第三章 願成会
紙に現れた「奈々」の二文字は、滲むことも、それ以上広がることもなかった。
神崎は数秒見つめてから言った。「写真を撮って、保管しろ」
「これも……証拠品にするんですか?」そばの警察官は明らかに戸惑っていた。
「当然だ。死者が文字を書けるかどうかは問題じゃない。重要なのは、誰かが彼女の名を知っているということだ」
「私、死ぬんですか?」奈々の顔は青ざめていた。
誰もすぐには答えなかった。
千鶴は紙を見た。「ひとまず家には帰らないでください」
「どうして?」
「あなたはもう、『記されて』います」
奈々の唇が恐怖でかすかに震えた。
「どういう意味ですか?」
「分かりません」千鶴は率直に答えた。
その一言で、部屋はかえって静まり返った。神崎は千鶴を見た。「さっき、これは代償だと言ったじゃないか」
「文字どおりに解釈しただけです」千鶴は声を落とした。「本当の規則は、まだ見つけられていません」
……
奈々は一時的に警察署で保護され、神崎は技術部門に、いわゆる『願成会』の調査を命じた。
結果は予想以上に早く出た。サイトは確かに存在したが、普通の掲示板ではなかった。
検索窓も、登録ページも、ホーム画面さえない。特定のリンクを経由しなければ入れない。
技術担当者が画面をスクリーンに映した。黒い背景に白い文字。最上部に一文だけある。【あなたは何を叶えたい?】
その下には投稿が並んでいた。ユーザー名もアイコンもなく、題名はいずれも短い。【父に目を覚ましてほしい】【試験に合格したい】【あの女が消えますように】……
神崎は一通り眺めた。「その女についての投稿を開いてくれ」
ページの読み込みに数秒かかった。本文には一文しかない。『叶いました。ありがとう』
投稿日は三日前だった。
「IPアドレスは?」神崎が眉を寄せた。
「追跡できません」
「サーバーは?」
「海外のサーバーを十数か所も経由し、最後は存在しないドメインに行き着きました。登録情報もありません」
「それと、もう一つあります」技術担当者が言葉を切った。
「この投稿……日時のおかしいものがあるんです」
「どういう意味だ?」神崎が聞いた。
技術担当者が一件を開く。投稿日は二〇〇八年七月十四日。神崎はアドレス欄を見た。このドメインが登録されたのは今年だ。
さらにいくつかの投稿が開かれた。二〇〇八年、一九九六年、一九八一年。中には一九六四年のものまである。
「六〇年代にインターネットがあったのか?」
「だから、おかしいと言っているんです」技術担当者が答えた。
誰も何も言わなかった。千鶴が画面へ近づいた。「もっと下へ」
ページをスクロールしていくと、やがて一つの分類が見つかった。【参拝記録】
開くと文字はなく、写真だけが何枚も並んでいた。すべて夜行神社を写したものだ。港で撮られたもの、雨の夜に撮られたもの……病院の廊下の突き当たりに写っているものまである。
神崎の視線が止まった。「この写真だ!」
青白い病院の照明の下、廊下を塞ぐように赤い鳥居が立っている。撮影時刻は昨夜。病院名は、奈々の母親が入院している場所と同じだった。
奈々の願いはすでに叶った。そして神社は……母親のもとへ行っていた。
神崎はすぐに携帯電話を手に取った。「病院へ連絡しろ」
電話をかけ、つながるのを待っていた数秒のあいだに、技術担当者が声を上げた。「神崎警部、新しい投稿です!」
画面の最上部に、たった今投稿された記録が現れた。題名は【代償開始】。
本文はなく、写真が一枚だけ添えられていた。
神崎は硬直した。写っているのは警察署の廊下だった。低い位置から、誰かがしゃがんで盗撮したような構図だ。写真の奥では、奈々が長椅子に座ってうつむいている。
そして奈々の背後の壁には、見たこともない扉が一つ増えていた。扉には赤い縄が掛けられている。
技術担当者が勢いよく振り返った。廊下は部屋のすぐ外だ。全員が同時に立ち上がり、神崎が真っ先に扉を開けた。
奈々はまだそこに座っていた。壁には何もない。頭上の照明だけが明滅している。
「奈々」神崎が呼びかけた。
少女はゆっくり顔を上げた。その顔は恐ろしいほど青ざめていた。「さっき……壁の中で、誰かが扉を叩いていました」
ドン。
全員が聞いた。音は廊下右側の壁の内側から聞こえた。
ドン。
もう一度。一定の間隔で、急ぎもせず、ゆっくりと。
千鶴は壁を見据えた。「応えてはだめ!」
三度目の、ドン。
奈々は不意に口元を押さえ、涙をこぼした。「お母さんです」
「何だって?」神崎が振り向いた。
「中から、私を呼んでいます」奈々は壁から目を離さなかった。
しかし廊下には、扉を叩く音以外、何も聞こえない。
奈々は何かに引き寄せられるように、ゆっくり立ち上がった。千鶴がその手首を掴む。「近づかないで!」
奈々は全身を震わせた。「でも……寒いって言ってるんです」
四度目の、ドン。
その音を最後に、扉を叩く音は止んだ。数秒後、奈々の携帯電話が鳴った。
着信表示は【お母さん】。
神崎は端末を受け取ってスピーカーを入れた。電話の向こうは静かで、かすかな雑音しか聞こえない。やがて、一人の女性の声が響いた。
「奈々……」
「お母さん!」
「話すな」神崎は奈々の口元を手で塞いだ。
電話の女は数秒黙り、また口を開いた。「奈々、開けて。開けて、開けて」
声は同じ言葉を繰り返し、次第に速くなった。最後には、ほとんど雑音と溶け合ってしまう。
千鶴が突然、携帯電話を奪い取り、そのまま通話を切った。
次の瞬間、廊下の壁から小さな音がした。
カチャリ。
全員が見た。平らだったはずの壁に、ゆっくりと一本の扉の隙間が浮かび上がっていく。




