第四章 壁の向こうの人
扉の隙間が現れたあと、誰も動かなかった。最初に消えたのは音だった。
警察署の廊下には、遠くの電話や足音、プリンターが動く音が聞こえていた。
だが、その瞬間にすべてが消えた。
神崎には、自分の呼吸音さえ聞こえた。
壁に浮かんだ扉の隙間は細く、向こうには光がない。ただ湿った匂いだけが、ゆっくりと漏れ出していた。
千鶴は隙間を見据えた。「全員、下がって」
神崎は動かなかった。「なぜだ?」
「この扉は、私たちのために開いたものではありません」
言い終えると同時に、扉の向こうから足音が響いた。軽い足音が、少しずつ近づいてくる。
奈々は真っ青になった。「お母さん……」
千鶴は勢いよく彼女を見た。「呼ばないで」
「でも……」
「誰の声が聞こえても、決して名前を呼ばないで」
奈々は唇を強く噛んだ。
足音が扉のすぐ向こうで止まった。次の瞬間、扉がわずかに押し開かれた。
暗闇の中には何も見えない。
神崎が懐中電灯を取り出すと、千鶴がすぐにその手を押さえた。「照らさないで」
「理由は?」
「中にいる何かが、こちらを見ていないとは限りません」
神崎は彼女を見た。「明かりをつけなければ解決するのか?」
「少なくとも、こちらがそれを見たと教える必要はありません」
その言葉が終わった直後、扉の向こうから弱々しい女性の声がした。
「奈々」
先ほど電話から聞こえた声と同じだった。
奈々は全身を震わせ始めた。「お母さん……」
千鶴はその手首を強く握った。「答えないで」
「奈々」
再び声がした。
今度はもっと近い。唇を扉の隙間に当てているかのようだった。
「お母さん、寒いの」
奈々の目から涙が止めどなく落ちた。
神崎は扉の隙間を見つめた。「病院とは連絡がついたか?」
後ろの警察官がすぐに携帯電話を確認した。「ずっと話し中です」
「つながるまでかけ続けろ」
警察官はもう一度、電話をかけた。
同時に、扉の向こうの女が小さくすすり泣き始めた。
「奈々……」
「どうしてお母さんを無視するの?」
奈々の肩が激しく震えた。
神崎は声を落とした。「俺を見ろ」
奈々は顔を上げた。
「母親が入院している病院は?」
奈々が病院名を答えた。
「何階だ?」
「七階です」
「病室は?」
「七一二号室」
「最後に会ったのはいつだ?」
「昨日の午後です」
「そのとき、何を着ていた?」
奈々は一瞬戸惑った。「病衣です」
神崎はうなずいた。「覚えておけ。扉の向こうのものは君の名前を知っている。だが、母親のすべてを知っているとは限らない」
奈々は呆然とした。
神崎は扉の隙間へ向き直り、呼びかけた。「美紀」
千鶴の顔色が一瞬で変わった。「名前を呼んではだめ!」
もう遅かった。扉の向こうで、泣き声が止んだ。
廊下は再び静まり返った。
数秒が過ぎた。
中から一人の女性の声がした。
「神崎さん」
神崎の目が冷たくなる。それは彼を知っていた。
「どうして俺を知っている?」
返事はない。代わりに、年老いた男の声が響いた。
「神崎」
その声を聞いた瞬間、神崎の指が硬直した。
千鶴は変化に気づいた。「知っている人ですか?」
神崎は答えなかった。扉の向こうの老人が、もう一度呼んだ。
「神崎」
今度は、よりはっきりと聞こえた。
神崎がその声を聞くのは十二年ぶりだった。十二年前、交通事故で亡くなった父の声。
奈々は呆然と彼を見た。「誰なんですか?」
神崎はやはり答えなかった。
だが、扉の向こうの者が笑い始めた。それは父の笑い声ではない。幾人もの声が重なっていた。
全員が笑っている。
扉の隙間がさらに広がり、中に苔むした石段の一部が見えた。
しかし警察署の壁の向こうにあるのは、本来なら別の事務室のはずだった。
千鶴の顔色はますます険しくなった。「扉を閉めて」
神崎は彼女を見た。「どうやって?」
「開けることができた以上、何らかの『入界』の規則に従っているはずです。それを見つけて!」
千鶴は扉の赤い縄を凝視し、不意に奈々へ尋ねた。「神社を出る前、何かしませんでしたか? 振り返ったこと以外に」
奈々は必死に記憶をたどった。「私……御守りを拾いました」
「ほかには?」
「何も」
「本当に?」
奈々の顔がさらに青ざめた。数秒後、何かを思い出して目を見開いた。
「写真を一枚、撮りました」
神崎はすぐに奈々を見た。「携帯を貸せ」
奈々はロックを解除し、写真フォルダを開いた。最後の一枚は神社を撮ったものだった。撮影時刻は十五時二十六分。画面に人影はなく、拝殿だけが写っている。
千鶴が写真を拡大した。次の瞬間、その手が止まる。拝殿の最奥に、白衣をまとった者が立っていた。顔は影に覆い隠されている。
そして、その者の足元には……一足の靴が置かれていた。
神崎は眉を寄せた。「どういう意味だ?」
千鶴は答えず、さらに写真を拡大した。
靴は爪先を外へ向け、敷居の前にきちんと揃えられている。
「古い葬送の習わしや神隠しの伝承では、靴の爪先を外へ向けるのは、その者が現世を去る支度を整えたという意味です」
奈々の顔から一気に血の気が引いた。「でも、それは私の靴じゃありません」
「分かっています」
千鶴は写真の靴を凝視した。「問題は……なぜそれが、あなたの願いの中に現れたのかです」
そのとき、扉の向こうの石段から足音が響いた。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
濡れた裸足が石の上を踏み、少しずつ近づいてくる。
神崎が顔を上げた。扉の隙間の暗闇に、青白く濡れた裸足がゆっくりと現れた。
続いて二つ目、三つ目、四つ目。扉の向こうに折り重なるように並び、大勢の者が外へ出るのを待っているかのようだった。
千鶴は突然、奈々の手にある写真を見た。「写真を削除して」
「え?」
「今すぐ!」
奈々は慌てた手つきで削除ボタンを押した。
写真が消えた次の瞬間、壁の扉が激しく閉じた。
バン!
すべての音が同時に戻った。電話の呼び出し音、足音、話し声。何事もなかったかのように、壁も元の姿に戻っている。
扉も、赤い縄もない。ただ床に小さな水溜まりだけが残っていた。
神崎が視線を落とすと、水の中には裸足の足跡がいくつもあった。壁際から続き、奈々の目の前で途切れている。
そのとき、警察官の携帯電話が鳴った。
「病院につながりました!」警察官はすぐにスピーカーを入れた。
「警察です。七一二号室の美紀さんは、今どのような状態ですか?」
電話の向こうで短い沈黙があった。看護師の声は困惑していた。
「美紀さん?」
「はい」
「少々お待ちください」
すぐに資料をめくる音が聞こえ、看護師が言った。「お間違いではありませんか? 当院にそのような患者はいません」
奈々は勢いよく顔を上げた。「そんなはずありません! 母は七一二号室にいます!」
看護師はもう一度確認した。「七一二号室は今、空室です。それに……この半年間、美紀という患者が入院した記録はありません」
神崎は何も言わなかった。奈々の顔から、少しずつ血の気が失われていく。震える手で携帯電話を開くと、連絡先に『お母さん』と登録していた番号が消えていた。メッセージも、写真も、通話履歴も、すべて消えている。まるで、その人が初めから存在しなかったかのように。
ただ一つ、机上の証拠品袋に入った『美紀』の紙だけが残っていた。
神崎は紙へ視線を落とした。二行目の文字が変わっている。もとあった【代償者:佐伯奈々】は消えていた。
代わりに、新たな一文が記されている。【第一願、償い済み】
千鶴はその文字を見つめ、長いあいだ何も言わなかった。
「第一願? どういう意味だ?」神崎が千鶴を見た。
千鶴は顔を上げた。先ほどよりも低い声だった。「これが第一の願いなら……彼女は願いを一つしかしていないわけではない、ということです」




