第五章 増えていた一行
「彼女が口にした願いは、一つだけじゃない」
千鶴がそう告げると、奈々は激しく首を横に振った。「違う!」
奈々の声色は、すでに変わっていた。「お母さんが元気になりますようにって、それだけ。私、本当に一つしかお願いしてない!」
神崎は奈々を見据えた。「よく思い出せ。参拝したあと、ほかに何か言わなかったか」
「言ってない……」奈々は頭を抱えた。「鈴を鳴らして、手を叩いて、それからお願いをして……そのあと、お母さんが私を呼ぶ声が聞こえて、振り返ったの」
「そのあとは?」
「そのあと……」奈々は不意に口をつぐんだ。神崎は急かさなかった。奈々の呼吸が次第に速くなる。「私……何か言ったかもしれない」
「何を言った?」
「分からない。あのときは怖くて、後ろからずっと誰かに呼ばれて……それで走って、鳥居まで来たとき……」
奈々は目を見開いた。「『帰らせて』って、言った」
神崎は眉をひそめた。「それだけか?」
「うん」
千鶴は何も言わず、証拠品袋に入った紙を取り出した。
【第一願 償い済み】
「もし神社が、その言葉まで願いとして受け取ったのなら……二つ目の願いは、『彼女を帰すこと』になる」千鶴はそう推測した。
奈々の顔から血の気が引いた。「じゃあ、その代償は何なの!」
誰も答えなかった。
神崎は時刻を確かめた。「今夜は彼女をここに泊める。二人、見張りにつけろ。異常があれば、すぐに俺へ連絡しろ」
そう言い終えると、神崎は千鶴を見た。「俺たちは、ある場所へ行く」
* * *
四十分後、二人は市立民俗資料館に着いた。以前、千鶴が神崎に見せた『雨見地方祭祀録』の原本が所蔵されている場所だ。
地下の収蔵庫で、職員が原本を取り出した。分厚い本だった。
千鶴は手袋をつけ、見慣れた箇所まで素早く頁を繰った。「夜行祭……」
その手が、ぴたりと止まった。神崎はすぐに気づいた。「どうした?」
千鶴は答えず、目次へ戻り、また同じ箇所を開いた。それを二度繰り返した。
「これは、私が読んだ本じゃない」
神崎は表紙へ目をやった。「初版だ。前に読んだものも?」
「それも初版。でも、この本は頁数が合わない」
神崎は本をのぞき込んだ。214頁の次は、本来なら215頁のはずだった。ところが実際に続いていたのは、『214頁の二』だった。
「前からこんな頁があったのか?」
「なかった」千鶴は即答した。
「この本を七年も研究してきた。間違いない」
神崎はそれ以上追及せず、尋ねた。「あとから差し込まれた頁じゃないのか?」
千鶴は綴じ目を指でなぞった。いったん解体して綴じ直した跡はない。紙の黄ばみも完全に同じだ。端の虫食いさえ、その頁へ自然につながっていた。
千鶴は読み始めた。頁の見出しは――『雨見夜行祭補遺』。
その下には、すでに失われた祭祀の手順が記されていた。
『潔斎――献塩――消火――迎神――名告り――献願』
神崎は末尾まで目を走らせた。「夜行神社と関係があるのか?」
「よく似てる」千鶴は一行を指した。「献願ののち、願いを送る者は境を出る。振り返るべからず」
神崎は奈々の話を思い出した。「あいつは振り返った」
「ええ」
「それで、門もあの子について戻ってきたのか?」
「可能性はある」千鶴はさらに下を追った。本来なら何もないはずの頁の最下部に、小さな文字が一行だけ記されていた。
明らかに書体が違う。印刷ではなく、あとから誰かが筆で書き加えたように見えた。
【名留め】
二人は同時に黙り込んだ。神崎が訊いた。「どういう意味だ?」
「私にも分からない」千鶴は首を振った。「どうして手順がもう一つ増えてるの?」
千鶴はスマートフォンを取り出した。研究用に、本の重要な頁は一通り撮影してある。ほどなくして、214頁の写真を見つけた。
神崎はスマートフォンを受け取った。三年前に撮ったものだ。同じ本、同じ頁。内容も最後まで完全に一致している。だが、増えた手順も、いま目の前にある『214頁の二』も写っていなかった。
「誰かが本をすり替えたのか?」
「ありえない」千鶴は巻末の蔵書印を見た。
管理番号は一致していた。職員によれば、この本は過去十一年間、一度も資料館の外へ出ていない。
神崎はしばらく黙り、告げた。「鑑定に回そう。紙、墨、綴じ。全部だ」
だが、千鶴はまだ、『名留め』という文字を見つめていた。
そのとき、収蔵庫の奥から音がした。
さっ。
紙をめくったような、ごく小さな音だった。
二人は同時に振り向いた。誰もいない。並んだ書架があるだけだ。
さっ。
また聞こえた。今度は右側から。
神崎が近づくと、音は止んだ。書架には数十冊の郷土誌が並んでいる。そのうち一冊だけが半分ほど抜け出していた。『雨見市史・民俗編』。
神崎は手袋をつけ、本を抜き取った。その途端、本はひとりでに開いた。いきなり何頁もめくれたのではない。一頁、また一頁と、ゆっくり後ろへめくられていく。
最後に、一枚の白黒写真のところで止まった。
題は――『雨見夜行祭』。
数十人の村人が、一つの神社の前に立っている。その神社を見た瞬間、神崎の目つきが変わった。
鳥居、石段、拝殿。死者のスマートフォンに残っていた夜行神社と、ほとんど瓜二つだった。
「こんなものが、昔から存在していたのか?」
千鶴は答えなかった。写真を凝視している。神崎はすぐ、彼女が見ているのは神社ではなく、人だと気づいた。
写真の最前列には十三人が立っていた。十二人は白い祭装束を身につけている。だが、最後の一人だけは現代の服――高校の制服を着ていた。
神崎は近づいて目を凝らした。少女はうつむき、胸元には赤いお守りを下げていた。
「……」
神崎はスマートフォンを取り出し、画面に奈々の写真を表示した。
二人の顔は、まったく同じだった。
神崎はすぐ、写真の脇にある掲載情報を確認した。この写真が本に収録されたのは一九七〇年代。奈々が生まれるより、はるか以前だ。
「なあ、千鶴」
「見えてる」声はかすかだった。
神崎は写真の人数を数え直した。十三人。ふと、先ほどの文字――『名留め』を思い出した。
そのとき、千鶴のスマートフォンが鳴った。警察署からだった。
神崎が電話に出た。「どうした?」
電話の向こうで、警官が息を切らしていた。「神崎警部……奈々が、消えました!」
神崎の表情が険しくなる。「監視カメラは?」
「部屋からは出ていません。カメラにもずっと映っていました。十五時四十二分までは椅子に座っていたんです。それが一分後には……椅子が空になっていました」
神崎は反射的に画面の時刻を見た。十五時四十三分。
すぐそばで、紙の擦れる音がした。
ゆっくり振り向く。
白黒写真が、変わっていた。
最前列は、変わらず十三人。だが、さっきまでうつむいていた奈々が、今は顔を上げていた。写真越しに、カメラを見つめている。
いや。
神崎は気づいた。
奈々が見ているのはカメラではない。
写真の外にいる、自分だ。
そして奈々の背後――拝殿の入口に、いつの間にかもう一人、人影が増えていた。
その人物は黒いコートを着ていた。
体格も、髪形も……神崎とまったく同じだった。




