それがクレバーな態度とわかっているが、黒猫の胸中には、この無粋な客人にちょっとしたおもてなしをしたいという欲求もあった。
警察を呼ぼう。そう黒猫は決心する。日本警察の想定を大きく超える相手だが、とりあえず官憲を呼べば早晩自衛隊が出動することになる。富士には戦車も居る筈である。彼らが動けば意趣返しには十分であろう。
最寄りの民家は歩いて一時間ほどのところにある。彼らを緊急通報に駆り立てる材料さえあれば、出たとこ勝負となるが、官憲をこの家に招くことができよう。問題はそのような衝撃を与える小道具にある。心当たりは、家の中にある。見立てが正しければ、そこにはあの少女の死体が転がっているはずだった。指のひとつも噛み切って持っていけば、目的は達せられよう。
ミハイルは改めて周囲を窺う。物騒なパワードスーツ部隊は相当な数が展開している。正門と裏門に2名ずつ。南の庭に3名。北の裏庭に2名。鉄筋コンクリート3階建の離れ屋上には少なくとも2名待機しているのが見える。恐らくは狙撃装備である。更に、敷地の外にも幾許かが展開している。結構な大所帯である。
それでも、地の利はミハイルにあった。何と言っても自宅である。それに、体躯の小さいことが幸いした。黒猫は、雨水用の排水溝から敷地内に潜入し、古い日本建築である母屋の床下を経由して、勝手口に併設された猫用入口から建物に潜入する。およそ直立する猿には利用不能な経路である。注意深く気配を探りながら、ミハイルは母屋を進む。
虱潰しに部屋を巡回するが、遺体はない。測定器のある母屋の消失部も確認してみたが、異常はともかく、凶事を窺わせるものは何もなかった。ゴミ箱や風呂にも目立った異常はない。測定器の様子も窺ってみたが、金属の柱に小さな操作用パネルがついているだけの代物で、正体や設置目的について手がかりを与えるようなものはなかった。
ならば離れか。ミハイルは油断なく母屋から退出し、再び床下に忍び込む。母屋と離れは渡り廊下で繋がっているが、そこを通るのは些か具合が悪かった。歩哨が置かれている可能性もあるが、それ以上に、間合いの読めない監視カメラが恐ろしい。この武装集団が偽装された入口に気付いたかどうかは定かでないが、セキュリティコントロールが掌握されている可能性も考慮されなければならなかった。
幸い、離れにも何箇所か猫用の出入り口がある。歩哨の目を盗み、ミハイルは最も目立たない台所の入口から離れに入る。内側にも、外側にも開く、跳ね上げ式の扉である。しかし、何の変哲もない扉のようで、主人の少女は、ちょっとした小細工を仕込んでいたらしい。ばねの働きで勢いを殺され、静かに閉じた扉から、アクチュエータの動作音がする。電子的に駆動する閂が差し込まれたらしい。
ミハイルは尻尾をぴんと立てて、扉の様子を探る。案の定、力を加えても、扉はびくともしない。
「帰ってきてくれて助かりました。探す手間が省けましたよ」
不意に後ろから声をかけられて、ミハイルはビクっとする。次の瞬間、首根っこを掴まれて、摘み上げられてしまった。見事な早業だった。これにはもう身を固くするほかない。大人しくしているうちに、腹に腕が回され、抱き締められる格好になる。ご主人とは違って、力加減を弁えた適切な抱擁である。
にゃあ?とミハイルは低く鳴く。どうして貴様がここに居る。黒猫は、もはや湧き上がる疑問と怒りを隠そうともしなかった。幸か不幸か、声の主には心当たりがあった。
「驚かせてしまったようで申し訳ありません。最悪の可能性を想定して、勝手ながら応援を呼ばせて頂きました。ちょっと気に障るかもしれませんが、辛抱してくださいね」
頭を撫でながら、執事君は黒猫に優しく語りかける。その言葉の端々に不審な点がみてとれるが、平生通りの温和な態度は、さしあたり彼に害意がないことを告げていた。
ミハイルは首を回して相手を見遣る。青みがかった黒髪に、紅玉のような瞳。紫外線に弱そうな白い肌と髪から飛び出る長耳は、ご主人と同郷であることを窺わせる。ご主人も正体不明だが、この執事君は一層のこと正体不明である。最悪の事態とはどういうことか。何故、応援にあんな大物を持ち出すのか。そんな小動物の疑問を打ち消すように、執事君は微笑んだ。
「まあ、僕がこんな手を打たざるを得ない程度には、異常な事態が起きたんです」
離れ1階の居間、無駄に巨大なテレビと、テーブルと、ソファーと、観葉植物だけが置かれた実にモダンな部屋に移動した執事君は、リモコンを手早く操作して、何かの映像を再生する。高解像度の空撮画像である。斜め上から母屋の一角をずっと見下ろしている。それは、明らかにUAVの視線である。
「イセリスから可視光領域の観測情報をクリッピングして得た画像です。まあ、見ていてください」
オーバーレイで後付されたと思しき時刻は、1時55分34秒を示していた。気付くと、画面中央、母屋の一角が不自然に歪み始める。ミハイルには、その領域が渦を巻いて深淵に呑み込まれるように見えた。現象はやがて収まり、母屋には空虚な隙間だけが残された。
「現代版神隠し(物理)といったところでしょうか」
執事君は再びリモコンを操作して、別の動画を再生する。これも基本的には空撮画像である。ただし、情報のレイヤーが違う。随分と暗くなった画像にくっきりと映える橙色の輪郭線は、そこに何者が存在していたのか、明瞭に示していた。異常現象によって切り取られた母屋の一角、こぢんまりとしたお茶の間には二つの輪郭が浮かんでいる。人体を思わせる細長いものと、それより幾分小さな丸い輪郭である。1時55分34秒、くっきりとした輪郭線が突如として霧散する。動画の再生が終わるまで、二度と輪郭線が現れることはなかった。
「ヨシフとニキタは確保済み、貴方もここに居ます」
お茶の間に居たのはご主人と怠惰な三毛猫らしい。炬燵の展開が嬉しいらしく、四六時中入り浸っていたなと、ミハイルは今更ながらに思い出していた。
「僕のところに緊急連絡がきたのですが、途中で切れてしまいました。慌てて駆けつけてみればこの有様です。参りましたね。今のところ、更なる攻撃を警戒しつつ、事態解明のための更なる情報収集を試みているところです」
執事君の口調はどうにも軽いが、事態の深刻さを反映してか、言いようのない苛立ちを含んでいた。しかし、彼は何と言ったか。『更なる攻撃』? この常識を超えた事態が、人為的なものだとでも言うのだろうか。胡乱げに見上げる黒猫の喉を優しく撫でながら、執事君は応じる。
「こういう面倒な現象は、理屈はどうあれ、人為を経なければ起こり得ないんですよ。必ず、どこかに責任者が居ます。どこに居ようとも追い詰める所存です。シーゼリーとレーニンの身柄も回収しますよ」
執事君が言う。それが腕の中で震える小動物に向けられたものか、それとも、自らに言い聞かせるものなのか、黒猫には俄かに判別がつかなかった。
こっちはこっちで大変そうです。




