第1話 まずは牢屋にて
――思えば、私がこの世界に転生したと気が付いたとき、そこは最悪の環境だった。
いつ、どうやって転生したのか、私には分からなかった。前世の名前も死因も思い出せないのに、ただ「転生したんだ」という強烈な実感だけがあった。
意識がはっきりしてきて最初に目にしたのは、カビの生えた食べ残しらしきパンの塊。次にそれをかじるネズミ。
鼻を突く悪臭。
見上げれば、冷たい鉄格子。
そこは間違いなく、牢屋だった。
そして、視界に入る自分の手は、驚くほど小さかった。視線を下げて観察してみると、そこにあったのは明らかに幼い子供の体。当然大人だろうと思っていたので、子供の姿に困惑した。
転生する前、この体がどんなふうに生きてきたのか、その記憶は一切ない。自分がなぜ閉じ込められているのかも分からず、ただ気だるく重たい体を丸め、膝を抱えてうずくまるしかなかった。
せめてもの救いは、この長い髪だ。
凍てつく空気から身を守るように、すっぽりと体を覆ってくれている。ほんの気休め程度とはいえ、寒さを紛らわすことができた。
暗闇の中、物音といえばネズミの鳴き声だけ。
どうすることもできず、ただただ怯えているしかなかった。
そんな酷い状況から、私の転生人生が始まった。
* * *
転生したと気づいてから、どれくらい経った頃か。
足音が近づき、明かりが見えた。
もしかしたら助けが来たのかも、と期待に胸を躍らせる。
けれど――その淡い期待は、吐き捨てられた怒号によって一瞬で砕かれた。
「悪魔め!」
だみ声が響き渡る。
明かりに照らされて、ぼんやりとだが声の主が浮かび上がった。
中世の修道士のような、白いローブ。お世辞にも整っているとは言えない顔立ち。例えるなら、ヒキガエル。いかにも意地悪な脇役といった顔をしていた。
(悪魔……? 私が?)
突然の意味不明な言葉に、恐怖心が増す。
怖くて後ずさりしようとしたが、足は床に縫い付けられたように動かない。
そうこうしているうちに、男はパンと水を牢屋の前に乱雑に置くと、足早に去っていった。再び暗闇に包まれる。ひとまず男がいなくなったことに、私はホッと胸をなでおろした。
(とりあえず――食べなきゃだよね)
暗くてパンと水の場所が分からない。明かりを見たせいで、暗闇に慣れていた目はまた見えにくくなってしまった。
鉄格子から手を伸ばしたところで、指先が何かに触れる。(あった!)と喜んだ瞬間、それを弾いてしまい、冷たい石畳の上で乾いた音を立てた。
(――最悪だ)
水をこぼした。
ここで折れてたまるか、と探り当てたパンを口に運ぶが――不味い。口の中の水分をすべて奪うような、パサパサのパンだった。
そんな最悪の食事が、何度か繰り返された。
食事を運んでくるのは、主にあのヒキガエルだ。ごくたまに、キツネ目の小男が代わりに来ることもあった。
ヒキガエルが持ってくるパンは、ほとんど食べられない代物ばかりだった。しかも、食事をわざと手の届かないところに置いたり、汚い床に落としたりと、嫌がらせも酷い。
一方、キツネ男のほうは私を相当怖がっているようで、食事を置くと逃げるように去っていく。その割には温かいスープを差し入れたり、時々ランプを置いていってくれたりした。ヒキガエルよりは全然良いやつだ。
真っ暗な牢屋の中で、その小さな明かりは本当にありがたかった。
ある時、光に照らされた飲み水を入れた器に、うっすらと自分の姿が映っているのに気が付いた。
年齢は5歳ぐらいに見える。肌は病的なほど白い。赤く見える瞳と、猫を思わせる釣り目。ボサボサの黒髪が、ぼんやりと水面に揺れていた。
(この顔、前世でどこかで見たような……)
赤目といえば、前世ではコスプレでしか見たことない。そういえば、ヒキガエルもキツネ男も、どう見ても日本人ではなかった。言葉が分かるのも不思議だ。
もしかして……いわゆる異世界転生?
だとしたら、どの世界に転生したのだろう。
前世の記憶からゲームや小説の知識を引っ張り出そうとしてみるが、靄がかかったように曖昧だ。ただ、体に染み付いたオタクとしての感覚だけは、妙に残っているようだった。
とにかくこの世界の情報が少なすぎる。
詮索するのは諦めた。
ある日、慌てた様子でやってきたヒキガエルが牢屋の扉を開いた。
「さあ、立て! 出てこい!」
立ち上がろうとするが足に力が入らない。ろくに食べていないのだから当然だ。
「おい、さっさと出ろ! 上の連中に見つかる前に、別の場所へ隠さないと……」
髪を引っ張られる。
(痛い! 酷い! 上の連中!? 何?)
訳が分からない。ヒキガエルはかなり焦っているようで、なりふり構わず私の体を引きずっていく。
(もう! 異世界転生ってチートで無双できるもんじゃないの? もしかして、魔法使えたりしない?)
心の中で『ファイアボール!』『ヒール!』『ライト!』と次々に念じてみる。力んでみるが、何も出てこない。
パニックになりかけたその時、いくつもの靴音が聞こえてきた。
「げっ、もう来たのか!」
ヒキガエルが驚いて、手を離す。私は硬い床に体を打ち付けた。ものすごく痛い。全身を打った衝撃にうずくまっていると、揺らめく複数の明かりがこちらへ近づいてきた。
痛む体を庇いながら薄く目を開けると……まるでファンタジー作品に出てくるような、騎士の恰好をした人たちがいた。整った西洋風の顔立ちで、赤や青など色とりどりの髪色をしている。
――異世界転生で決定だ。
ヒキガエルと私は騎士たちに取り囲まれる。
呆気にとられる私の視界に、1人の男の姿が映り込んだ。
年齢は50代後半ぐらいだろうか。
シルバーグレーの髪を手ぐしでざっくりかき上げたような、無造作なオールバック。ひと房だけ額にこぼれ落ちた黒い前髪。貫禄のある顎髭、鋭い目つき。声も発していないのに、その場の空気がぴんと張り詰めるのが分かった。
私はこの人を知っている。
――宰相、ウォルシング・レギスガルド。
自分の名前より先に『推し』の名前を思い出すとか、我ながらどうかしてる。
そう思ったその瞬間だった。
靄がかかっていた記憶が、一気に押し寄せてきた。
スマホ画面には、5人のイケメンキャラクター。
友人に勧められて何気なく始めたそのアプリは、私がハマったゲームの1つだ。メインキャラクターたちを好きな組み合わせで自由にカップリングできるという、夢のようなBLゲームである。
腐女子の私はそれだけでも楽しかったが、私を夢中にさせたのは宰相様の存在だった。主要キャラクターではないが、宰相様は枯れ専の私にとってまさにクリティカルヒットだったのだ。
威厳ある風格に、知性あふれる佇まい。冷酷で鋭い目つきには、若いキャラクターたちにはない大人の色気が漂っていた。
なのに出番は少なく、登場しても恋を引き裂こうとする『お邪魔キャラ』的存在だった。
私から見れば、邪魔をしているというか……宰相様は宰相の仕事をしていただけだと思う。それなのに、ルートによっては失脚したり暗殺されたりと、決して報われない。
そんな彼がかわいそうで、愛おしい。どうか幸せになってほしくて、二次創作でハッピーエンドの妄想をいくつも書き殴ったほどだ。
そんな『推し』が目の前にいる。
間違いない、ここは『光のラヴァーズ』というBLゲームの世界だ。
そのゲームに登場する黒髪赤目のキャラクターは1人しかいなかった。
――悪役令嬢モルガナ・レギスガルド。
ゲームではモルガナは宰相の養女という設定だった。つまり、私は「推し」の娘になれる?
地獄から一気に天国への急浮上だ。




