不穏な影
本部で報告を済ませたましろは、帰路に就いていた。
街中を歩いていた、その時――。
わずかな異変に気づき、ましろの表情が引き締まる。
少し先、空中に浮かぶ飛行車が目に入った。
車内には人の気配もなく、不自然さが際立つ。
街を走る自動車や飛行車は、超AIによる完全自動運転で効率的に制御されている。
そのため、空中で停止したまま動かない飛行車に、ましろは強い違和感を覚えた。
(あの車……何かおかしい)
その飛行車は、まるで何かを待っているようだった。
「イリス……あの車、調べてくれる?」
ましろはイリスに指示を出した。
イリスは視線を上げた。
その瞬間だった。
飛行車が急発進し、猛スピードで急降下した。
何者かにハッキングされ、遠隔操作されている動きだった。
狙いは、近くの飲食店から出てきた若い女性のようだった。
飛行車が急発進した瞬間、ましろは即座に駆け出した。
「イリス! あの車、止められる?」
「ちょっと……間に合わない……!」
「……なら、壊して止めるしかない!」
判断に迷いはなかった。
周囲に人がいる以上、できるだけ目立ちたくはなかったが、今はそんなことを言っていられなかった。
若い女性は突進してくる飛行車に気づいた瞬間、「キャー!」と悲鳴を上げ、その場に立ち尽くした。
そこへ、ましろは横から割って入った。
右足を振り上げ、踵落としをフロントへ叩き込んだ。
ドンッ!
凄まじい衝撃が車体を貫く。
飛行車は地面へ叩きつけられ、前部を大破させながら煙を噴き上げた。
あまりにも突然の出来事に、周囲の人々は一瞬言葉を失った。
「イリス!」
「了解!」
イリスはすぐにましろの肩から飛び立ち、飛行車に触れ、ハッキングを開始した。
目元が微かに光り、データ解析に集中する。
「発信元を追跡! 逃がさないよ!」
ましろが振り返ると、若い女性は何が起きたのか理解できないまま、その場に立ち尽くしていた。
「大丈夫? 怪我はないですか?」
ましろは落ち着いた声で尋ねた。
若い女性は呆然としたまま数秒遅れて頷いた。
「……あ、はい」
彼女の視線は壊れた飛行車に釘付けとなり、驚きを隠せない様子だった。
周囲の人々は足を止め、ざわめきが一気に広がった。
「何が起こった?」
「事故⁉」
周囲では驚きの声が次々と上がる。
スマートフォンを向ける者もいた。
若い女性は我に返り、声を震わせながら礼を言った。
「あ、あの……! 助けてくれて、本当に……ありがとうございます」
「気にしないでください。たまたま通りかかっただけですから」
その時、イリスの叫び声が響いた。
「見つけた!」
ましろが駆け寄ると、イリスは宙にホログラム地図を浮かべ、赤くマーキングされた住所が表示された。
「ここだよ!」
「ここから近い。すぐに向かうよ」
「うん!」
イリスは再びましろの肩に乗った。
ましろは手のひらサイズの機器を取り出し、ボタンを押す。
それは機械音を響かせながら伸長し、飛行ほうきへと変形した。
飛行ほうきが起動すると、ましろは腰かけ、地を蹴って急上昇した。
示された目的地へ向け、その場から一気に飛び立った。
詮索される前に動く――それが、ましろにとっての最善策だった。
現場は次第に落ち着きを取り戻していく。
周囲の人々も静かに散っていった。
だが――。
群衆に紛れる一人の女だけは、その場を離れなかった。
女は空の彼方へ消えていくましろの背中を、じっと見つめていた。
マーキングされた発信元は、十階建てマンションの五階にある一室だった。
ましろは空中に待機し、外からマンションを監視した。
しばらくすると、その部屋のドアが勢いよく開いた。
中からバックパックを背負った中年の男が飛び出した。
男は何かに追われるように周囲を見回し、早足で階段へ向かった。逃亡を急いでいるのは明らかだった。
イリスが特定した容疑者の顔と一致していることを確認すると、ましろはマンションの出入口上空で待ち伏せた。
そして――男がマンションから飛び出した瞬間、ましろは音もなくその背後へ降り立った。
男は背後の気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
ましろの姿を見た瞬間、男の顔から血の気が引いた。
「ひっ――!」
悲鳴を漏らし、踵を返して逃げ出した。
「逃がさないよ」
ましろは冷静にワイヤーガンを構え、引き金を引いた。
ワイヤーが鋭い音を立てて射出され、男の右足首へ正確に巻きついた。
男は派手に前方へ転び、地面を転がった。
ましろがゆっくりと歩み寄ると、男は地面に手をつき、這うように後退しながら、情けない声を上げた。
「ひぃー! ご、ごめんなさい! 許してください!」
額から大量の汗が流れ、その瞳は恐怖に揺れている。
「自分が何をしたのか、分かってる?」
ましろは一歩ずつ近づきながら、冷たく問いかけた。
「ひぃー、ごめんなさい。ごめんなさい」
男は涙と鼻水を垂らしながら、必死に許しを請うた。
ましろはさらにワイヤーを放ち、男を厳重に拘束した。
「どうしてあの女性を狙ったの?」
男は震えながら答えた。
「お、俺はずっと応援してたんだ……。金だってたくさん使った……」
「それで?」
「なのに、あいつは俺を見向きもしなかった! 他の男と仲良くしやがって……!」
ましろは冷たい目で男を見下ろした。
「だから殺そうとしたの?」
「ち、違う! 少し怖い思いをさせるだけで――」
「飛行車を突っ込ませておいて?」
男は言葉を失った。
ましろは深くため息を吐く。
「……最低」
ましろは躊躇なく非殺傷弾を撃ち込んだ。
男は悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
その後、駆けつけた回収班へ男を引き渡すと、ましろは振り返ることなく飛び去った。
再び帰路に就いたましろは、ふと気になっていたことを思い出した。
「イリス、さっきの件だけど……」
「大丈夫。記録は全部消したよ」
「そっか、ありがとう」
先ほどの一件についても、イリスはすでに情報工作を終えていた。
現場周辺の防犯カメラ映像は処理され、二人の姿は記録から消えていた。
素性がバレるわけにはいかない。
このような情報操作は、これまでも何度も行ってきた。
ましろは胸を撫で下ろした。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
数時間後――。
とある超高層複合ビルの最上階。
そこには、先ほど飛び去るましろの背中を見つめていた女がいた。
彼女はワイングラスを片手に、ソファへ深く腰を下ろし、優雅に脚を組んでいた。
目の前の巨大スクリーンでは、ましろが若い女性を救う映像が何度も再生されていた。
画面端には、ましろの顔写真とプロフィール情報が表示されていた。
その映像を無言で見つめるうちに、ワイングラスを握る指先に力がこもった。
次第に力は強まり――。
ミシッ。
ワイングラスに亀裂が走った。
次の瞬間――。
パリンッ!
グラスは女の手の中で砕け散った。
女は砕け散ったグラスにも目を向けず、低く呟くようにその名を呼んだ。
「白雪ましろ――」
スクリーンに映るましろを、女は射抜くような視線で睨みつけた。
「まさか……あの時、死んでいなかったなんてね」
女の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「……必ず消してあげるわ」
その瞳には、底知れぬ嫉妬と憎悪が渦巻いていた。




