第九話 エコーチェンバーの渦に呑まれて
最近、何かがおかしい。漠然とだが、そう思っていた。でも何がおかしいのかが、上手く言葉にできない。論破ブームも、陰謀論も、コスパタイパも、それぞれ違和感の正体はわかった。でも、今回の違和感はもっとぼんやりとしていた。霧の中に手を突っ込んでいるような感じで、掴もうとすると、するりと逃げてしまう。
最初に気になったのは今週の月曜日だった。私の前の席に座っている、普段おとなしい男子の石黒くんが、昼休みに友人と話しているのが聞こえた。
「あのニュース見た? やっぱ国のほうがおかしいんだよ。おれの見てるアカウントが全部同じこと言ってて、これはもう確定だよきっと」
「わかる。オレもそう思う。周りも全員そう言ってるし」
「そうだろ。みんながそう言ってるってことは、やっぱり真実なんだよ」
みんながそう言っているから真実、か。私はその言葉を心の隅にメモした。
次は火曜日。廊下で、別のクラスの女子グループが話しているのが聞こえた。
「アヤネちゃん、絶対に悪くないよ。あたしのフォローしてる人たち全員そう言ってるもん」
「だよね! 運営が悪いに決まってる。コメント欄も全部そういう意見だし」
「反論してる人、絶対アンチか運営の関係者だよ」
反論している人間は、全員敵か関係者。また心の隅にメモした。
水曜日には、食堂の中の斜め後ろから、男子グループの会話が聞こえてきた。確か名前は知らない、見たことある顔の男子たちだった。
「あのアニメさー、低評価つけてる奴らって絶対わかってないよな」
「そうそう。おれらん中では神アニメって言われてるのに」
「えっ、オレの界隈では最悪って言われてるけど」
一瞬、場が止まった。
「えっ、マジで? なんで?」
「なんか、あのキャラの扱いが酷いって。みんな怒ってた」
「いや、それはおかしくない? おれの周りで怒ってる人、一人もいなかったけど」
「オレの周りは全員怒ってたよ」
二人は互いに、相手の〝周り〟が信じられないという顔をしていた。
そして、木曜日。私のクラスで、普段あまり話したことのない女子、確か三好さんという名前だった気がするが、自分のスマホを見ながら隣の友達にこう言っていた。
「この人の意見、すごくよくわかる。わたしがずっと思ってたことを言ってくれてる感じ」
「わかる。あたしもこの人フォローしてる。コメントも全員共感してて、気持ちいいんだよね」
「そう! コメント欄が荒れてないし、まじ優しくて最高」
気持ちいいコメント欄。荒れていないコメント欄。それは同じ意見の人間しかいないコメント欄、ということではないか。
その瞬間、霧の中に手を突っ込み続けていた私の指先が、ようやく何かに触れた気がした。
木曜日の夜、学校から家に帰ると、私は珍しく本を開く気になれなかった。最近、こういう日が増えている。本を読む代わりに、ネットを見る日が多くなっている気がする。文学少女を自称しておいて、本よりスマホを手に取る日があるとは。
でも今日は、確認しなければならないことがある。
スマホを手に取り、SNSを開いた。
まず、いくつかのアカウントをざっと見てみた。政治系、エンタメ系、ライフスタイル系などそれぞれを、意図的にジャンルの違うものを選んで見ていった。
そして、あることに気がついた。同じ話題を扱っていても、フォロワーのコメントがまるで違う。あるアカウントでは、
「これは絶対に正しい」
「反対意見を言う人間は頭がおかしい」「同意しない人とは友達になれない」
というコメントが並んでいた。
別のアカウントでは、まったく逆の意見について、
「これは絶対に正しい」
「反対意見を言う人間は頭がおかしい」「同意しない人とは友達になれない」
というコメントが並んでいた。
言っていることは真逆なのに、構造がまったく同じだった。
どちらのコメント欄にも、反論はほとんどなかった。あったとしても、すぐに大量の反発コメントで埋め尽くされていた。異論を唱えた人間のアカウントには、
「この人やばい」
「ブロックしよう!」
というコメントがついていた。
これだ、と思った。この構造が、違和感の正体だった。
文学少女は物申す。
イワン・ツルゲーネフの『父と子』という小説がある。十九世紀ロシアの作品で、新世代のニヒリストと旧世代の価値観を持つ人間の対立を描いている。この小説が面白いのは、どちらの側も「自分は正しい」と確信していることだ。新世代の主人公バザーロフは、古い価値観をすべて否定する。旧世代の人間は、新しい思想を理解できない。両者は対話しているようで、実は互いに自分の世界の中だけで話している。エコーチェンバーとは、まさにこの状態だ。自分と同じ意見の人間だけに囲まれて、その意見がどんどん強化されていく。バザーロフは賢い男だったが、それでも自分の思想の殻を破れなかった。SNSのコメント欄は、デジタルのバザーロフを量産している。
さらにスマホをスクロールしていくと、別の光景が目に入った。
同じ人物について、真逆のハッシュタグが並んでいた。あるコミュニティでは「史上最高」と称えられ、別のコミュニティでは「最低最悪」と罵られていた。そして、どちらのコミュニティも、相手のコミュニティの存在を知らないかのように、自分たちの意見を、
「常識」
「当然」
「みんなそう思ってる」
と表現していた。
みんなそう思ってる。でも、〝みんな〟の範囲が違う。
文学少女は物申す。
シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』において、主人公のジェーンは、自分を取り巻く環境に何度も押し潰されそうになりながら、それでも自分の判断を手放さなかった。孤児として育ち、貧しく、社会的地位もなかった彼女が唯一持っていたのは、自分の目で見て、自分の頭で考える力だった。「みんながそう言っているから正しい」という論理を、彼女は一度も採用しなかった。エコーチェンバーの恐ろしさは、ジェーンが命がけで守ったその力を、心地よさで奪っていくことだ。自分の周りの人間が全員同じことを言っていれば、それが真実のように感じる。考える必要がなくなる。楽だ。でも、その楽さに感じる代償として、自分の目で見る力が、少しずつ、静かに、死んでいく。
石黒くんの「みんながそう言ってるってことは、やっぱり真実なんだよ」という言葉を思い出した。彼は悪意があってそう言ったわけではないだろう。
ただ、彼の言っている〝みんな〟が、同じ意見のアカウントしかフォローしていない〝みんな〟だということに、彼自身気づいていないだけだ。
スクロールを続けていると、今度は別のパターンが目に入った。政治的な話題のアカウントだった。Aという立場のアカウントのコメント欄を見ると、
「Bを支持する人間は全員馬鹿」
「あいつらとは話にならない」
「同じ日本人だと思いたくない」
という言葉が並んでいた。
次に、Bという立場のアカウントを見ると、
「Aを支持する人間は全員馬鹿」
「あいつらとは話にならない」
「同じ日本人だと思いたくない」
と言葉が並んでいる……まったく同じだ。立場を入れ替えただけで、使っている言葉が同じだった。
文学少女は物申す。
マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』において、主人公のハックは、大人たちの社会が〝正しい〟と
いうことに、何度も違和感を覚える。奴隷制度が当然だとされた時代に、彼は逃げ出した黒人奴隷のジムと旅をして、ジムが人間として尊厳を持った存在だと気づいていく。周囲の〝常識〟に飲み込まれず、自分の目で見たことを信じた少年の話だ。エコーチェンバーの中にいる人間は、ハックの逆だ。自分の目で見る前に、コミュニティの〝常識〟が答えを用意してくれる。逃げ出した奴隷を見つけたら通報するのが当然という〝常識〟の中にいたら、ハックはジムと旅に出られなかった。自分が属するコミュニティの常識が、視野の限界になる。それがエコーチェンバーの、最も深い罠だ。
スマホを持つ手が少し重くなってきた。
それから続けて見ると、今度はエンタメ系のコミュニティだった。あるアイドルグループのファンコミュニティを覗いてみた。コメント欄は、基本的に称賛で溢れていた。それ自体は別におかしくない。好きなものを好きと言う場所だから。でも、少し否定的な意見を書いたアカウントへの反応が、凄まじかった。
「運営乙」
「アンチ失せろ」
「こういう人間がいるから荒れる」
「全員でブロックしよう!」
組織的に異論を排除していた。
文学少女は物申す。
フランツ・カフカの『審判』において、主人公のヨーゼフ・Kは、ある朝突然、理由もわからないまま逮捕される。彼は何をしたのか、罪状はなんなのか、誰も教えてくれない。それでも裁判は進み、周囲の人間は「そういうものだ」という顔をしていた。エコーチェンバーの中で異論を唱えた人間への扱いは、これに似ている。なぜ排除されるのか、明確な理由はない。ただ、〝コミュニティの空気に反した〟というだけで裁かれる。しかも、カフカの裁判と違い、排除する側は正義感に満ちている。自分たちが誰かを不当に黙らせているという自覚がまったくない。これが最も恐ろしい点だ。
スマホを置いた。目が疲れてきた。一回ため息をついてから、本棚に向かった。
今日こそ本を読もうと思った。スマホを見るより、本のほうがずっといい。活字の海に潜れば、この気持ち悪さが少し薄れる気がした。
本棚の前に立って、背表紙を眺めた。どれにしようかと考えながら、ふと、自分のことを振り返った。
今日は違うが、普段私がSNSで見るアカウントは、私がフォローしているもの、もしくは、アルゴリズムが「あなたが好みそうなもの」として差し出してくるアカウントだった。
私はエコーチェンバーを批判した。異論を排除するコミュニティを批判した。同じ意見の人間だけに囲まれることの危険性を、ブロンテ、トウェイン、カフカを引いて論じた。
でも、待て。私が普段フォローしてるアカウントは、どういうアカウントか。
本の紹介をするアカウント。文学についての考察をするアカウント。古典文学の解説をするアカウント。
全員、本が好きだ。全員、活字を大切にする価値観を持っている。全員、「本を読まない人間は何かを失っている」という方向の意見を持っている。私はその人たちの投稿を見て、「そうだそうだ」と思ってきた。コメントはしないが、心の中で頷いてきた。
それは……。それは……もしかして……。
文学少女は物申す。
いや、待て! 今度こそ、本当に待ってくれ! 私はさっきまで、エコーチェンバーを批判した。自分と同じ意見の人間だけに囲まれることの危険性を、縷々述べた。でも、私自身のSNSの使い方を振り返れば、本好きのものしかフォローしておらず、本を読まない人間を内心で批判し続け、古典文学の価値観を絶対的な正解として疑ったことがない。これはなんだ? これはまさしく、私が批判したエコーチェンバーそのものではないか? 文学というコミュニティの中で、「本を読む人間は正しい」、「本を読まない人間は何かが足りない」という意見が反響し続けて、それを私は真実だと思い込んでいる。バザーロフも、コメント欄の人間たちも、みんな「自分は正しい」と思っていた。私もずっと、「自分は正しい」と思っていた。
本棚の前で、私は固まった。手が、伸びない。読もうとしていた本の背表紙が、目に入っている。でも、手が動かない。
私が今まで積み上げてきた「物申す」は、正しかったのだろうか? 古典文学を引いて、論理を積み上げて、世間に対して物申してきた。でも、その「物申す」のための土台である私の価値観自体が、文学というエコーチェンバーの中で育まれたものだとしたら……。
本を読むことは正しい。活字は大切だ。深みのない物語はつまらない。コスパタイパで本を切り捨てるな。私はずっとそう言ってきた。
でも、それは私が〝文学を大切にする人間〟だけに囲まれてきたから、自明の真実として感じてきただけかもしれない。
石黒くんは「みんながそう言ってるから真実」と言った。私は「文学がそう言っているから真実」と言ってきた。
構造がまったく同じではないか。
本棚の本たちが、今日は少し遠く見えている。私はしばらく立ったまま、動けなかった。
窓の外では、夜風が木の葉を揺らし、その音だけが、静かに聞こえていた。




