第四話 アトリエのはじまり
引っ越しの荷物が届いた日の夜。
夕食の片付けをしていたときだった。
双子と遊んでいるミケを見ていると、ふと疑問が浮かんできた。
「そういえば、ミケはどこに行ってたんだ?」
「我か?ちと出かけておっただけじゃ」
「ふーん。そうなんだ」
ミケの話に頷いていると「それで?お主は誰なじゃ?」と尋ねられた。
「あ、ごめん。俺の名前は柏木 陽翔。この家を買って、この間引っ越してきた」
「陽翔か。良い名だな」
「それはどうも」
名前を褒められて悪い気になる奴はいない。つい顔がにやけてしまった。
「ミケはね、この辺の猫のボスなんだよ」
「ミケは凄いんだよ」
得意げに胸を張る双子が微笑ましい。双子からミケへと視線を移すと、目を細めたミケの尻尾が大きく揺れていた。
俺の視線に気づいたミケは、ふんっと鼻を鳴らし「長く生きてるだけだ」と素っ気なく言った。
「長く生きてるだけ立派だろ」
俺がそう言うと、きょとんとしたミケが慌てて目を逸らした。だけど、ゴロゴロと喉が鳴っている。分かりやすい。
そのとき、カリカリと窓を引っ掻く音がした。それに気がついた双子が窓へと走り、ガラガラと開け放つ。
そこには、月の光を反射した黄色い目が礼儀正しくずらりと並んでいた。初日の晩から毎日のようにやって来る猫たちに、俺もすっかり絆されていた。一匹ずつ猫ビスケットを渡すようにまでなってしまっている。
「おう、お前らか。今帰った」
先ほどまで喉を鳴らしていた猫と同じ猫とは思えない雰囲気を纏い、重みのある低い声を出したミケが雑草だらけの荒れ果てた庭へと出ていく。
猫たちに留守中の報告を聞いているらしい。「ふむふむ」「それは困ったな」などと相槌を打っていた。
猫たちがにゃーにゃーと話している様子を見守っていると、ミケがこちらを振り向いた。
「陽翔」
「なに?」
「ちょっと出てくる。双子を頼んだ」
「おう、任された。気をつけてな」
俺が返事をすると、小さく頷いたミケはひょいと塀を飛び越えて、夜の闇へと溶けるように消えていった。
あいつはあいつで、ちゃんとリーダーをやっているらしい。ただの魚泥棒じゃなかった。
──俺もそろそろ頑張んないとなぁ。
放り出してしまった仕事のことを考えると少しだけ気が重くなる。
そもそも、ちゃんと描けるのだろうか。
でも描かなくては。
俺はこの家の大黒柱になったのだから。
明日から頑張ろう……この時の俺の想いはあっという間に覆されることとなった。
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「きゃー」
「待て待てー!」
ドタドタと騒がしい足音が部屋の中に響く。一軒家で良かった。そうでなかったらあっという間に苦情が来ていただろう。
だけど、それにしてもまだ荷解きが済んでいない部屋を走り回るのは危ない。
風呂上がり。タオルでガシガシと頭を拭きながら双子を止めようとしたときだった。
「うわっ」
「危ないっ!」
足を滑らせたレイを掬い上げるように助けた俺は、そのままバランスを崩して段ボールの塔を破壊してしまった。
「いたたた……」
「はると、大丈夫⁉︎」
「はると、ありがとう」
心配そうに覗き込んでくる二人へ大丈夫だと笑いかけ、頭をぽんぽんと優しく撫でる。
すると、二人がほっとしたように表情を緩めたので「だけど、危ないから片付くまでは走るの禁止」と低い声で言った。すると、ビクッと身体を縮こませた二人が「はーい」と小さな返事をする。
「よっと」
勢いをつけて立ち上がり、ダンボールからこぼれて散らばってしまったものを拾い集める。
「はるとー、これなに?」
「ん?」
ユウが手に持っていたのは、俺がデザイン学校時代に使っていたスケッチブックだった。
「あー……それな」
俺が答える前に、二人はスケッチブックを床に広げて覗き込んでいた。
「すごい!」「じょうず!」と大きな目を輝かせている。小さな手で次々とページを巡っていく二人になんだかこそばゆい気持ちになった。
絵を褒められるなんて、いつぶりだろう。
二人の飾りない褒め言葉が、乾き切っていた心にじんわりと染み込んでくる。
イラストレーターになることは、俺にとって小さい頃からの夢だった。
それなのに、求められるものと描きたいものとのギャップは思った以上に大きくて。
ありふれたイラストを描き、納期に追われ、ひたすら納めることを繰り返していたある日──それさえも描けなくなった。
何も浮かばない。何も心動かされない。
ペンが──握れない。
あのときの衝撃は、今も覚えている。
二度と絵が描けないんじゃないか。そう思った俺は廃人になっていた。
血迷ってこの家を衝動買いするくらいには。
ま、今は全く後悔してないけどね。
そう思ったとき、興奮気味にページを捲っていた二人が話しかけてきた。
「はると!これ誰が描いたの⁉︎」
キラキラした瞳を前に誤魔化すことなどできるはずもない。
「……俺」
すると、双子の瞳の輝きは更に増した。
「え!?はるとが描いたの⁉︎すごい!」
「すごいすごい!かっこいい!」
手放しで褒めてくれる二人に、照れ臭くなって口元を覆った。本当にそう思ってくれているのが伝わって来て、頰が緩んでしまう。
「はると、描いて!ユウとレイも描いて!」
「描いて描いて!」
縋るように抱きついて来た二人の体温は温かくて、ぎゅっと服を掴んでくる手が愛しくて。
──今なら描ける気がする。
なんとなく、そう思った。
「……描くか」
「いいの!?やったー!」
「ミケ残念だったねー、出かけちゃって」
「そうだねぇ」
しょぼんとする二人につい声をかけてしまう。
「また今度、描けばいいだろ」
「いいの!?はるとふとっぱらー!」
「ふとっぱらー!」
「……お前ら、意味わかって言ってる?」
苦笑した俺の言葉に、一瞬だけ言葉を詰まらせた二人がニコニコと誤魔化すように笑った。……分かってなかった訳ね。
まぁいいか。
「よし、描くぞ」
画材を入れた段ボールから色鉛筆を取り出した。
タブレットやパソコンを使うようになってからあまり握ることのなかったペンたち。
その中でもなんとなく、水彩色鉛筆を手に取った。
画材を持つのなんて、いつぶりだろう。
少しだけ緊張しながら紙に鉛筆を置く。
あんなに描けなかったはずなのに、いざ描き始めるとスルスルと手が動いた。
ポーズを決めた二人を見ながら、さささっと鉛筆を動かしていく。一筆ごとに絵が賑やかになり、自然と口元が緩んだ。
白い紙の上に少しずつ世界が立ち上がっていく久しぶりの感覚に、心が高鳴った。
「こら、動くなよー」
疲れてきたのか、もぞもぞと身体を動かしていたレイがその声にピシリと固まった。先ほどとポーズが変わっているが、あえて指摘はしなかった。
「よし、いいぞ」
大体は描き終わったため、二人へと声をかける。俺はそのまま仕上げへと取り掛かった。
「ふうー」と力を抜いた二人が、背中を合わせてぺたんとしゃがみ込む。そして、ハイハイをしながらこちらへと近寄ってきた。
「見ても良いけど、まだ触るなよ」
「おぉーすごーい」
「レイ、生きてるみたいねぇ」
「ユウ、かっこいいねぇ」
かっこいい?この絵を見て、どこからそんな感想が浮かんで来るんだか。
そう思ったけれど突っ込まない。絵の捉え方は人それぞれだから。二人が喜んでくれるなら、それでいい。
「よし!できた!」
「すごーい!」
「かっこいー!」
パチパチと手を叩いて喜んでくれる二人に、今晩ちゃんと仕上げをしよう、と心に決める。
俺は手を繋いでにこにこと笑う二人の座敷童を描いた。その絵は双子の大のお気に入りになり、
「飾る!」「ここに飾るの!」
二人の熱烈なおねだりに負けた結果、絵は額に入れられて玄関先に飾られることになった。
見る者の心をふわりと温かくするその絵が、この先たくさんの幸運を呼び込むことになるのだが──その時の俺は、まだ知る由もなかった。




