第十話 推し活にハマる私たちに向けて
最近、学校のあちこちで、同じような言葉が飛び交っていることに気づいた。
「尊い」
「今日も供給ありがとう」
「もう無理、天使すぎる」
「担当被り? やった、握手しよ」
最初は聞き流していた。しかし、あまりにも頻繁に耳に入ってくるので、さすがに気になり始めたのだ。私は本を読むふりをしながら、聴覚を全開にして、教室のあちこちの会話を拾い集めていた。
まず気づいたのは、クラスの女子、確か枝川さんという名前だったと思う。彼女が友人にこう話していた。
「昨日のライブ配信、ハルトくんがあたしの名前入りのうちわを見つけてくれてね、指差してくれたの。もう一生分の幸せ使い切った」
「えっ、いいなー! あたしも担当のソウマくんに気づいてほしい」
ハルトくんにソウマくん。どうも、アイドルらしい。
次に聞こえてきたのは、廊下ですれ違った男子二人組の会話だった。
「昨日の試合、佐伯が決勝ゴール決めたの、マジで鳥肌だったわ。どの試合観ても思うけど、ほんとメンタル強いよな。マジで感動したよ」
「わかる。おれ、佐伯のユニフォーム買おうか迷ってる。三万するけど」
「買え。推しに金落とすのは、ファンの義務だぞ」
どうも佐伯というサッカー選手を推しているらしい。
昼休みには、隣のクラスの女子が、友達に力説していた。
「あの◯◯のグッズ、新しく出たアクリルスタンド、絶対買う。◯◯の表情、原作の三巻の場面を忠実に再現してて、もう完璧すぎるの」
「わかる。あのブルーレイの特典もすごかったよね。あの◯◯の演技、あそこの台詞回し、マジ神だった」
さらに驚いたのは、放課後、職員室の前を通りかかったときだった。中から、私のクラスの担任ではない、社会科の教師と思しき声が聞こえてきた。
「いやあ、うちの選挙区の議員さん、演説がほんとうまくてね。この前の街頭演説、涙出そうになったよ。あの人、美人で頭がいいし、もし総理になったら、日本変わると思うんだよなあ」
先生まで〝推し活〟をしている。
……もう、逃げ場がなかった。
学校が終わり家に帰ると、鞄を置いて、私は早速ノートPCを開いた。
〝推し活〟という言葉自体は、以前から知っていた。誰かを応援する活動くらいの認識で、それ以上深く考えたことはなかった。でも今日、あれだけ多方面から浴びせられると、さすがに一度、真剣に向き合う必要性があると感じた。
早速検索してみた。推し活の定義、推し活にかける金額の統計、推し活の心理学的な分析、推し活が経済にもたらす影響。思っていたより、社会的に大きな現象らしかった。ある調査によると、推し活をしている人の年間支出は、平均で数万円から、多い人では百万円を超えるという記事もあった。ライブのチケット代、遠征費、グッズ代、円盤代、投票券など。ジャンルは違えど、みんな同じような構造でお金と時間を注ぎ込んでいる。
続いて、心理学的な分析の記事も読んだ。人は〝推し〟を応援することで、自己肯定感が上がる、孤独感が和らぐ、日常にハリが出る、といったことが書かれていた。
なるほど、悪いことばかりではなさそうだ。でも、読み進めるうちに、私の中で何かがざわつき始めた。
文学少女は物申す。
まず、悪いことばかりではないと、正直に認めよう。誰かを応援する気持ち自体は、尊いものだと思う。人間が何かに情熱を注ぐことは、生きる力になる。それは否定しない……。でも。
文学少女は物申す。
メアリー・アン・エヴァンスという人物が、ジョージ・エリオットのペンネームで書いた『ミドルマーチ』という小説がある。十九世紀イギリスの田舎町を舞台に、複数の人間模様を描いた大作だ。この小説に登場するドロシアという女性は、理想の男性像を思い描いて、実際の人間ではなく、その理想像に恋をしてしまう。結婚した相手は、彼女が思い描いていたような偉大な学者ではなく、ただの凡庸で狭量な男だった。彼女は実像ではなく、虚像を愛していたのだ。推し活における「気づいてもらえて幸せ」という感情は、これに似た危うさを孕んでいないだろうか。ステージの上のハルトくんが、枝川さんという個人をどれだけ認識しているかは、誰にもわからない。うちわを見て指を差した、その一瞬の行動の意味を、枝川さんは自分の都合のいいように解釈して、幸福を感じている。それは虚像への恋に近い。
もちろん、それでも幸せなら、いいじゃないか、という反論もあるだろう。
わかる。それも一理ある。でも、私が引っかかるのは、そこに投じられる時間とお金の量だ。
そこでもう少し調べてみようと思い、佐伯選手のユニフォームを三万円で買うという男子と、アクリルスタンドや円盤の話をしていた女子の会話を思い出した。
文学少女は物申す。
バルザックの『ゴリオ爺さん』という小説がある。ゴリオという老人が、娘二人に惜しみなく財産を注ぎ込み、最終的に自分は貧しいまま孤独に死んでいく話だ。娘たちは父の愛情を当然のものとして受け取り、財産が尽きた父を見捨てる。ゴリオの愛情は美しいが、その捧げ方はあまりにも一方通行だった。推し活における金銭の使い方も、この構造と無縁ではないと思う。グッズを買う、円盤を買う、ライブに遠征する。そのすべてが、〝推し〟という存在への一方通行の献身だ。もちろん対価としてコンテンツや思い出は得られる。でも、その関係性は本質的に非対称だ。ファンは推しの人生のすべてを知りたいと願うが、推しはファン一人一人の人生を、おそらく知らない。ゴリオ爺さんが娘たちにとってどういう存在だったかを思うと、この非対称な献身の危うさが、透けて見えてくる。
政治家を推すという話も、私は少し引っかかっていた。社会科の先生の「あの人が総理になったら、日本は変わる」という、あの言葉を。
文学少女は物申す。
ジョージ・オーウェルの『動物農場』という寓話がある。農場の動物たちが人間を追い出し、自分たちで理想の社会を作ろうとする話だ。最初はみんな平等だったはずなのに、次第に豚たちが権力を握り、独裁的な支配者になっていく。それでも多くの動物たちは、指導者である豚のナポレオンを盲目的に信じ続けた。「ナポレオンは常に正しい」というスローガンを、疑うことなく繰り返した。政治家を〝推す〟という感覚は、この盲目的な信頼と紙一重ではないかと思う。政策を吟味し、批判的に検討することと〝推し〟として応援することは、根本的に異なる態度だ。演説に涙して、「あの人が総理になったら」と夢見ることは、政治家を人気者として消費することであって、有権者として判断することとは違う。
私は椅子の背もたれに寄りかかって、天井を見上げた。我ながら、なかなか手厳しいことを考えている、と思った。でも、ここまで考えたところで、ふと、あることに気づいてしまった。
私は今まで、これらのことを、誰か他人の話として考えていた。枝川さんの話、佐伯選手を推す男子の話、社会科の先生の話。すべて、他者の推し活として、分析し、批判してきた。
でも、待て。
私自身は、どうなのか?
私は、ドストエフスキーが好きだ。
カフカが好きだ。
太宰治が好きだ。
彼らの新刊が出れば、いや、もう新刊は出ないが、彼らの新しい研究書や解説本が出れば、迷わず買う。彼らの生涯を調べ、手紙を読み、伝記を読み、生家の写真を見て「ここで生まれたのか」と胸を熱くする。
これは、〝推し活〟ではないのか?
いや、待て。文学は違う。文学は普遍的な価値がある。芸術的な深みがある。アイドルのグッズを買うこととは、次元が違う。
……おい、透花。本当に、そうなのか?
文学少女は物申す。
いや、この物申しは、少し苦しい。夏目漱石の『三四郎』の中で、主人公の三四郎は〝stray sheep〟という言葉に出会う。道に迷った羊という意味だ。自分がどこに向かっているのか、自分でもわからないまま彷徨う人間の姿を、漱石はその一言で表現した。今の私は、まさにstray sheepの気分だ。私はドストエフスキーの生誕地の写真を見て感動する。それは知的な営みだと信じてきた。でも、枝川さんがハルトくんのステージ写真を見て感動することと、構造的に何が違うのか。「対象が文学だから高尚だ」という理屈は、単なる自己弁護ではないのか。
私は、机の引き出しを開けた。中には、太宰治の記念館で買った、ポストカードが入っていた。太宰の顔写真が印刷された、ポストカードだ。
……これは。
これは、いわゆる〝推しの写真を持ち歩く〟というのと、何が違うのだろうか?
私は、ポストカードを見つめた。太宰治は、微妙な表情でこちらを見つめ返してきた。
時間を見ると、もうすっかり夜になっていた。私はPCを閉じると、机に突っ伏した。
推し活について、あれだけ論理的に、古典文学を引用しながら、堂々と物申してきたつもりだった。でも、蓋を開けてみれば、私自身が同じ構造の中で生きていた。文学という〝推し〟に、時間もお金も感情も注ぎ込んで、それを崇高な営みだと信じ込んでいた。
枝川さんと、私。どこが違うのか? 佐伯選手を推す男子と、私。どこが違うのだろう?
わからなくなってきた。わからないというのは、思っていたより苦しいことだと、このときしみじみそう思った。
私は机に突っ伏したまま、ポストカードの中の太宰治を、そっと横目で見た。
彼は何も答えてくれなかった。当たり前だ。だって、写真なのだから。でも、その沈黙が、今日はやけに、寂しく感じられた。
まったく、私はどうすればいいんですか? ねえ、太宰先生!




