第六章 第十三人目
神崎は、その写真に触れなかった。写真の中の「自分」は拝殿の前に立っている。距離がありすぎて、顔立ちまでは判別できない。
だが、黒いコートも、背丈も、立ち方も、神崎と酷似していた。
それ以上に異様なのは奈々だった。彼女は十二人の祭祀役の隣に立ち、顔だけを写真の外へ向けている。
「さっきまで、うつむいていた」
「ええ」千鶴はスマートフォンを取り出した。「さっき撮っておいたわ」
撮影したのは三分前だ。スマートフォンの画像では、奈々はまだうつむいている。だが、机の上にある原本では、すでに顔を上げていた。
同じ写真なのに、二つの像は食い違っていた。
「誰も何も触るな」
神崎はそう告げてから、管理人を呼んだ。
管理人は松浦という。資料館に勤めて二十七年になる男だった。
神崎は『雨見市史』を松浦の前へ押し出した。
「この写真に見覚えはありますか」
松浦は眼鏡を押し上げた。
「もちろんです」
「何が写っているんです?」
「昭和二十九年の夜行祭ですよ」
神崎と千鶴は同時に松浦を見た。
「夜行祭?」
「ええ。昔は雨見市でも有名な祭りでした」
あまりにも自然な口調だった。千鶴はゆっくりと眉を寄せる。
「松浦さん」
「どうしました?」
「この土地に、いつから夜行祭なんてものがあったんですか」
松浦は一瞬、目を丸くした。
「何を言っているんです?」
「先月、私たちはこの本について話しましたよね。そのとき松浦さん自身が、雨見市には『夜行祭』という土地の祭りは存在しないと、そう言ったじゃないですか」
松浦の表情が、次第に奇妙なものへ変わっていった。
「私が、ですか?」
「ええ」
「ありえません」松浦は首を横に振った。「私も子どもの頃に参加しているんですよ」
資料室が静まり返った。千鶴はそれ以上、何も言わなかった。
「松浦さん、おいくつですか」神崎が尋ねた。
「六十二です」
「生まれた年は?」
「昭和三十九年です」
神崎は写真を指した。
「これは昭和二十九年です。あなたが生まれる十年前だ」
「それは知っていますよ」松浦は質問の意図が分からないようだった。「その後も行われていたんです」
「最後に開かれたのは、いつですか」
松浦は口を開いた。だが、答えは出てこなかった。
数秒が過ぎ、眉間のしわが徐々に深くなっていく。
「最後は……たしか……」
松浦は天井を見上げた。
十秒。
二十秒。
額に汗がにじんだ。
「おかしいな。どうして思い出せないんだ?」
「祭りはどこで行われていたんです?」神崎は続けて尋ねた。
「夜行神社です」
「神社の住所は?」
「すぐ、そこに……」
松浦はまた動きを止めた。
「すぐ……そこに……」
「違う」松浦の顔から血の気が引き始めた。
「どこにあるんです?」
「私は確かに行ったんです。子どもの頃、何度も行った。大きな鳥居があって、その下にはりんご飴の屋台が並んでいて、母が私の手を引いて……」
松浦の身体が突然こわばった。神崎はその顔を見据えた。
「どうしました?」
「母は、私が三歳のときに亡くなっているんです」
松浦はゆっくりと顔を上げた。誰も言葉を発さない。彼の顔から、わずかに残っていた血の気まで失われていった。
「では、私の手を引いていたのは誰なんだ?」
…………
神崎はただちに聞き取りを打ち切り、松浦を職員に付き添わせて休ませた。
千鶴は資料棚の前に立ったまま、口を閉ざしていた。
「千鶴。どう見る?」
「記憶よ」
「もう少し具体的に」
「資料が書き換わったあと、人の記憶まで一緒に書き換えられた」
「それなら、なぜ俺たちは変わっていない?」
千鶴は首を横に振った。
「分からない」
神崎はスマートフォンを取り出し、「雨見 夜行祭」と検索した。昨日までは、まともな検索結果などほとんどなかった。
今は四百件を超える情報が表示されている。
地域掲示板、個人ブログ、古い新聞のデジタルアーカイブ。さらには、十年前に書かれた観光記事まであった。
記事の見出しは――『雨見市でもっとも謎めいた伝統祭――夜行祭』。
神崎がページを開くと、祭りについて詳しく記されていた。
毎年八月十三日に開催。十三人の神迎え役が儀式を担い、午前零時に始まり、午前一時に終わる。
最後には、十三人全員で神を集落の外へ送り出さなければならない。
「十三人……」
神崎の指が止まった。千鶴が隣へ寄る。記事の下には、もう一枚写真が掲載されていた。
白装束の者たちが鳥居の下に並んでいる。撮影されたのは平成十九年。
千鶴は人数を数えた。
「十二人しかいない」
「説明文は?」
神崎は画面を下へ送った。写真の説明には、こうある。
十三人の神迎え役、記念撮影。
だが、写真に写っているのは十二人だけだった。
画像を拡大すると、十二人の間に明らかに不自然な空間がある。まるで、そこにもう一人立つはずだったかのように。
「前に見た、あの写真」千鶴が不意に言った。
二人は机へ戻った。昭和二十九年の写真は、まだ同じ場所にある。
一列に並んでいるのは十三人。白装束の祭祀役が十二人。
そして、奈々。
神崎はスマートフォンに残る古い画像を表示した。奈々が立っている場所は、撮影した時点では同じように空いていた。
「一人増えたんじゃない」神崎は言った。
千鶴が神崎を見る。
「あの場所は最初から、誰かが入るのを待っていたんだ」
そのとき、神崎のスマートフォンが震えた。
警察署からの連絡だった。奈々が見つかったという。いつ戻ったのか、誰も目撃していない。十五時五十八分、警察官の一人が部屋の扉を開けたときには、奈々はすでに元の椅子に座っていた。
神崎はすぐに電話をかけた。
「奈々の様子は?」
『けがはありません』
「どこへ行っていたのか、聞いたか?」
電話の向こうで、相手が一瞬黙った。
『聞きました』
「何と答えた?」
『どこにも行っていない、と』
『それから……』警察官の声には、はっきりと動揺がにじんでいた。『神崎警部。あの子は、ずっと同じことを聞いてくるんです』
「何を?」
『どうして、祭りに出るため家へ帰らせてくれないのか、と』
神崎の目つきが変わった。
「何の祭りだ?」
受話口から、奈々の答えを復唱する声が聞こえた。
『夜行祭です』
千鶴はすぐにスマートフォンへ顔を寄せた。
「以前にも参加したことがあるか、聞いて」
数秒後、警察官が答えた。
『毎年、参加しているそうです』
神崎の手に力がこもる。奈々は今年十七歳だ。だが、三十分前まで、彼女は「夜行祭」という名前すら知らなかった。
神崎は、あることに気づいた。
「今年、奈々は何を担当することになっている?」
電話の向こうが、再び静かになった。間もなく、警察官の声が返ってくる。
『今年は……自分が「名留め」をする番だと』
神崎と千鶴は同時に、突然一頁増えた『雨見地方祭祀録』へ目を向けた。
十三。そして、名留め。
千鶴はすぐに次の頁をめくった。その手が止まる。
「神崎」
「どうした?」
「ここも、また変わってる」
空白だったはずの次頁に、文字が現れていた。手書きではない。本のほかの部分とまったく同じ、古い活字だった。
記されているのは、わずか三行。
名留めの者、社に入る。
旧き名、再び呼ぶべからず。
十三人揃いし時、夜行始まる。
神崎は最後の一文を見つめた。
「十三人が揃ったら、何が起きる?」
千鶴は答えなかった。
資料室の照明が、突然すべて消えたからだ。
暗闇のどこかから、澄んだ鈴の音が響いた。
ちりん――
一度だけ。
続いて、書架の奥から少女の声がした。
「神崎さん」
奈々の声だった。
だが、奈々は今、警察署にいる。
神崎は懐中電灯をつけ、光を並んだ書架の間へ走らせた。
誰もいない。
二度目の鈴が鳴った。
ちりん――
今度は、先ほどより近い。
千鶴が突然、神崎の手を押さえた。
「それ以上、前を照らさないで」
神崎は手を止めた。
「何が見えた?」
千鶴は答えず、床を指さした。
懐中電灯の光が、そこへ止まる。二人の前にある影は二つだけ。だが、書架の奥の床には、もう一つ影が伸びていた。
ひどく長い影だった。微動だにせず、頭には何か高い冠のようなものを載せている。
神崎はゆっくりと懐中電灯を持ち上げた。だが、それより先に影が動いた。
影は二人へ近づこうとはせず、片腕を上げ、神崎の背後を指さした。
千鶴の顔色が一瞬で変わった。
神崎は振り向かなかった。すでに、うなじに誰かの吐息を感じていたからだ。
かすかで、ひどく冷たい吐息。
次の瞬間、見知らぬ男の声が、耳に触れるほど近くで囁いた。
「あと一人――お前が足りない」




