第二十五話 東京旅行編 伊藤家の夜
――あいつ、どこ行ったんだ。
ついつい視線を巡らせ、どこかに隠れた黒い影を探してしまう。
「世間様には隠していたんですがね……」
ことんと湯呑みが静かに置かれた音に、目の前に座った伊藤さんへと意識を戻した。
湯呑みを見ると、絶対に名のある作家さん作品なのだろう。俺の家の安物湯呑みとは何かが違う。何が違うのかは分からないけれど、なんとなく高そうだった。
部屋の隅には、双子たちが固まっている。そわそわとしている双子たちを視線だけで留めた。
見えないとはいえ、流石に人の家を自由に探検させるわけにはいかない。
「長年、身体の調子が悪くて。特に胸の痛みが酷かったのです。病院に行っても原因がよく分からず、医者にも匙を投げられる始末でして。本当に困っていたんですよ」
痛みを思い出してしまったのか。少し眉を寄せていた伊藤さんは、すぐに柔らかな笑みを浮かべて「どうぞ、食べてください」とお茶請けを勧めてくれる。
誘われるがままに少しだけ口に含むと、じんわりと上品な甘さが口に広がった。
俺の残りのお菓子を凝視しているレイの口によだれが垂れているのが見えて、思わず笑いそうになるのをぐっと堪えた。
「それが、柏木さんのキーホルダーをつけてから、痛みが治りましてね。アトリエ妖のSNSを見たら、同じような感想が沢山寄せられているじゃないですか。これは是非ともお会いして御礼をしなければ、と思ったわけです」
「本当に、ありがとうございます」と言った伊藤さんは、俺に向かって深く頭を下げた。
「いやいやいや!私は何もしてませんし!」
「いえ!絶対に柏木さんの絵の力です」
そう言った伊藤さんは、頑として譲らない。
参ったなぁ……キーホルダーだけでそんなに感謝されても……。
「あ、そういえば。隼さんから絵が欲しいとお願いされているのですが」
必殺、話題を逸らす戦法。
だってそれ以上なんと言ったらいいかわからない。まさか本当に邪気退散の効果があります、なんて言えるわけがないのだ。
「そうなんですが……あのあと、柏木さんが絵は売られていないとお聞きしまして。無理を言ってしまったのではないかと」
「いえいえ。大切にしてくれる方にお譲りしたい、というだけです」
そういうことにしている。
だって、力が強すぎて無理です。なんて一般人に言えるはずがない。
絶対に頭がおかしいやつ認定されてしまう。
「そうですか!では!」
パッと輝いた伊藤さんの顔は本当に嬉しそうで。そもそも隼さんの頼みなのだ。断わるはずがない。
「他でもない隼さんのお頼みですから。私が描いたことは、内緒にしてくださいね?」
「それはもう!隼くんには頭が上がりませんね」
内緒話をする少年たちのように秘密を共有した俺たちは、なんの妖がいいのか、どんな雰囲気がいいのかなど、絵の内容について詰めていく。
「では二日ほどお時間を頂きますね。いいんですか? 本当に泊まらせていただいて」
「是非是非。寂しい家ですので私も嬉しいです。奥の客間を、素人ながらアトリエもどきにさせてもらいました。そちらも是非使ってください」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
この屋敷には基本的に伊藤さんしかおらず、午後のみお手伝いさんが来るらしい。
つまり、伊藤さんが寝た後と伊藤さんが居ない午前中はフリータイム。ということで……。
「というわけで!これから二日間で、あの妖をとっちめてやります!」
「「えいえいおー!」」
アトリエ部屋に向かった俺(と妖たち)は、打倒悪い妖の作戦会議を開催した。
「どうやら、あの妖が伊藤様の痛みの原因みたいですね」
「やっぱりそうだよな」
月牙の声に頷いて同意する。
月牙のキーホルダーで痛みが軽減した時点で、そうじゃないかとは思ってはいた。けれど、この家に来たことで確信した。
今まで悪い妖というものに遭遇していなかっただけで、世の中には悪霊や悪い妖は結構居るみたいだ。
「どうやったら出てくると思う?」
「美味しそうな匂いがする陽翔殿がいるのです。一人でいたら出てくるのではないですか?」
「……俺って美味しそうなの?」
「妖と悪霊にとっては」
月牙は気まずげに視線を逸らし、双子は「僕たち食べないよー」と楽しげに笑っている。
そっか。俺って美味しそうなんだ……。
だからあんなに追われたのか。と納得していたら、突然ぞくりと寒気を覚えた。身体を撫でるような感覚が全身を這った。
――あ、見られてる。
「居るな」
「居ますね」
俺たちが気づいたことを察知したのか、一瞬だけ感じた寒気は瞬く間に消え失せた。なんと逃げ足が早い妖だ。
「おいおい、これ本当に捕まるのか?」
「そもそも、ここに我らが居るのにやってくる時点で間抜けな奴だとは思いますが」
「……確かに」
あまり賢くはないかもしれない。
「じゃ、狙い目は明日の午前中だな。夜は流石に避けたい」
「今日はどうされますか?」
「今日はもう疲れたし、寝る!絵は明日と明後日で描けるだろ」
伊藤さんからのオーダーは、犬と座敷わらしたちが遊んでいる絵が良いです、ということだった。ちょうど今回来ているメンバーということもあり、描きやすい。
二度と悪い妖がこの家に入れないくらい気合を入れて描いてやる、と俺の気合いも十分である。
何故こんなに俺が張り切っているかというと、それは夕食中、伊藤さんと話した話に理由があった。
伊藤さんは、売れる前から寄り添った仲のいい奥様が居たらしい。
言われてみれば、伊藤さんの左の薬指には、くすんだシルバーの指輪がはめられていた。
けれど、その奥様は五年前に病気で亡くなってしまった。その頃から伊藤さんの胸の痛みも増している、という話を聞いて俺は嫌な予感がした。
というより、それしかないだろう。
奥様の話をしてくれた伊藤さんの目は優しくて、切なそうで、本当に好きだったんだな、という想いがひしひしと伝わってきた。
そんなわけで、俺と会話を聞いていた双子たちの気合いも充分なのだ。
「まずは、英気を養うために寝ます!」
「「おやすみなさーい」」
「おやすみなさいませ」
ぱちっと電気を消すと、部屋が暗闇に包まれる。
しばらくすると、ガチャガチャとドアノブを捻る音が部屋に響いた。
何かがドアから入ってこようとしているが、全然入ってこれない。というより、入れるはずがない。
「入らせねーよ!ばーか!」
ドアの外まで聞こえるように煽ると、「きぃぃい!」という悔しそうな声がして、気配が遠ざかっていった。
こんなこともあろうと、部屋の入り口に月牙の絵を張っておいたのだ。入ってくることは出来まい、と俺は自分の力でもないのに、ふんっと鼻を鳴らした。
「陽翔殿、なかなか性格が悪いですな」
まだ眠っていなかった月牙がくつくつと面白そうに笑う。
「いや、あいつが悪いだろ」と返事をすると、少し間が空いて、「そうですね。妖の風上にも置けません」という少しだけ低い声が返ってきた。
「おやすみなさいませ」という静かな声に、「おやすみ」と返すと、暫くするとすうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
それにしても、俺って本当に美味しそうなんだなぁ……。
今日一日で襲いかかってきた悪霊たちの姿を思い出す。
それでも、あまり恐怖心を覚えていないのは、頼もしい仲間たちが共にいてくれるからで。
今も、俺を守るように両脇から抱きついて眠っている双子と、足元で丸くなっている月牙がいる。
「恵まれてるな……」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に拾われることもなく、部屋の闇へと静かに消えた。
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本日より一日一話、昼12時投稿に戻ります。
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