最強のコンピューターウイルス『バフォメット』爆誕!
ヤギの視界いっぱいに、まるで異世界へ迷い込んだかのような景色が広がった。
ヤギは低く唸り声を漏らしながら、草原を駆け抜ける。
足を止め、周囲を見渡した。
そして、一人の少年を見つける。
足音を立てず少年の背後へ忍び寄ると、一気に飛びかかった。
「なんだ⁉」
少年は不意打ちに混乱し、必死にもがく。
だが、振り解くことができなかった。
やがて少年の体力ゲージが尽き、その身体は無数の光の粒子となって砕け散った。
ヤギは砕け散ったプレイヤーデータを貪るように吸い込み、再び次の獲物を探し始める。
プレイヤーを見つけるたび、躊躇いなく襲いかかった。
その姿は、獲物を求めて彷徨う飢えた猛獣そのものだった。
プレイヤーたちは次々と倒されていく。
被害は誰にも止められぬまま、急速に拡大していった。
その異常事態は、すぐにましろたちの耳にも届いた。
熱気に包まれていたロビーに、次第に不穏な空気が広がり始める。
ヤギに倒されたプレイヤーたちは、コンテニュー後にロビーへ戻ってきた。
自分を倒した相手を確認しようと戦闘ログを開いた瞬間――誰もが凍りつく。
「なんだ、これはぁああああ⁉」
「えっ、なんで⁉」
「……」
ロビーでは悲鳴と怒号が飛び交い、呆然と立ち尽くすプレイヤーたちで埋め尽くされた。
その矛先は、NPCの受付嬢へと向けられ、多くのプレイヤーが一斉に押し寄せる。
「現在、原因を調査中です。しばらくお待ちください」
受付嬢は冷静に答え、プレイヤーたちを落ち着かせようとした。
だが、騒ぎが収まる気配はない。
受付嬢の表情にも、次第に戸惑いの色が滲み始めた。
ましろと輝夜は異常事態に気づき、周囲のプレイヤーに事情を尋ねる。
そして二人は、プレイヤーたちが取り乱す理由を知った。
これまで積み上げてきたレベル、装備、所持金――。
全てのプレイヤーデータが、跡形もなく消失していたのだ。
輝夜の目が鋭くなる。
「ほう、データを喰らう怪獣か……」
「バグかな?」
「だろうな」
その時、ましろの耳にイリスの声が響いた。
『ましろちゃん!』
「イリス? どうしたの?」
『今、そのゲームで起こっていることは、コンピューターウイルスのせいなの!』
「コンピューターウイルス……?」
『ゲームサーバーに侵入したウイルスが、プレイヤーを襲ってデータを吸収してるの! しかも、そのたびにどんどん成長してる!』
「そういうことか……」
『それだけじゃない。奴は他のあらゆるサーバーシステムを乗っ取って、今――街中が大混乱になってる!』
「なっ――⁉」
ましろの目が見開かれる。
直後――。
壁の巨大スクリーンに、緊急映像が映し出された。
そこに映っていたのは、一匹の異形のヤギだった。
周囲の視線がスクリーンに集まる。
ヤギはプレイヤーたちへ襲いかかり、データを喰らいながら急成長していた。
さらに、ヤギが通った空間はバグのように崩壊し、漆黒の虚無へと変わっていった。
あまりにも悲惨な光景に、誰もが息を呑む。
「あのヤギが……コンピューターウイルス……」
『このまま放置したら、手に負えなくなってしまう』
ましろの表情が引き締まる。
「……事情は分かった。あのウイルスの暴走を止めればいいんだね?」
『うん! 転移ゲートを開くから、ちょっと待ってて』
間もなく、ましろの目の前に円形の転移ゲートが現れた。
「よし!」
ましろは気合を入れて一歩踏み出す。
すると、横から輝夜が割り込んだ。
不敵な笑みを浮かべている。
「あのヤギを討伐しに行くのだな。ならば、わらわも同行しよう」
「いいの?」
「無論だ」
「データを奪われるかもしれないんだよ」
「そなた、わらわが負けるとでも……?」
ましろの口元が緩む。
「……分かった。一緒に行こう!」
二人は頷き合い、転移ゲートへ向き直った。
そして、迷うことなく飛び込む。
転移ゲートを通り抜けると、そこはいつもと違う世界が広がっていた。
空気は重く淀み、空間そのものが不気味に歪んでいる。
大地は裂け、森林は崩れ落ち、海は荒れ狂っていた。
ましろと輝夜は上空から周囲を見渡した。
遠くの荒廃した大地で、ヤギが空間のデータを貪っている。
「いた!」
ましろは鋭く見据え、背中の大剣を引き抜く。
「くっくっく……まだ、わらわたちに気づいていないようだな」
輝夜はニヤリと笑みを浮かべる。
「先制攻撃じゃ!」
そう言うと、魔法の杖を掲げた。
頭上に巨大な魔法陣が展開される。
次の瞬間――轟音と共に、巨大な雷光が天から降り注いだ。
雷光が直撃し、ヤギの身体に激しい電流が走る。
ヤギは振り返り、二人の存在に気づく。
直後、ましろと輝夜の耳に通知音が響く。
視界の端にメッセージウィンドウが表示された。
二人はメッセージを開く。
『あそぶ?』
送り主は、コンピューターウイルスだった。
ましろは大剣を握りしめ、ヤギを鋭く見据える。
「悪いけど、あんたの遊びに付き合うつもりはない」
大剣を構え直し、冷徹に言い放った。
「今ここで――倒す!」
ましろと輝夜、そして世界を蝕むコンピューターウイルス。
三者はついに激突しようとしていた。
その戦いは、コンピューターウイルスによって全世界へリアルタイム配信されていた。
世界中の人々が画面越しに注目し、戦いの行く末を見守っている。
ましろは空を蹴り、疾風のような勢いでヤギへ突進した。
間合いへ踏み込み、大剣を振り下ろす。
「はあぁぁぁッ!」
大剣の斬撃が閃き、ヤギの角と激突する。
鋭い音と共に火花が散り、足元が大きく沈み込んだ。
ましろは押し切るように大剣を振り抜く。
ヤギの身体は吹き飛ばされ、地面を何度も跳ねながら転がり、巨大な岩へ激突した。
間髪入れず――。
「次は、わらわの番だ!」
輝夜が杖を掲げる。
無数の魔法陣が空中に展開され、そこから大量の光る竹槍が撃ち放たれた。
光の雨がヤギへ降り注ぐ。
轟音と共に次々と炸裂し、衝撃波が広がった。
周囲一帯が爆炎に包まれ、大地が砕け散る。
ましろは大剣を肩に担ぎ、輝夜も余裕の笑みを浮かべた。
「くっくっく……案外あっけないな」
しかし――。
空気が一変し、二人の表情が引き締まる。
二人は武器を構え直し、煙の奥を鋭く見据えた。
煙の奥に、不気味なシルエットが浮かび上がる。
四足だった身体が、不気味な音を立てながらゆっくりと起き上がる。
やがて、煙の中から現れたのは――。
巨大な角を持つヤギ頭の人型怪獣だった。
全身は黒い装甲のような毛皮に覆われ、瞳は妖しく輝いていた。
「進化した……!」
ましろは息を呑む。
「ほう……」
輝夜も目を細めた。
人型ヤギは首を鳴らしながら、ましろを鋭く見据えた。
次の刹那、爆発的な勢いで突撃する。
一瞬で距離を詰め、拳をましろへ叩き込んだ。
「速いっ!」
ましろは咄嗟に大剣で受け止めた。
凄まじい衝撃が炸裂する。
「くっ……!」
地面が爆砕し、ましろの身体が後方へ弾き飛ばされる。
ましろは剣を地面に突き立て、激しく削りながら後退を抑えた。
踏みとどまるや否や視線を上げ、大剣を構え直す。
その時だった。
輝夜は杖を振るい、横合いから巨大な雷撃を放つ。
だが――。
人型ヤギは静かに片手を突き出した。
半透明のバリアが瞬時に展開され、雷撃を真正面から受け止めた。
「なにっ⁉」
輝夜の目が見開かれる。
猛烈な衝撃と共にバリアが霧散した。
間を置かず、人型ヤギの掌へ灼熱の炎が収束していく。
次の瞬間、巨大な火球が撃ち放たれた。
「この炎……ザットンの技か!」
輝夜は空中で身体を捻り、火球を躱した。
即座に向き直り、目を細める。
「こいつ……怪獣の技が使えるようだな」
「そうみたいだね」
「だが――わらわたちの敵ではない!」
輝夜は再び杖を構える。
先端から閃光が一直線に放たれ、空気を切り裂いた。
人型ヤギは跳び退いて躱す。
閃光が地面を穿ち、円形の穴が空いた。
ヤギが軽やかに着地した瞬間、ましろは懐へ踏み込み、大剣を振るう。
人型ヤギは反射的に身を翻し、紙一重でその一閃を躱した。
間髪入れず、ましろは怒涛の連撃を叩き込む。
鋭い斬撃が装甲のような毛皮を裂き、赤黒い血飛沫を散らした。
人型ヤギの表情が初めて苦痛に歪む。
輝夜も杖を突き出し、追撃を放った。
無数の光弾が放たれ、空中で弧を描きながらヤギの身体を撃ち抜く。
二人は息の合った連携で攻め立てた。
ましろが接近戦で動きを封じ、輝夜が高火力魔法を叩き込む。
徐々に、人型ヤギは押され始めていた。
ダメージは与えているが、まだ余裕がある。
まるで何かを待っているようだった。
「バァァァァァァァァ!!」
人型ヤギが怒りと苦痛の入り混じった咆哮を轟かせる。
その衝撃波に押し返され、ましろは後方へ跳び退いた。
輝夜は得意げに言い放つ。
「これで終わりだ!」
杖を掲げると、頭上に超巨大魔法陣が展開された。
大気が震え、膨大な光の魔力が収束していく。
「天上の輝きよ――今ここに顕現せよ!」
その瞬間、人型ヤギの瞳が妖しく輝いた。
刹那――。
ヤギの姿が掻き消える。
それは、ボス怪獣が持つ瞬間移動能力だった。
気づけば、ヤギは輝夜の背後へ回り込んでいた。
手を突き出し、掌に黒いエネルギーが収束していく。
ましろは一瞬早く気配を察知し、咄嗟に叫んだ。
「後ろだよ!」
輝夜は反射的に振り向く。
だが、その時にはすでに遅かった。
ヤギの掌から容赦なく黒い光弾が放たれる。
「しまっ――」
詠唱中だった輝夜は回避が遅れた。
黒い光弾が炸裂し、輝夜の身体が爆炎に飲み込まれる。
「シャインナイト!」
ましろが叫んだその瞬間――。
人型ヤギはニヤリと嗤った。
その隙を逃さず、ましろの背後へ瞬時に回り込む。
掌を突き出し、黒い光弾を放った。
「――っ⁉」
光弾がましろに直撃する。
爆煙が一気に膨れ上がり、ましろの姿を完全に飲み込んだ。
人型ヤギは喉を震わせ、不気味に笑う。
やがて空間に黒い裂け目が走り、円形の転移ゲートが出現した。
人型ヤギは嘲笑うようにましろたちを見つめると、ゆっくりゲートへ踏み出す。
そのまま闇の中へ消えていった。
数秒後――。
ましろと輝夜は武器を振るい、衝撃波で周囲の煙を吹き飛ばした。
「よくもやってくれたな!」
輝夜は杖を構えたが、すでに人型ヤギの姿はない。
ましろは周囲を見渡した後、静かに息を吐いた。
「逃げた、か……」
輝夜は悔しげに眉をひそめた。
「くっ……!」
ましろは即座にイリスへ連絡を入れる。
「ごめん、イリス……逃げられちゃった」
『気にしないで。すぐに居場所を特定するから、それまで少し休んで』
「……分かった」
ましろと輝夜は転移ゲートを開き、ロビーへと戻る。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、ロビーに人影はなく、重い静寂だけが広がっていた。
ゲームの管理者により、プレイヤーたちは強制的にログアウトさせられ、広いロビーに残されたのは――ましろと輝夜だけだった。
二人は腰を下ろし、しばし休憩を取る。
輝夜は申し訳なさそうに口を開いた。
「すまぬ……わらわが油断したせいで、ヤツを逃がしてしまった」
「シャインナイトのせいじゃないよ。私も攻めきれなかったし……」
少し沈んだ空気を吹き飛ばすように、ましろは明るい声で続けた。
「大丈夫! 次、頑張ろう!」
「……そうだな」
輝夜の表情がわずかに緩んだ。
しばらくすると、ロビー内に通知音が響く。
世界中から、膨大な数のメッセージが二人の元へ届いていた。
輝夜はメニューを開き、届いたメッセージを表示する。
空中に多くのメッセージが浮かび上がった。
興奮気味の称賛、冷静な分析、無責任な中傷――様々なメッセージが次々と流れていく。
『面白かった!』
『二対一なのに、負けるなんてダサすぎる』
『俺なら勝てた!』
『二人ともよくやった!』
『結婚したい』
輝夜はメッセージを乱暴に閉じ、唇を噛みしめた。
「好き勝手なことを言いおって……!」
握りしめた拳が、悔しさを堪えるように小刻みに震えている。
その時、不意にイリスの声がましろの耳に響いた。
『ましろちゃん!』
「イリス! もう見つかったの?」
『いや、まだ居場所は掴めてないんだけど……あのコンピューターウイルスの呼称が決まったよ』
一瞬の沈黙の後、イリスは静かに告げた。
『――バフォメット。それが、コンピューターウイルスの名前』
「バフォメット……」
ましろは険しい表情で、その名を繰り返した。




